月貞
「失礼いたします」
碧真さんはそう答えると左手で扉を奥へと押した。それに合わせて荷台をゆっくりと前へ進める。その荷台の上に置かれた鉄瓶の注ぎ口からは、白い蒸気がかすかに上がっているのが見えた。
私の心臓の鼓動は今にも爆発しそうな音を立てている。手に握った小刀の柄が手汗で濡れているのも分かった。
「美亜君、君の横に居る人たちの体の自由を奪い給え」
突然に扉の向こう側から男性の声が聞こえた。首筋にちりちりする何かが走る。碧真さんが短弩を手に、荷台を飛び越えて扉の中へと飛び込んだ。鉄瓶と茶器が廊下の方へ飛んで白い湯気を上げる。
だが、「うっ!」と短いうめき声を漏らすとそのまま前へと倒れこんだ。碧真さんに向かって美亜さんが手を向けているのが見える。
『一体……一体何が……起きたの!』
私は目の前で起きていることが何も理解できずにただ固まっている。だが扉の影にいた世恋さんが素早く立ち上がると、荷台の上から美亜さんを狙って短弩を放った。
だが美亜さんは体を一回転させて荷台の陰に入ると、その手のない左腕を荷台の上の世恋さんに向けた。世恋さんの体が扉にもたれかかるように倒れる。気がつけば碧真さんの横では、隠密の力が解けた実季さんの体が仰向けに横たわっていた。
『どうして!?』
「美亜君はそのまま動かずに大人しくしているんだ。よくやってくれた。それに言う通りに体の自由だけを奪ってくれたようだね。意識まで飛ばされると僕の楽しみがなくなるというものだ」
再び男の声が響いた。その声に今度は美亜さんがまるで凍りついた様に、実季さんを撃ったままの姿勢で固まっている。
「お嬢、どうだい? 必ず来るって言っただろう」
「自慢にもなりません。それくらいの事は誰でも分かることです」
今度は奥から女性の声が響いてきた。何処かで聞き覚えのある声だ。そうだ、初めて多門さんにあって吊るされそうになった時に聞いた声だ。冥闇卿だ。
「そうかい? 君達のような玄人と違って、僕は荒事は得意じゃないんだ。『僕みたいな素人にしてはなかなですね』とか言ってちょっとは褒めてくれてもいいんじゃないかな?」
廊下の壁に男の影が映ったかと思ったら、少し白いものが頭髪に交じった、少し小柄な男性が扉の近くまで進んできた。そして床に転がっている人々を見下ろす。
「でも荷下ろし場であれだけ派手な事故があれば、誰だって警戒するか。確かに自慢にもならないな。君達は自分達の力を過信しすぎてはいないか? 力に頼りすぎの典型的な失敗という奴だよ」
「な……何で……」
美亜さんが絞り出すように声を上げた。
「やはり落夢卿だね。そんな男の姿に化けるとは嫁入り前のお嬢さんとしては少々はしたなくはないか? それにそれは僕の台詞だよ。結社に弓引くとはどういうつもりだ? 君は二つ名持ちになるときに、結社とこの城砦に対して忠誠を誓うと、代表者たる僕の前で誓約しただろう」
男はそう告げると、美亜さんの顔を覗き込んだ。私の位置からは良く見えないが、美亜さんの体が怒りに震えているのが分かる。だがその体を動かすことは出来ないらしい。
「それを忘れたのかい? いや忘れていないから僕の言う事を素直に聞いてくれたのか。これは失礼した。濡れ衣だったね」
そう告げると、今度は碧真さんの横へと移動した。
「ささやき君。僕は君を僕の右腕としてかなり重用したと思うのだけど、その結末がこれかい?」
そう言うといつの間にか彼の背後にたっていた「おばさん」、いや冥闇卿の方を振り向いた。彼女は私から見ると男の陰になる位置でよくは見えないが、薄手の部屋着に肩掛けを羽織っただけの姿でみんなを見下ろしているらしい。
「お嬢、僕の人生って奴はどうしてこうも裏切りばかりなんだろうね。僕としては精いっぱい誠実にやっているつもりなんだけどな」
「自分の心を映せる鏡があれば良かったのでしょうね。そうすればその原因とやらはすぐに分かったかもしれません」
結社長が冥闇卿に向かって両手を上げる。そのしぐさに女性が溜息をついた。
「私にはよく分かりませんが、息子という者は最後は母親に忠実なのでは? もっともあの女なら息子だって使いつぶしかねません。それより貴方がこの件で我がままを通したせいではないですか? あの女にとってはあの国同様に貴方も既に用済みだという事ですよ」
「桃子にも裏切られたしね。僕は本当に裏切られやすいな。それともそれが女性の本質かね?」
男が頭を上げて天井を仰ぎ見るとそう呟いた。そして顔を下ろすと少し呆れた顔をして碧真さんを見る。
「それは違いますよ。人間の本質です。どうでもいいですが、私としては昼の書類仕事の疲れもあるので、さっさと始末して眠りたいのです。あなたの趣味になどつきあってはいられません」
床に伸びる彼女の影が両手を上げて見せた。
「そうつれなくしなくてもいいじゃないか。自分の命がかかっていた件なんだよ。少しは楽しませてもらっても罰は当たらないと思うな。それにアルの妹はまだ殺す訳にはいかない。アルに対する切り札だ」
そう言うと背後の女性の方を振り返った。
「でもマイン卿もまだ若いくせに色々やってくれるな。流石は人形遣いだ。今後の対応は少し考えないといけないね。彼女は何処にいったんだ?」
「もちろん隠してあります。見えたら貴方だって操られかねない。まあ、一度他人に操られる気分を味わってみるのも貴方にとってはいい薬かもしれませんね」
「おいおい、僕だって怖いものぐらいはあるよ」
そう言うと男は顔の前で手を振って見せた。
隠す?
