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崩壊

「あの娘の言うとおりだ」


 土煙を上げながら、監獄に近づく姿を見た学心は言葉を漏らした。奴は一直線に監獄に向かって移動している。


 冬なのに弩弓を持つ手が汗でベッタリと濡れているのが分かった。こんな気分を味わうのは第二次北方戦役での撤退戦以来か。いやあの時とは比較にならない。あの時は何が迫っているのかは分かっていた。


 監獄は縁のかけたというより、割れたお椀だ。壁の一か所にヒビが入っており、そこだけ欠けたかのような穴がある。囮役のあの子たちはその穴の反対側に待機している。


 奴に目があるかは知らんが、脇目も振らずとしか表現しようがない動きで、その穴に一直線に向かっている。その枝のような根のような触手は50杖(50m)ほどの幅にわたって、奴の前にあるありとあらゆるものをなぎ倒して進んでいた。


 ギィギィイィイイギィイイ、ギィイイギィィィイィイィィ――


 奴が触手を振るう度に、油が切れた車軸を百も千も集めてきて、無理やりにでも回したような音が響き渡る。そしてその音の次には哀れな木々が地面になぎ倒される「ズドン」という音が響く。


 監獄の壁は持つだろうか? もし持たなければ、この罠に意味はない。囮役も着火役もその瓦礫の下で死んでしまうだけだ。今は壁が持つことを、奴が壁を壊さずに中に入ってくれることを、そして奴を蒸し焼きにする間は持ってくれる事を願うしかない。


「おい、最初の音響弾の用意だ」


 横にいる警備方の男に声をかけて、耳にかけた耳栓に手をやる。まだ距離は300杖以上ある。だが準備は早めにするに越したことはない。


「はい、学心全権殿。音響弾1用意します」


 居並ぶ男たちに緊張感が走る。警備方、囚人合わせてまともな風使いは10名しか居なかった。それぞれ5名ずつに分かれて、穴の両側にそれぞれ待機している。風使いには生真面目が多いという文献があったが、それは本当の事なのかもしれない。あれだけいた囚人の中でこれしか居ないとは!


「何をやっているんだ。こっちを見ろ」


 男がつぶやいた。向こう側にも予備の音響弾担当がいるので、隣の男がこちらで放つ旨の手信号を送ったのに、何も反応がなかったらしい。学心は奴から目を離して、あわてて向こう側を見た。


「いかん!」


 穴の向こう側で待機していた男たちが頭を抱えている。まだ距離は十分にあるはずだ……。いや勝手にこちらが思い込んでいただけか!一つの事例で全部を表していると思い込む典型的な間違いだ。


「やつらを撃て!」


 男にそう命じて、自分でも肩から弩弓を外す。だが学心は背中の方から、自分の首筋から何かが入り込んで来ようとしているのに気がついた。何かが、何だ……これは……何が……入ってきているんだ……


 目の前には明るい穴が二つある。その穴からは地面が、そして灰色の壁が次々と映し出される。ああ、これは自分の視界なんだな。だが、それを内側から見ているこれは何だ。何かを考えようとしているこれは何だ。これは儂の手や足を、己が思うように動かしていたのではないのか?


 穴に何かが映る。隣にいた男の顔だ。その目には儂が映っている。これは儂か……儂とはなんだ?


 儂だったものの顔がニヤリと笑ったような気がする。それは儂の自我を離れて何か別のものに置き換わっていた。手をのばしたいのだが、ここにつなぎとめておきたいのだが、どうすることもできない。ああ、儂の自我とは何てちっぽけで無力なものなのだろう。


 穴が、明かりが次第に、次第に遠くなり、明かりの大きさは今や二つの飴玉ぐらいの大きさだ。そしてそれは今や点ぐらいの大きさになろうとしている。


 何もない、何も……、無だ。


* * *


 ギィギィイィィイギィイイ、ギィイイギィィギィイィギイィィ――


 ズドン、ズドン!


 ギィイィィイギィイィギィ、ギィイイギィィギィイィギイィィ


 ズドン!


