大事
「研修所の宿舎までだ。大した距離じゃない。ゆっくりやってくれ」
「はい、柚安様」
御者が柚安さんにそう答えると、馬車は少し速度を落として走り始めた。
「風華さん、本当に顔色が悪いみたいだが、大丈夫かい?」
柚安さんが私の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「はい。駄目ですね。せっかくこんな素敵な夜会服が着れたのに、疲れてしまうなんて。柚衣さんのお誕生日会の前に一度着ておいて良かったです」
「まあ、夜会服を着るときは姉もよく文句を言っていたからね。どうしてこんなに締め上げるんだって」
「柚衣さんなんて、どこか締め上げたりする必要はなさそうですけどね」
「さあ、僕にはあずかり知らない話さ」
「あんなに上手に探索組のお嬢さん達の相手をされていたのに、柚安さんもお姉さんには弱いんですね」
「世のすべての弟というのは、そういうものだと思っているけどね」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
柚安さんが少しだけ拗ねたような表情をする。ちょっとすました感じがする柚安さんだけど、家族の話になると、素が出るような気がしてなんだかほっとする。
「荷物は先に宿舎に届けてある。宿舎のものに頼んであるから、部屋まで届いているはずだ。今日はゆっくりと休むといい。君達にはそれぐらいの権利は十分にあるよ」
「何から何まですいません」
「礼には及ばない。付添人に選んでもらって、君の夜会服姿を見れたんだ。とても光栄だったよ。だけど一つだけ」
「何でしょうか?」
「この前、僕が家族の前で言った言葉は本気だ。答えはいつでもいい。だけどいつかは答えをくれないだろうか?」
「柚安さん……」
柚安さんが馬車の扉を開けると、目の前には宿舎の明かりがあった。
「風華さん、百夜嬢、お休みなさい。また近いうちに何かでお会いしよう」
そう告げると、柚安さんは馬車と共に、夜の闇の向こうへと去っていった。
* * *
「どうした赤娘。入らないのか?」
この夜会服姿で正面から入って、宿舎のみんなにガン見される勇気はない。
「裏から入る」
「そうか、その方が部屋には近いな」
そう言うと、百夜は宿舎の周りにめぐらされた土塀にそって、よたよたと歩きはじめた。どうやら今日は相当に満足するぐらい食べたらしい。土塀の上に等間隔でおかれた油灯の黄色い灯りが、その後ろ姿を柔らかく照らしている。
白蓮が居なくなったら、三人だけになるのかな。その姿を見ているうちに、ふっとそんな考えが頭に浮かんだ。実季さんだって、いつまでも私の弟子なんかしていてはいけない。
私と百夜の二人だけになるのだろうか? いや、百夜だってもう少し大人になれば、自分で自分の道を選ぶようになる。誰かは誰かの為に居るわけじゃない。
自分が誰かの為にいると思うのも、誰かが自分の為にいてくれると思うのも、どちらも結局は自分の我がままなのだ。人は、人の魂は、何かを照らしたり照らされたりするためにあるのではない。その人が輝くためにあるのだ。
左耳にある耳飾りをそっと撫でた。関門についた時も、私は白蓮が死んでいなくなってしまうかもしれないという恐怖におののいていた。今日もそうだった。私は白蓮が死んでしまうとかじゃなくて、白蓮が私の前からいなくなることを恐れていたんだ。
私の白蓮を守るなんて覚悟は単なる欺瞞だ。私は白蓮をまるで自分の物のように、所有物のように考えていたんだ。いなくなっては困ると……。
左耳から耳飾りを引きちぎった。左耳にするどい痛みが走る。だけど今はそんなのはどうでもいい。左手で投げた耳飾りは土塀のどこかにあたって、「カラン」と小さな音を立てた。
その音に、前を行く百夜が私の方をふり返った。その顔には明らかに私に対する侮蔑の色がある。
「赤娘、お前にとって白男とは何だ?」
百夜はひょいと私の前までくると、唐突に聞いてきた。
「私にとっての白蓮?」
「そうだ。お前は白男の番になりたいのか?」
「番……」
「白男を自分のものにしたいのか?」
「私のもの?」
「お前にとって白男は何なんだ?」
「私にとって大事な人よ。でもそれは私の物にしたいとか、番になりたいとかいうものじゃない」
「赤娘、お前にとって大事な人とは何だ?」
「大事な人……居なくなっては困る人、一緒に居てほしい人。近くにいるとかいないとかじゃなくて……、何だろう? 私にとって大事な人って何だろう?」
百夜が私をじっと見ている。
「その人がいなくなってしまうなんて考えられない人!でもそれって単に私の我がままかな?」
百夜が私に向かって小さくため息をつくと、やれやれという表情をした。
「赤娘、お前にとって白男が大事なのと同じ様に、白男にとってお前は一番大事なのだ。それは番になるより大事なことなのだろう?」
百夜に向かって頷く。白蓮が居てくれることと、私が白蓮と一緒になれるかどうかは同じことじゃない。
「ならば答えは簡単だ。お前がお前である限り、白男はどこかにいったりしない。お前と共に居る」
そうだった。それが私の白蓮に対する覚悟でもあった。どうして根本的な事を私は見失っていたんだろう。百夜……百夜……冒険者にとっての城砦がそうであるように、あんたは私の城砦だ。
頬を涙が伝わる。私はいつからこんなに泣き虫になったんだろう?
「それに、あの男にも都合というのがある」
「都合?」
「忘れたのか? あの男も我も何も覚えていないのだ」
過去って、そんなに重要なの?
「だから赤娘、お前は待つのだ。白男がそれがお前を傷つけないと信じられるまで、お前は待たないといけない」
そうだね。白蓮にだって白蓮の都合がある。私もそれをあるがままに受け入れよう。だって一番大事な事なのだから。
「百夜、あなたにとって、一番大事なものはなに?」
私にとって、あなたも白蓮と同じくとても大事な人よ。
「我か?」
うんうん。
「我にとっては、一番大事なのは決まっている」
私、いや私達?
「餌だ」
もうあんたは……でも分かっている。比べるものじゃないよね。誰かに聞いて回るものでもないよね。それは言葉で表せるものでもない。
百夜が私の前にそっと手を差し出した。その手の中には私の髪の色と同じ、赤い三日月の形をした耳飾りがある。私はそれを大事に受け取った。
「赤娘、血が出てるぞ」
百夜が私の左耳に手をやる。痛い!さっきむりやり外したからか……。私の耳に触れた百夜の手に血がついている。慌てて手提げから手巾を取り出した。
「拭かないと……」
「気にするな、それよりお前の耳を抑えろ。服が汚れるぞ」
そうか、今日は夜会服を着ていたんだった。最近はどっちがお姉さんか分からないね。
慌てて耳に手巾を当てた。百夜はと言うと、大きく口を開けて、私の血がついた右手をぺろりと舐めている。もう舐めるなんて。いつか本当にこいつに食べられそうな気がする。
ニタニタとこちらを見て笑っていた百夜が急にふらついた。
「大丈夫!」
歌月さん、実季さんだけじゃなくて、百夜にも葡萄酒を飲ませました?
「もしかして、赤い飲み物でも飲んだ?」
「そうかもしれないな。よく覚えていない。とてつもなく眠いぞ」
「もう、きっと歌月さんだな。部屋までおぶって行ってあげるから、背中に乗って」
「赤、お前にとって我は重いぞ」
「そりゃそうよ。いつもあれだけ食べているんだから」
答えがない。
「百夜、もう寝たの?」
夜会服が皺になるかな? 皺になってもいい。私にとってどちらが大事かなんて、最初から分かりきったことだ。




