報い
世恋は部屋の中を見回した。灰色の塔の最上階。ここは何も、何も変わっていない。今でもその椅子に母が座っている気配すら感じられる。
自分と母が閉じ込められていた部屋。かつての私の世界の全て。私が兄の元に引き取られた後は、母がその後の短い時間を過ごした部屋。母が亡くなったことも、私は兄から知らされただけだった。そして当時の私は死の意味すらよく分かってはいなかった。
男が部屋の中に明かりを置いた。角灯の油を被られると困るとでも思っているのだろうか? その角灯から漏れているのはマ石の明かりだ。
「セレン様。部屋の外に小物が控えていますので、ご必要なものがありましたら、遠慮なくこの者に声をお掛けください」
侍従姿の男が入り口で声を掛けてきた。その隣に立つ侍従服を着たまだ幼い少女が私に向かって頭を下げる。どことなく私に似ている気がする。きっと血筋を引いているのだろう。でも侍従として働いているという事は、彼女には人形としての何かが足りなかったという事らしい。
大きな音を立てて扉がしまり、男達が去っていく靴音が響く。扉の外でさっきの少女が持ち場につく、椅子に座る音が聞こえた。母がこの部屋を去り、今は自分が母の代わりになったということだ。だが母には私が居た。私には誰もいない。
寝台の横にある小さな椅子に座る。子供の時には足が届かなくて母に乗せてもらった椅子が、今ではとても小さな椅子になってしまっている。
そこから天井を見あげると、雨で出来た染みがいくつか見えた。かつてこの部屋に居た時には、その染みが化け物の顔に見えて、寝る前には必ず母に手を握ってもらっていた。今では私自身が子供の頃に想像した、どんな化け物よりも邪悪な存在だと分かってしまっている。
世恋は明かり窓の外の暗闇を見つめた。私がここに連れてこられたという事は、兄に何かが起ころうとしているという事だ。とてつもなく危険で秘密裏に処理しなくてはいけない何かだ。
他のみんなはどうなったのだろう。世恋の脳裏にある人の姿が浮かんだ。彼は無事なのだろうか? みんなは? もしも、私の為に他のみんなが何かに巻き込まれているのだとしたら。危険な目に合っているのだとしたら?
考える度に心の奥底で針を突きさされているかの様な痛みが走る。自分が人形だった時には感じることの無かった痛みだ。私は少しは人になれたということなのだろうか? そうだとしてもこんな痛みはいらない。
これに関わった者が誰だろうが絶対に許さない。私から私の世界の全てを奪ったのだから。そしてその世界の全てを壊そうとしているのだから。そう決心した世恋の耳に、複数の人間が階段を昇ってくる音が聞こえた。今日はまだ終わりではないという事だ。
「あの、こちらはどなたも……」
「どけ、出来損ないの不良品が。誰に向かって口を聞いている」
「ぎゃ!」
何かの風切り音と共に小さな叫び声が上がった。そして扉の向こうで、卓や椅子が盛大にひっくり返る音が響く。どうやらとても行儀が良くない訪問者らしい。
扉が乱暴に開けられ、黒い服を着た男が二人、扉から中に入ってきた。その腰には革の鞭をこれ見よがしに備えている。養育係だ。男達に続いて深紅の短外套を着た、背が低く、頭が禿げあがった初老の男が部屋に入って来た。
「あの若造の手からやっとわが手に戻って来たか。ずいぶんと待たせてくれたな」
男は尊大な態度で椅子に座ると、世恋の方を見つめる。それでいて部屋のあちらこちらへと、忙しなく視線を這わせてもいた。本当に肝の小さな男だ。
その両側に立つ男達はにやけた笑いを浮かべながら、世恋の顔を、胸を、腰をじっと見ている。頭の中では裸にでもして好き放題に犯しているらしい。この世の屑を体現したような男達だ。
「立て。た、立って回って見せろ」
真ん中に立つ小男がどもりながら世恋に命令した。どうやらこの男にとって私は、未だこの部屋で母の後ろに隠れて震えていた子供と同じに見えているらしい。だがこちらがこの男の願望、いや妄想に付き合う必要などない。客観的な事実という物を示すだけだ。
世恋はゆっくりと椅子から立ち上がると、髪留めを外して両手で髪を広げた。金色の髪が胸元へと落ちていき、背後のマ石の明かりに、本物の黄金の様に光り輝く。