 耳をふさいでいても、何の意味もなさそうな大音響が監獄の壁に反響している。「ズドン」という音が鳴る度に、足元の砂がとび上がっては、パラパラと音を立てて落ちてきた。


 奴だ。神もどきだ。奴はもう監獄のすぐ傍まで来ている。桃子さんから奴が監獄に近づいたら、音響弾が鳴るから注意しろと言われていたのだけど、それはまだなんだろうか? 私の耳にはもう『神もどき』は監獄の穴のすぐ前に来ているようにしか思えない。


「まだ距離があるのかな?」


 それともこの大騒音の中で、私が音響弾の音を聞き逃してしまったんだろうか?


「百夜!音響弾の音って聞こえた?」


「何だ!うるさくて聞こえないぞ!」


 お前、耳を塞いでいたら私の声が聞こえる訳が無いだろうが!


「だから、()!響()()()!……」


「赤娘、まずいぞ!奴だ、奴が入ってきた」


 私の言葉を無視して百夜が怒鳴った。その顔はいつもの百夜とは全く違う。いつも充血気味の左目が大きく見開かれていて、とても緊張しているのが分かった。その表情に私は慌てて穴の方に顔を向けた。


 ギィイイギィィギィイィギイィィ――


 盛大なきしみ音は響いているが、まだあれの姿は見えない。だが分かる。黒青川の川辺で感じた奴だ。あのやばい感じがする。


「赤娘、お前には見えないのか!? 奴だぞ!『神もどき』だ!」


「分かるけど、まだ見えない!」


「これを貸してやる。両目を開けて見ろ!」


 百夜が私の手に真っ黒な何かを押し付けた。百夜のマ石だ。何これ、冷たいというより、寒いというかぞくぞくする感じがする。それにめちゃくちゃ重い。


「!」


 手にした百夜のマ石を見つめる視線の先、足元に真っ黒ななめくじのお化けみたいなやつが見える。


「ひっ!」


 思わず後ろに向かって飛び退いた。マ石を手に顔を上げる。そこに見えたのは人間の体よりも太い黒い触手のようなものが、穴からこちらに向かって、建物を乗り越え、地面に根を張るように監獄の中庭に何本も広がっている。


 地面だけではない。空のほとんどを覆う監獄の灰色の壁にも、それは蔦のように張り付き、さらには壁を覆うような勢いで広がっている。それは灰色の肌に浮き出た黒い血管の様にも見えた。邪悪な黒い光を放ちつつ、本物の血管のようにどくどくと脈打っている。


 この黒いのには見覚えがあった。湖畔で神もどきとやりあったときに、旋風卿やみんなに纏わりついてきたやつだ。だがその時は床や天井から滲み出るような感じだった。だがこれは違う。滲み出るなんて生易しいものではない。これはこの監獄全体をあっという間に侵食していこうとしているように見える。


 なにより、湖畔の時には私の目にも見えた。感じてはいたが、百夜から石を貸してもらうまでは私の目には見えなかった。あの木の枝や幹の様に見えたのが本体なのではない。むしろこの黒光りするこちらが本体なんだ!百夜が「死人喰らい」と同じだと言った意味もやっと理解できた。


「まずいぞ、赤娘。我らはあれを舐めていた。あれは島にいたやつとはぜんぜん違う。島の奴は何かがおかしかった。きっとあれは飼いならされた奴だ。これは本物だ。そしてこいつは本気で我らを狙っている」


「監視所の時はこれほどじゃ、」


「川のせいだ。川が邪魔で奴は力を発揮できなかった。今は何も邪魔はない。逃げるぞ!」


 やばい。本当にやばい。こんなのが城砦に行ったら大変な事になる!桃子さんは、念史さんはどうしたんだろう。ともかく火だけでもつけて、この奴の黒い触手を払うぐらいはしないといけない。


「待って、火をつけないと」


「手遅れだ。本体も来た!」

 

 ズズズゥゥゥゥ、ギィィィィィイイイ――


 奴の暗褐色の触手が穴の淵に現れ、続いて巨木の幹のような本体も穴から這出してきた。やっぱり音響弾を聞き逃したんだ。三回も鳴らすと聞いていたのに!


