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帰宅

 風雨にさらされた扉に朝日が当たっているのが見える。とてもとても懐かしい世恋さんのお家の扉だ。私はその玄関の扉を開けるや否や、そのまま中に飛び込んだ。


「歌月さん、ただいまです!」


 だが私の予想に反して家の中は静まり返っている。もしかしたら歌月さんは不在なのだろうか? もし不在だったらとても残念だ。無事な事を何よりも早く知らせたいのに……


 居間に入って辺りを見回すと、微かに酒の匂いが籠っているのが分かった。居間の長椅子の上から長い足と鳶色の豊かな髪が床に落ちている。慌てて長椅子の横に行くと、床に赤葡萄酒の瓶と銀色の杯が転がっていた。まだ登り切っていない朝の光がその体を微かに照らしている。


『えっ!生きています!?』


 よく見ると長椅子に横たわる人物の豊かな胸が、かすかに上下しているのが分かった。良かった生きている……というか、もしかして酔いつぶれています? ちょっと不用心すぎませんか?


 私の気配に気が付いたのか、長椅子に横たわる人物が目の上においていた腕を面倒くさそうに動かした。そして朝日の気配に少しばかり眩しそうにしながらその目を開ける。開いた瞼の向こうから鳶色の目が見えた。まだ焦点が結ばれていないのか、その目は少しぼんやりとしている。


「風華の惚けた面かい。明け方の夢としては悪い方じゃない」


 そう言うとその人物は頭をわずかに動かして、右手を長椅子の下に伸ばそうとした。もしかしてまだ飲むつもりですか?


「歌月さん、ただいまです」


 私は彼女の右手を握りしめると、もう一度彼女に告げた。彼女のまだぼんやりとした目が、私の顔から体へと通り過ぎて再び顔に戻る。私を見つめる目が大きく見開かれた。


「風華、あんた本物なんだね!」


 歌月さんは長椅子から跳ね起きると、私の体を強く強く、息が出来ないくらい強く抱きしめた。私の体に歌月さんの豊かな胸が押し付けられ、私の顔が彼女の長く豊かな髪で覆われる。そして耳元からは歌月さんのむせび泣くような嗚咽の声が聞こえてきた。


「歌月さん、ただいまです。心配をおかけしてすいませんでした」


 私は歌月さんの耳元でそう小さくつぶやいた。


「心配? そうだね……とても心配だったよ。でもね、なによりもとても寂しかった」


 私の耳元で歌月さんの絞り出すような声が小さく響いた。


「私はいつからこんなに弱い女になったんだろうね」


 そう言うと歌月さんは私から体を離すと、私の顔をまじまじと見た。彼女の鳶色の目が、窓から入っていた夜明け前の明かりを黄色く映している。


「風華、全部あんたのせいだよ!」


 そう怒鳴るように言うと、再び私の体を抱きしめてくれた。


「歌月さん、私もです」


 私の目からも涙が流れた。この人に会ってから一年もたっていないというのに、この人に抱きしめられていると、とても懐かしく安心する思いがする。


「私もとっても寂しかったです!」


 今度は私から彼女を強く、強く抱きしめた。


* * *


 食卓の上では世恋さんが淹れてくれたお茶が清々しい香りを放っている。だが洗い場の方からは多門さんの不平の様な悲鳴のような、よく分からない声も聞こえていた。その声に続いて美亜さんの叱責の声も響いてくる。


 どうやら多門さんは体に溜まりまくった汚れを落とそうとしていて、それを手伝おうとしている美亜さんとの間で何かやりあっているらしい。


 その声を耳にした世恋さんが、少しばかりあきれた表情で私に向かって両手を上げて見せた。私も世恋さんに肩をすくめて見せる。でも許してあげてください。肉屋の乙女の大好きな、べたな恋愛小説の世界そのものですからね!


