微笑
「柚安指揮官長、手持無沙汰みたいですね?」
不意にかかった声が柚安の意識を現実に引き戻した。実質的に限界線を伸ばすことのみに注力している今は、自分達指揮官にはほとんど仕事らしい仕事はない。有給の休暇をもらっているようなものだ。
だが柚安が気が抜けた表情をしていたのは、暇だったからではない。あの赤毛の少女の事を考えていたからだった。目を閉じるとあの赤の夜会服を着た姿が、笑顔が、そして関門に行くときに馬車で自分に抱き着いてきた姿が浮かんでくる。
柚安は頭を振った。こんなにも一人の女性に心を奪われてしまうなんて、一体自分はどうしてしまったんだろう?
確かにあの子には元々興味があった。あの多門さんを変えてしまったのだ。だがその時はせいぜい、一体どんな子なのだろうか程度のものだった。
落夢卿の一件も、別に彼女が頼み込んで来なくても、多門さんに借りを返すつもりでいた。だが特別演習は気まぐれでできるようなものではない。お願いに来たあの子を少々利用させてもらっただけだ。
おかげで都合よく私があの子の色仕掛けにほだされたという噂がたってくれた。その時だって大人達や多門さんがこの子を気に入った理由が少しは腑に落ちたぐらいだ。
あの子を関門に連れて行ったのも、多門さんとのつながりを糊塗すべく、その噂をとことん利用するべきだと思ったからだ。それに姉の誕生日会もあり、誰か女性を連れて行った方が、化粧とお世辞だけが上手な人達の相手が少しは減ると考えたのもあった。それだけのはずだった。
だが、あの子と一緒にいる時間を重ねている内に、あの子から目を離せなくなっている自分が居た。男に無理やり連れ出されているという状況は分かっているはずなのに、何でこの子はこんなにも屈託のない笑顔をみせられるのだろう?
その理由が知りたくなった。最初は他の女性と同じで、自分の上っ面だけを見て、ぼーっとなっているのかと思ったがそうではなかった。
連れて行った店はどれも関門の金持ちご用達の店だ。あの子は近寄ったこともない店だろう。普通は怖気づくか、精いっぱい背伸びして気取って見せるかのどちらかというところだ。だが彼女は普通だった。怖気づくこともなく、気負う事もない。素の彼女をさらけ出していた。
店の者達を見て、自分が彼女から目を離せなくなっている理由が少しづつ分かってきた。店の者達皆がとても楽しそうに彼女の相手をしていた。
『こちらこそ大変ありがとうございました。とてもいい仕事をさせていただきました』
麻夕さんのこの台詞が全てを表している。彼女たちは自分達の仕事を楽しみ、そして満足していた。僕が頼んだから、僕が油屋の次期主の弟だからではない。
普通の娘だ。男の玩具として連れてこられた哀れな娘だ。表面上は決して見せないだろうが、見下してもおかしくはない。もしかしたら最初はそう思ったのかもしれない。
各店の店長達は海千山千の人達だ。一度客として受け入れたなら、手抜きなどは決してしないだろうし、それをおくびにも出さないだろう。だがそれだけとは思えなかった。
彼女といると心が軽くなる。本当に人生を楽しんでいる気分になれる。やはり父は私のことをよく見ている。彼女を家族に紹介したのも、母や姉には悪いとは思ったが、とことん利用するための筋書きの一つのつもりだった。あそこで彼女に交際を申し込む予定など全く無かったのだ。
今にして思えばまさに気の迷いとしか思えない。だけど交際を申し込んだこと自体は本気だった。止められなかったという方が正しい。彼女に側にいて欲しいと心から思った。どんな女性が寄ってこようが、今まで一度も思いもしなかったことだ。
まさか、自分が女性に囚われるような人間になるとは……
「少し外で風に当たって来ます。後をお願いしてもいいですか?」