二人は扉の入り口にもたれかかるように座り込んでいる世恋さんを前にして、一体なんの話をしているのだろう。私にはさっぱり分からない。話はよく分からなかったが、旋風卿への人質の為だろうか? この二人は、世恋さんだけは殺すつもりがないらしい。
「こ……ころ……してやる……絶対に……殺してやる!!」
美亜さんの必死の声が響いてきた。ごめんなさい。もうちょっとだけ待ってください。二人が私からよく見える位置に来たらすぐにこいつらを殺して助けます。
「落夢卿、しつこいよ。心配しなくてもすぐに多門君のところに送ってあげるから、少し静かにしていてくれないか?」
そう言うと背後の女性の方をふり返った。
「お嬢、分かったよ。おふざけはここまでだ。さっさとこいつらを遠いところに送ってあげるといい。せっかく君が僕の寝室に居てくれているんだしね。僕も明日は若に対して色々とやることがある」
「ああ……」
首筋のあたりにチリチリなんてもんじゃない、とんでもない違和感を感じる。それと同時に美亜さんの口から微かなうめき声が漏れてきた。美亜さんの体が仰向けに倒れ、私の位置からでもその表情が見えた。その目は開いているがどこも見ていない。
これは……同じだ。誰かが神もどきに支配される時と同じだ。この人は神もどきと同じような力が使えるんだ!!
男が碧真さんの横に倒れている実季さんを覗き見る。実季さんの顔も苦悶の表情を浮かべながらもその目は何処も見ていない。
「この子は知らないな。ささやきが使っていた裏の人間かい?」
「そうね。この子は……この子も化けているのね!この子が居るという事は、あれもここに居る!」
「あれ? 誰だい?」
「赤毛よ!」
男の問に女性が答えた。いけない。ばれた。それに彼女を倒さないとみんながやられる!
たれ幕の間から飛び出して小刀を頭の後ろに振る。その瞬間に彼女の目が私を捉えた。首筋に誰かが縋りついて来たかの様な重さを感じたが、そのまま小刀を彼女の心臓めがけて振り下ろす。その薄着とこの距離なら私の投擲でも心臓を捉えられる!
「うっ!」
何かが前を横切った。私の投げた小刀は冥闇卿ではく、私の前に立ちふさがった男の胸へと突き刺さっている。男が胸を押さえて床に膝をついた。
『外した?』
次を、次を投げないと。革帯の小刀に手をやろうとした瞬間、後ろから誰かに足を払われて床に体を押し付けられた。そして後ろで腕を決められてしまう。私の首元には私が抜こうとしていた小刀の冷たい感触があった。
「だい、だい……丈夫かい……御影……」
「ええ、私は大丈夫」
「それは……良かった。僕は……もう……駄目かな……」
「そうね。刃が肺に達している。抜いても出血で窒息するわ。苦しみたくなければ私が全てを止めてあげる」
男は仰向けに倒れこみながらかすかに手を振って見せた。
「君の力は……、」
「そうね。あの白蓮という子がマ者から見えないように、私達の力はこの子達には効かないみたいね」
「僕の……仮説は……証明……できたという……こと……かな……」
「そうかもしれない。ごめんなさい。私にはよく分からないわ」
「そうだね。彼女に……石を……返してあげてくれ、それに地図もだ……きっと必要に、なるだろう。それに……御影……君は……もう……自由……だよ」
「自由?」
私の上で少し驚いたような、戸惑ったような声が漏れた。
「そうだ……誰もが……望みながら……手に入れにくい……ものだよ……」
「そんなものは本当にあるのかしら?」
「ああ、僕は……あると……信じている……僕にとっては……君と……同じぐらい……大切なものだ……」
「そうね。あなたが言うのならそうなのでしょう」
「僕はいつも……令に……嫉妬していた、君の心は……常にあれの方だけを……向いていた。愚か……だったよ……だけど……令は……舞歌は……僕を……許してくれるだろうか……」
「月令様に舞歌姐さんですよ。許すに決まっています。それに貴方は皆さんとの誓約を果たしました。『竜』を狩ったのです」
「そうだね……そうだった。愛して……いたよ、御影、ずっと……ずっと……」
男が荒い息をしながら必死に言葉を紡ぐ。
「分かっています。ずっと分かっていました」
その最後の言葉を待っていたかのように、胸の小刀を抑えていた手から力が抜けて、体の横へと滑り落ちて行く。そして私を押さえつけていた冥闇卿の手がわずかに震えたように感じられた。