「それで、あんた達は一体どこで何をしていたんだい。隠し事は一切無しだよ」


 そう言うと、食卓の向かい側に座った歌月さんが、寝癖を直す為か長い髪を手でかきあげながら、私達を見回した。そして最後に碧真さんの方をじっと見る。


「あんたはあの監獄に居た碧真でいいんだよね? だけど死んだはずの男が揃いも揃って現れるなんてのは、この世の終わりって奴かい?」


 頭をかきむしると呆れたように呟いた。


「そうですね。私も多門さんも死んだことになっていましたからね。多門さんについては私もびっくりですよ」


 そう答えると、碧真さんは歌月さんに向かって両手を上げて見せた。


「それにあんたは実は何人も居て、毎回別の奴に入れ替わっているんじゃないよね?」


 歌月さんが疑わしそうに碧真さんを見ながら告げた。


「女性の化粧と同じですよ。それでどれだけ化けられるかはよくご存じでは?」


 碧真さんの言葉に、歌月さんが良く分かっているとでも言うように苦笑して見せた。


「それで、あんたと実季はここから連れ去られたという事でいいんだよね?」


「はい、歌月さん。でも最初に私から歌月さんにお伝えすることがあります」


「改まってなんだい?」


 歌月さんが怪訝そうな顔をして私を見た。たとえ歌月さんからどれだけ非難されようとも、これは私がはっきりと歌月さんに告げるべき事だ。


「昨日の夜に歌月さんの叔父様を、月貞結社長を殺しました。手に掛けたのは私です。私が殺しました」


 歌月さんが一瞬だけ驚いた表情をしたが、すぐに私に向かってゆっくりと首を横に振って見せた。


「風華、あんたは何も気に悩むことはない。あの男は私の叔父だったかもしれないが、それが何だい? うちの組に手を出したんだよ。あんた達の無事が分かったら、私が自分の手で必ず殺してやるつもりだった。むしろこの手で殺せなかったのが残念で仕方がないくらいだ」


「ですが……」


「風華、この件で私があんたに何か思うところがあるなんて考えているのなら、本気でぶっ飛ばすよ!」


 やばいです。歌月さんの目は本気です。何か一言でも言ったら本当にぶっ飛ばされます。


「歌月さん、了解です」


「それでいい。全て忘れな。ところで冥闇卿は? あの男の側にはあの女がいたはず。おかげでこちらも動くに動けなかった」


「確証はありませんが、冥闇卿も月貞結社長と一緒に遠いところに行かれたようです」


「本当かい? 二人とも居なくなったとしたら、今の城砦の体制は持たないね」


 歌月さんの言葉に碧真さんも同意して見せた。


「でしょうね。今の仕組みは月貞結社長あってですから間違いなく大混乱ですよ。次を誰にするかという話も出てくるし、次を狙う奴が点数稼ぎのつもりで、犯人探しをしようとする等もあるかもしれません」


「あの男を殺った件はもちろん無かった事にするとして、それを切り離しても、殺されかかった件を誰にどう訴え出るかはよく考えないといけないね」


「白蓮さん達の状況はどうなっているのでしょうか?」


 世恋さんが歌月さんに問い掛けた。それは私も一番気になっているところだ。白蓮や皆は無事なんだろうか? 無事ならいつ戻って来れるのだろう。


「こちらからも色々と探りはいれたけど梨のつぶてさ。だけど次の潜りの組の話は出ていない。そこだけが今のところは希望って奴だよ」


 そう言うと歌月さんが深くため息をついてみせた。そうだった。結社長が居なくなったからと言って、まだ何も終わったわけじゃなかった。


「このお茶のお礼に、それについては私から情報をお教えします。赤毛組の方々は、この城砦に向かって戻られている途中のはずです。無事に戻って来られるかどうかの保証はありませんが、無事ならそれほど遠くない内に連絡可能な場所まで戻って来られると思います」


 戻ってきているという事は、まだみんな無事だという事だよね!


「これはごく一部の人間しか知らない情報ですので、取り扱いには注意をお願いします」


「歌月さん、世恋さん、実季さん!」


 立ち上がってみんなを見回す。


「私がどうだとか、どうなるかなんて、どうでもいい話です」


「どうでもいい?」


 歌月さんがあっけにとられた顔で私を見ている。


「そうです。もう済んだ話です。それより戻ってくる人達にいっぱい美味しいものを用意してあげましょう。じゃないと私が百夜に食べられます」


「それよりもどう身の安全を確保するか考えるほうが……」


 碧真さん、横からごちゃごちゃとうるさいですよ。食べ物が無かったら、私が百夜に食べられるじゃないですか? 食べ物を用意することが、私にとって一番の身の安全です!