 ズドォドドォォォン!


 すさまじい音と土ぼこりを巻き上げて、視線の先にある石作りの三階建ての建物が吹き飛ばされ、中庭に向かって崩れ落ちていく。その崩れた瓦礫の間から、奴の節くれだった触手が、まるで何かの獲物を探すかのように蠢き続けている。


 瓦礫があげる反響音は監獄の壁に何重にも反射して、まるで1000もの割れた鐘を一斉に乱打しているような音を立てた。その音に頭が割れそうになる。


『止めて、気が狂いそう!』


「赤娘!もうお終いだ!逃げるぞ!」


 百夜の叫ぶ声が聞こえた。何もできずに立ち尽くす私の手を百夜が引っ張る。だがその手が私の手から滑り落ちた。


「ぐ!」


 くぐもった悲鳴とともに、百夜の体が地面を転がっていくのが見える。奴の触手!? いや違った。見たことがある男性が、蹴り飛ばされて地面に転がった百夜に向かって手を伸ばそうとしている。あれは……念史さん!?


「えっ!、あっ!」


 助けに行こうとした私の背後から、何かが私の首を強烈な力で絞めあげてきた。


「ゴト」


 私の手から百夜が貸してくれたマ石が滑り落ちる。首に回された手の手首を必死につかみながら背後を見た。私の後ろに居るのは……、。


「と……とぅ……、こ……さん」


 いけない……このままだと意識が飛ぶ。足を上げて彼女の足の甲に打ち下ろし、肘を彼女の腹に向かって撃つ。その勢いで体をひねって、何とか首を絞めていた手から体を外した。正気の桃子さんなら、こんな程度では振りほどけたりはしないだろう。


「桃子さん!」


 だめだ、彼女の眼は何も見ていない。それに彼女に力を使われたらもうお終いだ。不動の力で動けなくなる。彼女は再び両手をあげて私の首を狙おうとしていた。


「いたい!あああ、いたい!やめろ!」


 背後で百夜の悲鳴が上がった。念史さんが地面に倒れた百夜の背中から、その腕を決めている。何をするの!地面に落ちていたマ石を拾って、念史さんに投げつけた。


 ドン!


 マ石は念史さんの肩に当たって、その体を向こう側に打ち倒す。


「百夜!」


「痛い!肩がいたい!」


 なんてことだろう。百夜の腕があり得ないほうに捻じれている。肩を外されたんだ。分かった。百夜、逃げよう。確かに私達は一度倒したことがあると思って、こいつをなめていた。それに私じゃ脱臼は直せない。お願いだから少し我慢して。


 出口は、地下への出口はどっちだ。そこまで行けば、実季さんに伊一さんがいる。助けを求められる。出口を探す私の視線の前に何かが立ちはだかった。そして背後からも人影が近づいてくる。


「百夜!」


 念史さんが百夜の足を引っ張って、奴の方に向かって歩き出した。百夜の小さな体が、中庭の砂の上をズルズルと引きずられて行くのが見える。今や『神もどき』の体は瓦礫の山の前、中庭の真ん中まで達しようとしていた。あれを乗り越えられたら、もう奴と私たちの間には奴を邪魔するものは何もない。


「あぁぁぁあぁぁ!」


 百夜の口から悲鳴が上がる。まって、今助けに行く……


「うっ!」


 気をそらした隙に、桃子さんに私の首に腕を回された。腕の間に手を入れて必死に隙間を作ろうとする。だがその力は十人力の力を持っているのじゃないかと思うくらいに強く、私の首を執拗に締めあげてくる。


「いたい!やめろ!!やめろ!!!」


 耳に百夜の泣き叫ぶ声が聞こえる。


 桃子さん、眼を覚まして!せめて百夜だけでも逃がしてあげて!

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