横恋慕
「朝霞さん、本当にごめんなさい。部屋に入らないように私の方で警告しておくべきでした」
『セレン様が私に向かって頭を下げている!』
朝霞はその態度に当惑した。勝手に目を回して倒れた私が悪いのに、頭を下げさせるなんてとんでもないことだ。
「セレン様、どうかお許しください。セレン様に頭を下げられるとどうしていいか……」
朝霞の口から思わず本音が出てしまう。侍従頭からは今日からお部屋の中で世話をするように言われている。つまり朝霞もこの部屋の住人だ。何か外に出る用事があった場合は鈴を鳴らして誰かを呼ぶ事になる。侍従頭からそれを告げられた時には、朝霞は目の前が真っ暗になった。
生ごみの始末をと言われて、掃除道具を持って何人かで部屋に入った時にはもう悲鳴を上げていた。それだけでなく、胃の中の物も全て床に戻してしまった。
朝霞の視線の先、部屋の中央には養育長と養育係の3人の体が横たわっており、辺り一面には血の池が出来ていた。その血の池の中で、養育長が朝霞をじっと見ている。いや見るも何も目があるべきところは単なる暗い穴だ。養育係の一人は両目が顔から飛び出した上に、その首はほとんどちぎれかかっている。
そして足元には白い玉と、それに繋がっている赤い紐のような物もあった。最初は何かわからなかったが、養育係の顔を見て朝霞はやっとそれが何かを理解した。養育長の目とその後ろにつながっていたものだ。
朝霞にはその後の記憶はない。女侍従部屋の寝台の上で目を覚ました後に、侍従頭から呼び出されて、ものすごく怒られてしまう。その時も思い出すたびに胃から何かがこみあげてきて、その説教もまともに聞くことができなかった。
正直なところ、この部屋に入る時には足が震えた。そしてあの血まみれの白い玉と赤い紐が目に浮かんで、また吐きそうになる。それにきっと悲鳴を上げて気絶するなんて、とんでもない失態をセレン様に叱られるために、中に呼ばれたのだと朝霞は思っていた。
だけど部屋に朝霞を招き入れたセレンは、朝霞に向かって丁寧に頭を下げて謝った。部屋には遺体も飛び散った血の跡も何も残っていない。微かに血の匂いだけが残っている。その匂いも朝霞の気のせいだけのような気もする。それ以来、朝霞が何か気持ち悪そうなそぶりをする度に、セレンが朝霞に謝ってくれていた。そしてその度に朝霞はうろたえ続けている。
「そうですね。あまりしつこく言うと嫌味だと思われますね」
セレンは首を少し傾けると、いたずらっ子っぽく笑って見せた。なんてかわいらしいお姿なんだろう。その一挙一動に、朝霞は思わず見入ってしまいたくなる。この人があの恐ろしい養育係を、あんな姿に変えてしまっただなんて未だ信じられない。
「お茶の用意をお持ちいたしました」
朝霞はお湯が入った壺に、茶壺、茶器を卓の上に置く。セレンの希望で茶器は二つだ。
「ありがとうございます」
セレンは茶壷の蓋を取ると、口元に茶壷をそっと持っていって香をかいだ。
「ああ、関門で手に入れるものとはやっぱり別物ですね」
そう言うと、そこから匙で茶葉を取り出して、白磁の急須にそっと入れた。そしてゆっくりとそこにお湯を注ぐ。それにつれて辺りには柑橘系のとても爽やかな香りが広がった。
「とてもいい香りですね」
「はい、これが本物の香りです。風華さん達に味合わせてあげたかったです」
セレンがちょっと懐かしむような、残念がるような表情をする。
「風華さんですか?」
思わず聞き返してしまってから、なんて出過ぎた真似をしたのだろうと、朝霞はっとした。だがセレンは朝霞に小さく笑みを漏らして見せる。
「はい。とってもかわいらしい赤毛のお嬢さんです。そうですね……それにとっても楽しい方です。城砦の私の組の組長さんです」
「組長さんですか?」
朝霞の拙い知識では、城砦の冒険者というのはマ者と戦う化け物みたいに強い人たちのはずだ。その組長さんが、かわいくて楽しいとはどう考えてもつながらない。そう言えばセレン様も城砦の冒険者と言っていた。やっぱりとっても強い人であることに間違いはない。あの鞭を持った養育係ぐらいはどうってことないということなんだろう。
「そうですね。見かけは朝霞さんと何も変わらないですよ。でも中身はとっても強い人です。自分の仲間が傷つくような事があったら、たとえそれがどんな化け物でも恐れることなく立ち向かっていく人です。私や兄なんかよりとっても強い人です」
そう告げたセレンの表情が少し寂しげに見える。
「セレン様もとてもお強いと思いますが……」