柚安は同じ様に手持ち無沙汰にしていた指揮官の一人に声をかけた。
「はい、ゆっくりしてきてください」
今は嵐の前の静けさなのだから、少し頭を冷やした方がいい。柚安は短外套に腕を通すと、城砦の外階段を下へと降りた。
外の日差しはだいぶ暖かく感じられるようになってきている。一番寒い季節はもう過ぎた。これからは日に日に太陽の陽ざしが戻ってくる。
この城砦の辺りはもっと北にある内地などに比べたら、冬の寒さはそれほど厳しくはない。はるかに暖かいと言ってもいいぐらいだ。それに今年は春が来るのが早いのかもしれない。例年より暖かくなるのが早いような気がする。
それでも冬の最後のなごり雪は来るだろうし、本格的な春の前に、その到来を告げる嵐も吹き荒れるだろう。人の所業はさておき、自然は変わることなくその営みを繰り返していく。
道中、受付がしーんと静まり返っているのは、新種騒ぎ依頼いつもの通りだが、備え方あたりはかなり騒々しかった。監獄の備蓄が使えなくなったし、限界線越えのための各種道具やら備蓄の準備で、てんてこ舞いというところだろうか? 角庵工房長あたりは相当に忙しい事だろう。ご愁傷さまだ。
柚安が街にでると、昼間だというのに人の往来も多かった。そもそも潜っているやつがほとんどいないのだ。暇を持て余してうろうろしているやつは大勢いるだろう。かくいう私もその一人だ。
誰を見るわけでなく、通りを歩いている人々を眺める。ある日突然に自由を与えられた囚人の群れみたいだな。そう思うと皆がそう見えてくるから不思議だ。
おや、一人だけ確固たる目的をもって歩いているらしき人がいる。まだ若い女性だ。うらやましい限りだ。だが柚安から見て、冒険者としてはその女性の歩き方には少し違和感があった。しかしその出で立ちは事務官のものではない。とてもちぐはぐな感じだ。それにあの後ろ姿はどこかで見た記憶がある。
柚安は眼鏡を外すと、短外套の頭巾を目深に被った。その辺りの卓で談笑していた人達の一人が持参してきたらしい地図入れの筒を一本拝借する。それを小脇に抱えて少し猫背気味にし、歩幅を小さめにうつむき加減に歩く。これでこれから気の進まない打ち合わせに向かう事務官ぐらいには見えるだろうか?
女性は建物の角を曲がると、裏手へと回っていく。そこは各棟の裏手になっていて、小さな池とかつては白かったと思うが、今ではだいぶ薄汚れた石が椅子代わりに配置されている場所だ。暇な奴が多いせいか、それとも昼に近いせいかは分からないが、ありがたいことに数名の人が石に座って談笑していた。
間違いない。この間、実家で高規が新入りと言っていた子だ。早めの昼に行く待ち合わせを装って、石の上に座っている。気づかれないように棟の裏口の一つに近づいて、その横に書いてある部署名を確認する振りをしながら様子を伺った。
その一つ離れた石のところに誰かが座わる。大外套に頭巾なので顔は分からないが、おそらくは女性だ。彼女がさりげなく立って角を曲がっていく。
一つ隣に座った人物が何かを落としたようなそぶりを見せて、石の間に手を入れるのが見えた。その一瞬だけ頭巾の陰から横顔がのぞく。明るい茶色の頭髪。間違いない。柚安は女性が頭を上げる前に裏口の戸をくぐった。彼女が相手ならこちらをじっくりと見られるのはまずい。こちらが彼女を分かったように、向こうもこちらに気が付く可能性は極めて高い。
『桃子さんだ』
なぜ、うちのものが桃子さんに接触している。彼女が父の手の者でないことは明らかだ。家族しか知らないことだが、父はこの手の仕事に女性は決して使わない。つまり彼女は城砦側の誰かか、父以外のうちの誰かの手のものという事だ。前者は月貞結社長につながっていて、父でないなら後者は義兄以外は居ない。つまりこの両者がつながっているという事か?
