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邪神

 学心はその姿に圧倒されていた。それはまさに想像を絶する奴だった。何本もの太い幹が枝分かれしたその姿は巨木と言うより、一つの森が移動しているかの様に見える。そいつが前に進むたびに、森の決して細くはない木々が巨大な音を立てて倒れていく。


 どのような詳細に書かれた絵図があったとしても、これが纏う禍々しさを表現するのは難しいだろう。確かに月貞は正しい。己の目で見ない限り、これを理解するのは困難だ。


 それだけではない。ねじれた枝とも根とも分からぬ触手のようなものがうねうねと動きながら、その倒れた木をさらに周囲に吹き飛ばしていた。その度に盛大な土埃とも、泥とも分からぬものが辺りに飛び散り、周囲に住む鳥や小動物達を住処から追い立てている。これでは先触れが役に立たなくなるはずだ。


 学心はこの森の悪魔とでも呼ぶべき存在について、その動きに学者らしく注意を払った。これがマ者であるならば、他のマ者と同様に、生態と言うべきものがあるはずだ。そして学心はある事実に気がついた。


 奴の背後で上がる土煙や、樹木の倒れ方を見る限り、奴は我々が来る前から、迷うことなくどこかへ一直線に向かおうとしていたように見える。先程、南2の監視所から逃げて来たらしい馬車とすれ違った。あの馬車は定員を超えていた様に思える。奴はあの馬車を追っていたのだろうか?


 「崩れ」が起きるとマ者はその辺りに居る人を手当たり次第に襲う。手当たり次第にだ。この動きは崩れによるものなのだろうか? こちらも組の定員をはるかに超えた人数で来ている。だとすれば奴は狙いをこちらに変えるはずだ。定員を越えてここに来ている事が良かったのか、悪かったのか、学心には判断がつかなかった。


「とりあえず、ここで降ります」


 この威力偵察組とでもいうべき集団の組頭をまかされた男が学心に声をかけた。確かに馬車でこれ以上近づくのは危険だ。本来はマ者を全く意識しない馬も、騒音の為か、やたらと嘶いて興奮している。


「役に立つかどうかは分かりませんが、閃光弾や音響弾も試す予定です。一式持っておいてください」


 組頭が学心に頭にひっかけて使う耳栓と、遮光用のすすをつけた硝子板を渡してきた。さらに女性用の小型の弩弓まで手渡してくる。


「使わないとは思いますが、護身用です。肩にでもひっかけておいてください」


 そう告げると、組頭は学心の前を離れて、馬車を降りた冒険者達に声を掛けた。


「守り手と打ち手は準備しろ。準備出来次第進むぞ。先生と連絡係は後ろだ。前と後ろの間には護衛もかねて、守り手をつなぎに入れる」


「組長、了解です」


「力を使う前に閃光弾と音響弾を使うぞ。笛の音に注意だ。こいつの破壊音で聞き逃すな。耳と目をやられるぞ」


『了解』


 奴のまき散らす騒音に、準備中の男達が手信号で答える。


「では先生、結社長から念押しされています。観察という奴をよろしくお願いします。通信係、先生の報告は間違いなく送れよ。物見方にも最優先で見ているように連絡が行っているはずだが、今のうちに物見との連絡の確認がてら、閃光弾について連絡しておけ」


『了解』


 背後に控える通信役の閃光使い達からも、返答の手信号が返った。組頭は満足そうに頷くと、視線を前から迫って来る奴へと戻す。


「意外と早いな。まあ、こっちは最初から『崩れ』覚悟で丸見えだから仕方ないか。先生、もう少し下がってもらいます」


 この男の言う通りだ。遠くに見えていた奴の姿が、いつの間にか最初に見た時から二倍の大きさに見えている。こいつは図体から想像するよりはるかに速く動けるらしい。こいつ相手だと、その巨体と合わせて、何かの罠なんかを張っている時間はなさそうに思える。