「そうですね。短剣とか弓なら私の方がまだうまく扱えますかね。でも私が強いかと言えば違うと思います。実際の所、私がこの部屋にいたときは、母の後ろにしがみついて泣いてばかりいました」
『泣いてばかり? セレン様が?』
朝霞はその発言に驚いた。
「私にはとても信じられません。セレン様はどうして冒険者になられたのですか?」
「朝霞さん。『様』づけはやめてくださいね。もし今後もつけるなら私も朝霞さんの事を朝霞様と呼びます。それに私はセレンではなく、世恋です。朝霞さんと同じく橙の国式で呼んで下さい」
「はい。世恋さ……さん」
どもりながら答える朝霞を見て、世恋が「フフフ」と笑って見せる。
「そうですね。私自身でも未だに少し信じられないです。子供の頃はこの部屋が世界の全てと思っていたぐらいですからね。たまたまでしょうか? 兄が冒険者になったのでそれで仕方なくなりました」
「たまたまですか?」
「はい、たまたまです。私は兄と一緒にこの屋敷を逃げ出したのです。いや、違いますね。私が兄にこの屋敷からつれて逃げるようにお願いしたのです。その後、兄と共に食べて行くために冒険者になりました」
「逃げ出したんですか!?」
「そうです。私はこの灰色の塔から逃げ出した人形です。あなたから見たら裏切り者でしょうか? 朝霞さんが『様』づけをして呼ぶような者ではありません。それに朝霞さん、あなたはまだ知らないかもしれませんが、私のような者は世の男達にとっての単なる欲望のはけ口です。まるで物のようにやり取りされるものです。それがここの人形に関する事実です。それから逃げ出したのです」
「物、なんですか!?」
「はい。私は事実というのが大好きなのです。あなたは自分の事を人形になれない不良品と呼びましたね。でもそれは事実ではありません。あなたがこの屋敷に居る限りあなたはマイン家の人形です。貴方が人形以外の生き方を選ぶとすれば、ここを出て世の苦難に抗いながら、あなたが誰かにとって大事な人に、そして誰かがあなたの事を大事な人と思うようになることです。つまり人にならねばなりません」
「人ですか? 私には難しくてよく分かりませんが……」
「はい。私も分かっていませんでした。ここから逃げ出しさえすれば私は人形ではなくなる、普通の人になれると思っていました。でも間違いでした。ここを出ただけでは人形が人になれる訳ではないのです。そして私はどこに逃げようが所詮はここの人形にすぎないと諦めていました」
そう言うと、世恋は朝霞の茶器にお茶を注ぐ。さっきよりさらに爽やかな匂いが辺りに漂った。
「でもその組長さん達と出会ってやっと分かったんです。私は私が人形として振る舞う限り決して人にはなれない。そしてそれは自分が人になる努力をして、初めて手に出来るという事に」
そう告げると、世恋はその白くて長いきれいな指で茶器を持ち上げると、それを口元に運んだ。
「本物の味と香りですね。朝霞さんも冷めないうちにどうぞ」
朝霞も慌てて茶器に手をやる。
「朝霞さん、私にあなたの先達としての助言があるとするならば、自分の人生というものは勝手にどこかから現れるものではなく、自分から求めないといけないもののようです。生きていく事自体が決して楽な事ではないのです。危険な目にも会うかもしれません。間違うこともあると思います。でも人は命ある限り生きて行かないといけないのです。ならば、せめて自分でそれを選ぶべきだとは思いませんか?」
世恋はこの灰色の部屋を懐かしむように、何かを探すように辺りを見渡した。
「こんな私にも、一緒になりたいと思う方が出来たのです。そう思えるからこそ、私達女は子をなして母親になれるのです。何かを諦めたり、誰かに道具のように扱われる人生などもううんざりです」
『こんな女神様みたいな人が思う相手ってどんな人なんだろう?』
朝霞は素直にそう思った。きっととても素敵な男性であるのは間違いない。
「世恋さん、世恋さんがそう思われている方はどんな方なんですか?」
世恋は少し驚いたような顔をする。それを見た朝霞は自分の発言を心から後悔した。
「あら、私の恋話ですか? 恋話は好きですよ。そうですね、朝霞さんは私の妹ですからね、特別に教えてあげます。でもこれは絶対に秘密ですよ。見た目は普通の人です。守ってもらうというより、私が一番守ってあげたいと思っている人です。でもね朝霞さん、その人は別の人を守ってあげたいと思っているんです」
「それって、もしかして横恋慕という事ですか!」
「世の中には願い通りに行かないこともあるんですね。初めて知りました」
そう言うと、世恋は頭に手を当てて「てへっ」と子供っぽく笑って見せた。