月貞結社長の手が長いことは周知の事実だ。彼の手がうちにも及んでいるという事か? 父はこのことに気が付いているのだろうか? 全く気がついていない可能性もある。この件には先触れは使えない。月貞結社長と義兄がつながっているのなら、自分も常に監視されている可能性は極めて高い。
柚安は思わず背後を振り返った。長い廊下に人の気配はない。ともかくこの棟の誰かの元に向かう必要がある。なるべくさりげなく自然にだ。
* * *
「事務方の柚安という者だが、白蓮さんはこちらに居るかな?」
柚安は探索組の受付で声をかけた。
「はい、上にいらっしゃると思います」
事務官補助の受付の女性が上を指さした。周りを見ると、この間の「ご苦労さん会」で見かけた気がする人達が何人かいる。みな不意に訪問した柚安の意図を探ってか、隣の者とひそひそと話をするのが分かった。いつもなら鬱陶しい限りだが、今回はぜひその噂とやらを広めてくれるとありがたい。
「お呼びしましょうか?」
「いや、私の方で上まで出向きます。部屋は?」
「一番手前の大部屋です」
「ありがとう」
なるべくさりげなく、上へと上がっていく。私を監視するものがいるなら、何かの用事にかこつけてこの受付に現れるだろうか? どうやらその気配は無い。一番手前の大部屋の扉の呼び鈴を鳴らす。
「はい、どうぞお入りください」
中から女性の声が聞こえて、扉が開いた。
「あ、柚安指揮官長!」
扉を開けた女性が驚いた声を上げた。
「ごきげんよう千夏さん。この間の途中退席のお詫びに来たのだけど、君の師匠はいるかな?」
「はい。白蓮さん!お客様です、柚安指揮官長がお見えです」
部屋の隅で創晴と一緒に茶をすすっていた白蓮が柚安の方を振り向いた。
「え、千夏さん。誰だって?」
「柚安さんです!」
二人が驚いた顔をするのが見えた。
「白蓮君、この間はせっかく『ご苦労さん会』にお誘いいただいたのに、途中退席してしまったお詫びに寄らせてもらいました」
白蓮は茶を卓の上に置くと、慌てて入り口の柚安のところまで飛んできた。
「いえ、そんなとんでもありません。お忙しいところ、わざわざここまで足を運んでいただけるなんて恐縮です」
そう告げると、白蓮は柚安に向かって頭を下げた。見かけだけで論じるなら、森よりは私の職場にいた方が似合いそうな男だ。柚安は思わず白蓮にそんな感想を抱いた。だが、この男は短期間で新種を三匹も狩った男だ。見かけ通りとは限らない。
「いや、事務方は開店休業中みたいなものだよ。そもそもこの間はあまり話もできなかったので、忙しいとは思ったが直接寄らせてもらった。君達探索組の方がよほどうちより忙しいのでは?」
「うちの上はみんな死にかけてます。限界線の延長にうちも駆り出されては居ますが、今はどちらかと言えば先手組が中心ですね。おそらく延長が終わって、いざその周辺で狩をするとなるまで、本格的なうちの出番はなさそうな感じです」
白蓮に代わって、奥で茶をすすっていた創晴が柚安に答えた。
「なるほど。君達も束の間の休みという感じなんだね」
「ちょっと離れると感が鈍るので、軽い潜りはやらせてもらってます。いきなり限界線の先にいけとか言われると困りますからね。ああ、これは柚安さんの方が良くご存じのことですね」
「まあね。当分は赤毛組で潜る予定とかはないのかい? 風華さんもそろそろ潜ってもいい頃のような気がするが……」
「ふーちゃんですか? まだ警備方で研修所送りみたいのようです。どうやらここでやらかした件がまだ祟っているようで……」
「ああ、その件か」
「口が滑りました。その件は、柚安さんのところまで漏れてました?」
「もちろんだよ。彼女は君ほどじゃないが、有名人だからね」
「忙しいところお邪魔して悪かったね。今度どこかで埋め合わせをさせていただくので、その際はよろしくお願いする」
「そんな、埋め合わせだなんて気にしないでください。柚安さんが来てくれたおかげで、うちの女性陣はずいぶん盛り上がってましたよ。そうだよね千夏さん?」
柚安が白蓮の呼びかけた先を見ると、千夏がびっくりした顔でこちらを見ていた。風華さんほどじゃないが、この子も冒険者という感じの子ではないな。愛嬌があって見栄えがいい子だ。だが見かけと違って、彼女はここに居る探索組と一緒に潜れる子らしい。
雀たちが囀っていたことが本当なら、冒険者達が言うところのいいところであったはずだ。そこから彼と無限さんをだまして押しかけ弟子になったという。それを聞いた時は下手な作家の三文小説程度の作り話ではないかと思ったぐらいだ。
でも本当にそんな都合のいい話などあるだろうか? 赤毛組の近くにいる新参者は彼女だけじゃないのか? いや、あの実季という子の二人か。どちらも押しかけ弟子とはあまりに都合が良すぎる。
一体城砦は知らないうちにどんな場所になってしまったんだ。柚安は冬だと言うのに、いつの間にな手の平に汗を掻いているのに気がついた。多門さん、あなたは一体何の尻尾を踏んでしまったんですか?
柚安は黒髪の少女が自分に向けている微笑を見つめた。この微笑みはあの子と同じ本物だろうか?
いや、それとも……。