男達に向かって一歩前に進む。禿げた頭のてっぺんが世恋の視線の先にあった。私の顔を上から偉そうに見ていたこの男は、本当はこんなにも小さな男だった。
男の命令に従ったふりをして、髪を後ろ手に上げながらゆっくりと男達の前で回って見せる。男達の視線が、胸や下半身にじっと注がれるのが如実に分かった。まるで本当にそこを嬲られているかのような気がして、吐き気すら催しそうになる。
でもいいの? そんな油断した態度でそんなところをじっと見ている余裕はあるの? 貴方達の前にいるのは城砦の冒険者なのよ。
彼らに背をむけた瞬間に、世恋は寝台の横に置かれていた角灯の明かりを蹴落として、そのまま壁を足でけった。その反動を利用して左手に居た男に向かうと、その両目に指をねじ込む。指先に引っかかる丸い物を感じながら、さらに指を掛けて、そのまま下に引きずってやった。
「ぎゃ――!」
男の口から悲鳴が上がった。そのまま体を回して、養育長の腹に蹴りを入れる。養育長の体は丸太のように吹き飛ぶと、帯革から短刀を抜こうとしていた男の右手にぶつかり、その動きを止めた。
後ろ手に目つぶしを食らわしてやった男の左腰から短剣を引き抜くと、それを養育長の体の背後にいる男の喉に向かって差し込む。男の口から盛大に血があふれ、その下にあった小男の頭の上へと落ちていった。
世恋はそのままさらに体を回転させると、床に膝をついて顔に手をやっていた男の首筋に短刀を打ち込んだ。安っぽい短剣の刃は男の頸椎の隙間に入ると、そこで止まった。だが男の命を奪うのには十分だ。
風華さんの黒刃の剣とは大違いね。世恋はそんな事を考えながら、男の体を蹴り飛ばした。男の体が床へと倒れる。その首はちぎれかかってはいたがまだ男の体とはつながっていた。
養育長の背後にいた男の体は養育長に覆いかぶさるかのように倒れていた。男の肺が必死に息を求めて、笛の様な音を立てつつ喘いでいるがもう手遅れだ。やがて小刻みな体の震えが止まると、男の体は養育長の体の上で何の動きも示さなくなった。
「た、たっすけてくれ……たすけ……」
倒れた男の下で、養育長は顔と言うより頭の先から全身まで血だらけにしながら必死にはい出そうとしていた。その動きはまるで何かにつぶされて、死にかかっている芋虫のように見える。
世恋は右手に持っていた短剣を床に投げ出して、呼吸を整えた。この程度の動きで息があがるとは、私の体も大分なまっている。少しは鍛えなおさないといけない。
「た……たた……たっ、たす……」
養育長が震えながら、おびえた顔で世恋の方を見た。
『助ける?』
それを見た世恋は養育長に向かって首を傾げて見せた。この男は何を言っているのだろう? 自分が母や幼かった私にしたことを何も覚えていないのだろうか? いや、そんな事はない。覚えているからこそ、この男は恐怖に震え、私に必死に助けを求めている。
世恋は左手の中の髪留めに視線を落とした。数少ない母の遺品。兄が私に渡してくれたものだ。私のおぼろげな記憶の中の母の後姿には、いつもこの髪留めがあった。
「お母さま……」
世恋の口から独り言が漏れる。私を守るためにあなたが私にしてくれたことは決して忘れません。でも安心してください。私も私が守りたいと思う人達に会う事ができました。だから遠くから私のことを、兄さんの事を見守っていてください。それに……
「貴方の無念のほんの僅かですが、私がその報いを与えます」
「ひっ!」
養育長がその濁った目を大きく見開いて世恋を見る。世恋はその目に微笑んで見せると、養育長の頭を足で床に押さえつけた。
「た……たた……私は……お館様の言う通りにしただけだ……何もお前達に……」
踏みつける足により力を籠める。この期に及んでも人のせいにするとは本当の屑だ。世恋はその目に向かって髪留めの先をゆっくりと差し込んだ。
「ギャ――――!」
教育長の叫び声が石造りの部屋の壁に何重にも響き渡った。
「助けて!」
お前は私のその台詞を何度も聞いたはずよ。それになんて答えたの? 簡単に死ねるなんて思わないで欲しい。これから十分に母の無念の報いを受けてもらうのだから……。




