悪夢
「実季さん、行きましょう!」
とりあえず濡れた肌着に上下は替えられた。あのままだったら逃げる前に凍傷で死んでしまっている。
「はい、お姉さま」
「実季さん、これは実季さんが持っていて」
私は黒い鞘を実季さんに差し出した。父の遺品の黒刃の短剣だ。これは私が持っていてもあまり役に立たない。実季さんが持っていた方がよほど役に立つ。
「お姉さま!」
遠慮しようとする彼女の手に短剣を押し付ける。今はそんな事をしている場合じゃない。
「分かりました。お姉さまだと思って預からせて頂きます」
「うん、ありがとう!」
「赤娘もしっぽ娘も急げ!やつはもう半分まで渡ってきてるぞ」
窓から外を見ている百夜の声には焦りの色がある。マ者相手で百夜の声に焦りを感じることがあるなんて、確かに湖畔以来の事だ。こいつはいつもマ物相手には無敵なんだと勝手に思い込んでいた。
「伊一さん、残り一台です。急いでください」
「もう少しだけ待て。奴の動きに関する情報を少しでも城砦に送りたい」
外から伊一さんの声が聞こえる。扉を開けて外に飛び出した。
「準備できました!」
監視所から表に出て思わず息を飲んだ。堤防の上に奴の姿がとても大きく見える。百夜の言う通りだ。すでに黒青川の半分は過ぎている。黒青川のとてつもなく早い流れを意に介している様子は全くない。
黒青川に大きなさざ波が立っている音が堤防の向こうから聞こえ、上がる白い飛沫がここからでも見えた。
「通信係、もう十分だ降りてこい。もうこれで最後だな?」
「はい、他はもう出ました」
御者役が伊一さんに答えた。監視所の建物の少し横に建られた通信棟から、数人の男性が梯子を滑り落ちてくる。私達に伊一さん、それに通信係に、火気責任者の女性で最後だ。
ともかくこいつから早く離れたい。三人で馬車の方へ向かう。だが背筋に冷たい物が走る。何だこの感じは? 何かがこちらに迫って来ている。やばい、奴だ。だがまだ奴は水の中じゃないの?
「赤娘!」
「お姉さま!」
何かが私の足に絡みついた。何!? だがそんな事を考える間もなく、あっという間に体が引きずられ、監視所の周りの土手を登っていく。そして土手を越えて、岸の方まで持っていかれそうになった。
「お姉さまを離せ!」
土手の上で私に追いついた実季さんが、私の足に絡みついていた木の根のようなものを切り落とした。その切り口から乾いた血の様な赤黒い樹液が流れる。やはり木の様に見えるのは見かけだけだ。
伊一さんと実季さんがそれぞれ私の手を引いて、土手の上を岸に向かって滑っていた私の体を監視所側に引き上げた。だが私の体めがけて、奴の根の様に見える触手が新たに何本も迫ってくる。それは私のほうだけじゃなく、土手の上に居る百夜の方にも伸びていく。
「お願いします!」
実季さんが私の手を伊一さんに預けると、私の前に立ちふさがって、私に向かっていた触手を短剣で払う。待って実季さん、もしかして私の代わりに囮になるつもり?
「実季さん!」
「何で!」
実季さんが声をあげた。触手は実季さんの足元を抜けると、その存在を無視して私の方へと向かってくる。実季さんは体を翻して、後ろからこちらに向かっていた触手を切り落とした。やっぱり剣を彼女に預けて良かった。
「赤娘、こいつの狙いは我らだ!」
土手の上では百夜が身を翻して、巧みに触手を避けている。お前はさっさと逃げろ黒娘。お前も私の為に囮になんてなるんじゃない!伊一さんの助けを借りてやっと立ち上がった。奴に掴まれた足首は痛むが、走れないことはない。
「百夜!」
「風華、実季、馬車まで走れ」
伊一さんが私の体を馬車の方に向かって押した。視線の先ではすでに馬車に乗った人達が私達を手招きしている。でもまだ百夜が!
「百夜君!」
伊一さんは素早く触手の上を飛び越えると、触手に囲まれつつあった百夜を抱える。そしてまたそれを飛び越えると、こちらに向かって驚くほどの速さで走ってきた。この人は隠密使いではなくて、達速使いなんだ。
『ありがとうございます』
心の中で伊一さんに礼を告げた。でもそんなことを考えている間もなく、何本もの触手が再び私と百夜の後を追いかけてくる。一体何なの? こいつは仲間を燃やした仇でも討ちたいのか?
私と実季さんが、続いて百夜を抱えた伊一さんが馬車に飛び込んだ。
「行け!」
伊一さんが怒鳴った。
「はっ!」
御者役が手綱を激しく鳴らすと、馬車は一気に加速する。荷台から落ちそうになった私の体を実季さんが支えてくれた。徐々に離れていく監視所の周りでは、奴の根らしき触手が狂ったようにのたうち回っている。奴の触手になぎ倒された通信棟が、監視所の建物に激突して、巨大な破壊音と埃をまき散らすのが見えた。
荷台の上では誰もが無言だった。そして奴に破壊されて、埃と木と石をまき散らす監視所をじっと見ている。その姿とそれが破壊される音はやがて小さくなり、そして必死に走る馬の嘶きと、車輪の立てる喧騒だけが辺りを満たした。
今朝、監視所を出た時はこんなことが起きるなんて夢にも思わなかった。今朝は何がいつもの朝と違っていたというのだろう? 実季さん、私もあなたと同じだ。同じことを考えている。
これが悪夢なら、早く目が覚めてほしい。
* * *
白蓮は探索路にそって、南東に向かって走り続けていた。ほとんど何も装備を持っていないというのに、自分の走る速さがあまりにも遅く感じる。
右手の坂の下には、奴がなぎ倒したらしい何本もの木が幹の途中で折れて、無残な姿をさらしている。頭の上では鳥達の狂った様な囀りが聞こえていた。僕に達速使いの力をくれるのなら、そいつがどんな奴でも喜んで言う事を聞く。
そんなどうしようもない妄想を考えているうちに、激しい水音が耳に聞こえてきた。やっと黒青川まで戻って来れた。だがこの水音は何だ?