「だから、これから皆で買い出しです!」


「はい、お姉さま。了解です!」


 実季さん、流石は我が弟子です。何が一番大事かよく分かっています。


* * *


「本当に買い出しに行ってしまいましたが、良いのですか?」


 走り去る荷馬車の馬の蹄の音に耳を傾けると、碧真は呆れた顔をして、部屋に残った歌月と世恋を見回した。洗い場の方では相変わらず多門と美亜のやり取りが続いている。


「そうですね。好きにさせてあげましょう。実季さんが居るから大丈夫だと思います。どう身を守るかとかは私達で考えればいい話ですし、それに歌月さんは既にどうするか決めてますよね?」


 世恋はそう碧真に告げると歌月の方をふり返った。


「やっぱり兄弟だね。あんたは変な所であの兄貴に似ている。叔父が死んだのなら私の出番はない。洗い場にいる二人に遠見卿のところに説明に行ってもらうのが一番だよ。何処まで説明するかも彼らに決めてもらうのが一番だ。だから、夫婦喧嘩にもならないやつを終わりにして、さっさとこっちに来るように言って来てくれないかい?」


 そう言うと、歌月は世恋に向かって洗い場へとつながる廊下の方を指さした。


「嫌です」


 世恋が歌月に露骨に嫌そうな顔をすると、首を横に振って見せた。


「なんだって?」


「私も年相応の乙女です。殿方がいる洗い場になど行けません」


「乙女?」


 歌月が驚いた顔で世恋を見る。


「それが何か? それに二人の邪魔に入るのも嫌です。妬けますからね。なので、お二人のどちらかにお願い致します」


「あんたね、あの二人に焼きもちを焼くなんて、もしかして風華から何か変なもんでもうつされたんじゃないのかい?」


 碧真が右手を上げて二人の間に割り込んだ。


「それは私が承りましょう。それが終わったら、私はここをお暇させていただきます。この後で少しばかり遠いところに行かないといけないのですよ」


「忙しい用事でもあるのかい?」


 歌月の問いに碧真が頷いて見せた。


「はい。私達をここに運んできてくれた人達が私を待っているはずです。それと、お二人にはお伝えしておきます。非公式な話ですが、私の母は壁の国の大司教なのですよ。私の母が彼女に直接伝えましたから、これは風華さん達も知っている話です」


 碧真の言葉に、歌月と世恋がお互いに顔を見合わせた。


「分かった。その件は後で風華から詳しく聞く。白蓮達の件で、風華の前では話せない事がまだ何かあるんだろう?」


「流石ですね。彼らは穴で『竜』を狩ったのですよ」


「えっ!」「何だって!」


 世恋が短い叫び声と共に椅子から立ち上がった。その勢いに食卓の上の茶器がカタカタと音を立てる。


「穴とか言うのを確認して、戻ってくるだけじゃなかったのかい?」


 歌月もあっけにとられた顔で碧真の方を見ている。


「事実です。変わるのは城砦だけでは無いようです。これが世に広まれば壁の国は間違いなく混乱に陥るでしょう。従兄からの依頼で、彼を助ける為に国に戻らないといけないようです。風華さんが戻られたら、どうかよろしくお伝えください」


「挨拶抜きに行くと、今度会ったときに風華がうるさいよ」


 歌月言葉に碧真が苦笑いを浮かべた。


「そうですね。でも顔を見て別れを告げれば、きっと私の方が寂しく感じてしまうでしょう」


 碧真はそう歌月と世恋に伝えると、上着の内衣嚢(ポケット)から小さな革袋を取り出して食卓の上に置いた。


「これは私を待っている者から、いや、壁の国から皆さんへのささやかなお礼です。幻視の力が呪符されたマ石です。きっとこの先で役に立つと思います」


「碧真さん」


 歌月が碧真に声を掛けると椅子から立ち上がった。世恋もそれに続く。


「何でしょうか?」


「組の者を助けて頂いてありがとうございました。このご恩は私達組の者一同、決して忘れません。私達の剣にかけて、貴方が森に居ても居なくても、私達の剣はこのご恩を貴方に必ずお返しします」


 そう碧真に告げると、歌月と世恋は二人で深々と碧真に向かって頭を下げた。


「歌月さん、世恋さん、それは全く逆の話ですよ」


 碧真は慌てて椅子から立ち上がると、二人に向かって顔の前で手を振って見せた。


「私と母はみなさんの組長さんに命以上のものを救われたのです。これは私と母からの、みなさんの組長さんへのささやかな恩返しです。ですが皆さんのお気持ちは十分に受け取らせていただきました」


 そう告げると二人に向かって笑みを浮かべて見せた。そして二人に向かって右手を上げる。それを見た歌月と世恋も碧真に向かって右手を上げた。


「皆が良き狩り手であらんことを!」


「皆が良き狩り手であらんことを!」


 碧真の言葉に歌月と世恋が同じ台詞を返した。


「森が無事に皆を返してくれますように」


 朝日を浴びる居間の中に三人の言葉が同時に響いた。その日差しには既に春の気配が感じられる。そして洗い場では、多門と美亜のやり取りが未だに騒がしく続いていた。

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