「おい、最近は探索組なんかにいいところ持っていかれているからな、さっさとこいつを倒してみんなで二つ名の祝いを()()()()()で派手にやるぞ!」


『了解』


「後で俺にもその所見とやらを教えてください。それに叙事詩の編纂もよろしくお願いします」


 組頭はそう告げると、学心に向かってにこやかに微笑んだ。どうやらここにいる者達は、狩り手らしくこれが狩れる事を確信しているらしい。そして力強く腕を上へと上げた。


『皆が良き狩り手であらんことを』


『良き狩手であらんことを』


 組頭の手信号に合わせて、前を進む男達が後ろ手に手信号で答えていく。風使い、つぶて使い、炎使い、槍使い、狩手組の狩り手達。いわゆる花形の奴らだ。あれだけ大きな的で外しようがない奴なので、案山子や不動、鉄鎖などといった支援役はいない。


 だがこんな奴を本当に人の手で止める事が出来るのか? 学心はその姿を見ながら、根本的な部分において疑問を抱かずにはいられなかった。


* * *


「何をやっているんだ?」


 組頭があっけにとられた声を上げた。すでに閃光弾と音響弾を試していたが、予想した通り、効果は全くなかった。今は打ち手たちが奴の前方に展開して、奴に力をぶつけるべく待機している。だが打ち手たちの動きが明らかにおかしい。


 木立等で身を隠しつつ、奴に近づいていたはずなのに、その動きが全く止まってしまっている。止まっているだけではない。何人かは木立から出て、不自然に身をくねらせている。その姿はどこかの巫女の真似でもしているみたいに見えた。


『警戒』『前方』


 組頭が手信号を送るが、前方にいる男達は何も反応していない。と言うよりこちらを見ているそぶりすらない。何なんだ? こいつは人を狂気に陥れる力があるとでもいうのか?


「訳が分からん。一度全員を戻す。こちらも下がる用意だ」


『撤退』


 組頭がつなぎに入っている守り手達に手信号を送った時だった。炎使いの男がくるりとこちらを向いた。やっとこちらに注意を払ったのか?


 前を見ると炎使いの男だけではなかった。打ち手達全員がこちらを見ている。だがその姿は冒険者らしからぬ棒立ちだ。背後には奴が刻一刻と近づいてきている。


「何をしているんだ。さっさとこっちに戻ってこい」


 横にいる組頭が再び手信号を送りつつ、苛ついた声で呟く。


「撤退だ!」「さっさと来い!」


 繋ぎに入っていた数名の男達が、業をいやしたのか打ち手たちに向かって叫んだ。その瞬間だった。真っ赤な炎が繋ぎ役の男の一人に上がった。


「ギャ――!」


 炎に包まれた男から悲鳴が上がり、地面を転がる姿が見えた。だがすぐに動かなくなる。


「おい!」


 学心の横にいた組頭がそれをあっけにとられた顔で見ている。次に槍使いが放った槍が、隣の男を背後へ数杖(数m)も吹き飛ばした。男の口からあがった血糊が、男の頭からこぼれ落ちた何かが地面を赤く、そして桃色の何かで染める。


 残った一人が、こっちに向かって必死に走ってくる。だが男の体は風使いが放った突風に捲き上げられたかと思ったら、目に見えない何かに打ち据えられて、地面にポトリと落ちた。


「ああ……、あああ……」


 私の横の男が叫びとも呟きとも分からない声を上げた。何なんだこれは……何で彼らはマ者の味方をするんだ。人がマ者の手下になって人を襲うなんて、こんなことがあり得るのか? 不意に学心の頭にある禁書の一節が浮かんだ。


「かく邪悪なるもの。それに近づき者はすべて邪悪なるものの僕とならん」


 「終末記」、御代の代の禁書。黒の帝国よりはるかに昔に隆盛を誇った古代の国。そこで書かれた未来に関する予言の書。未だにそのほとんどの意味が分かっておらぬもの。


 我々はまったく見当違いの書物を、マ者に関する記述を探していた。間違いだった。目の前に居るやつは、マ者なんて代物じゃない。正に邪神だ。我々を支配してこの世に終わりをもたらすものなのだ。


 打ち手たちはこちらに刻一刻と近づいてきている。もう彼らの顔が、それが何を映しているのかをはっきりと見る事が出来る距離だ。そしてそこには何の知性も人間性も感じられない。ただ虚ろな目が、虚ろな顔という物があるだけだった。


「逃げるぞ!」


 学心は叫んだ。しかしここに居る者達全てが、学心の声に何の反応も示さない。近づいてくるかつては人だった者を、今は邪神の僕と化した者を、怯えに満ちた目でじっと見ているだけだ。


 学心は背にした弩弓を手にした。もう何年もこんなものは使っていない。自分の体が使い方を覚えてくれていることを祈るだけだ。


 ブン!


 弩弓の弓弦が低い音を立て、そこに備え付けられた短弩が放たれた。放たれた弩は炎使いだった男の胸に吸い込まれ、彼の体を背後の地面へと打ち倒した。私の体はまだ弩の使い方を覚えてくれていたらしい。


「あんた!」


 なにかの呪縛から解かれた様に組頭が驚いた顔で学心を見る。何を驚く必要があるんだ?


「あれはもう人ではない。ああなりたくなかったら、すぐにここから逃げるんだ」


「撤退!」


 組頭の声に、辺りにいた通信係やら、守り手役の男達やらが慌てて50杖(50m)ほど先の馬車に向かって走り出す。


 その姿を見ながら、学心は月貞が面白いものが見られると自分に告げた言葉を思い出していた。あの男はさらには予言という言葉まで使って見せた。あの男は、奴はこれが起こることを知っていたのか? 知っていて私にそれを見に行けと言ったのか?


 いや、今は月貞のことなどどうでもいい。他に考えるべき事がある。どうすればいいのだ。どうすれば奴を止められる。近づけば全部奴に取り込まれる。このままだと城砦が、いや、人の世が終わりかねない。


 ともかく奴に取り込まれる前に皆で逃げだすしかない。関門だけが奴を止める最後の希望だ。もしかして黒の帝国の連中はこのことを知っていて、関門を、あの巨大な壁を築いたのか?


「いったん、道沿いに監獄まで下がります」


 馬車に飛び乗るや否や、組頭がこちらに向かって叫んだ。背後ではありとあらゆるものを破壊する音が鳴り響いている。


『監獄?』


 待て、監獄を使ってはいけない。それは奴に軍隊を贈呈するようなものだ!


「通信係、物見に連絡しろ」


「そんな暇は……」


「時間が無い、さっさとやれ!」


「『全権をよこせ』だ。急げ!おい、お前達。何をしているのだ、あのマ者達を撃て!」


 あれはもうお前達の同僚ではないのだぞ!


* * *


 黒青川の川沿いに見えてきた桟橋に、白蓮は心の中で安堵のため息を漏らした。渡しだ。やっとここまで戻ってきた。緊急の狼煙をあげているから対岸のここには誰も居ない。事務方も僕らがここを通るまでは誰もここに近づくことを許さないはずだ。


「くそ!」


 だが桟橋までたどり着いた白蓮は、荒い息をしながら悪態をついた。


 何てことだ。こちら側に浮き橋が一つもない。向うから引っ張ってこないといけない。僕一人だけだと時間がかかりすぎる。向う岸から誰かにこっちまで運んでもらった方が早い。


 腰に吊るしてある角灯を外して火をつける。火力を最大にして連絡用の指向性の覆いを下ろした。それを向こう岸に向かって振る。監視所は常にこちらを見ているから、すぐに気がつくはずだ。


 応答はどうした? 何で反応が無い。


「最優先緊急を上げた探索組だ!」


 とりあえず口に手を当てて大声で叫ぶ。やはり何も反応は無い。待てよここは渡しだよな。向こう岸に誰も居ないなんて事はあるのか?


「くそったれ!」


 白蓮の口から再び悪態の言葉が漏れた。そうか、奴のせいか。みんな逃げたんだ。その判断自体は正しい。奴に対しては逃げの一手しかない。だが僕にとっては最悪だ。しかし悩んでいる時間など無い。浮き橋をこちらまで手繰り寄せるしかない。


『ふーちゃん、無事でいてくれよ』


 やはり僕には千夏さんを非難する資格は無い様だ。君になにかあったら、僕がこの世に生きている意味なんて無いんだ。

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