木立が切れて目の前に黒青川が姿を現す。だがその水面は大きな波をたてており、岸の自然堤防にぶつかって大きな波しぶきを立てている。ここしばらく続いている冬の曇り空ではあるが、たいした風は無い。一体何がこの波を起こしているのだろう。
波が寄せる先に視線をやると、そこにはねじれた巨木、いや、一つの森のようにすら見える巨大な何かが、向う岸に近い水面に生えているのが見えた。
いや、生えているのではない。そこを向こう岸に向かって進んでいるのだ。奴がその曲がりくねった枝のようなものを狂ったように動かす度に、そしてその幹のようなものが耳障りな音を立てて捻れる度に、黒青側の水面に大きな波としぶきが立っていた。
そこから伸びていると思しき節くれだった根のような触手が、向こう岸の堤防を越えて跳ね回っている。その触手の先では無残に破壊された左2の監視所の残骸が、瓦礫と埃を空へと跳ね上げていた。
確かに巨木の姿をした似たような奴とは湖畔でやりあった。そいつは僕らがつけた火で盛大に燃え上がった。だが目の前にいるこいつは同じものなのか?
湖畔の奴は樫の木のとんでもない巨木の中に隠れていたが、こんなに動き回ったりするようには到底見えなかった。だがこれは自由に移動し、あたりに破壊の嵐をまき散らしている。到底同じ奴とは思えない。
向う岸の監視所の方には何も人影はない。そこにいた人達は、ふーちゃん達も含めて無事に逃げてくれただろうか? 向う岸の周辺にも人影らしきものは無かった。きっとみんな逃げてくれたに違いない。今はそう信じるしかない。
思わず張りつめていた息が口から洩れる。ここまで走り続けて来た体が、急に鉛のように感じられ、思わず膝に手をついて頭を下げた。肺が空気を求めてあえいでいる。だがこれで終わったわけじゃない。ふーちゃん達の無事を確かめる必要がある。
「ん!」
下ろした視線の隅に何かが映ったような気がした。慌てて頭を上げて辺りを見渡す。大外套を着た人影が3つ見えた。冒険者だ。警備方の人達か? 待て、あんたら何をしているんだ!
「おい待て、あんた達!」
彼らは川に向かってゆっくりと、だが躊躇なく進んでいる。何をしているんだ!そこらの小川じゃないんだ。黒青川だぞ!
「おい待て!」
川岸を彼らに向かって走る。何かおかしい。いやおかしいなんてもんじゃない。人影の一つがそのまま黒青側に足を踏み入れるのが見えた。二人目もそのまま川に入ろうとしている
「戻れ!死ぬぞ!」
だが僕の声は彼らに一向に届いている様子はない。あと50杖だ。間に合ってくれ。一人目が流れに足を取られて川下へと流されていく。頭が一瞬だけ水面の上に見えたかと思ったら、もう二度とその姿は上がってこない。
二人目も流木のように、その体が流れにくるりと回ったかと思ったら、そのまま水の中へと沈んでいった。
『何なんだこの人達は!』
あと20杖(20m)もない。せめて最後の一人だけは……
だが最後の一人も、何の躊躇もなく黒青川に足を踏み入れる。その視線の先にいるのは奴だ。男は腰の上まで水に入ると、そのまま流れに流されていく。男の顔がこちらを見た。まだ若い僕と変わらぬ年の男性だ。だがその視線は何も、何も見ていない。
『くそ!』
そう言う事か!奴は湖畔と会った奴と同類なのは間違いない。こいつは人を支配する。正面から立ち向かっても、奴に支配されるだけだ。しかもこいつは自分から僕らに向かってくる。こいつの方が湖畔の奴よりはるかに邪悪だ。
ここに来るまでに何度も試していることを、もう一度やってみる。笛の音の位置を先触れ用に合わせて笛を吹く。人の耳には聞こえない音があたりに響いているはずだ。だが何も反応は無い。
ちきしょう!駄目か!?
奴の振動と破壊音で、この変にいる鳥や獣たちも相当に泡を食っている。先触れ達もみんな逃げだしてしまったに違いない。
奴は東へと進んでいる。その先にはふーちゃん達がいる。そしてこのことを誰かが城砦に、冒険者全てに伝えないといけない。ふーちゃん達も知っている事だが、他の人達が彼女達の話を真に受けてくれるかどうかはかなり怪しい。おそらく誰も信じてくれないだろう。
僕が説明しても、探索組の一部の人達に信じてもらえるかどうかというところだ。歌月さんやアルさんがそれなりに時間をかけて説得して、五分五分と言うところか?
ともかくふーちゃんの元にたどり着かないといけない。彼女の安全が一番だ。残念な事に、右手に見える緊急用の渡しの設備は奴によって木っ端みじんだ。本来の渡しまで戻らないといけない。最初からそちらに向かえばよかったのか? 今更考えてもしょうがない。
ともかく走る。たとえ肺がつぶれようが、足がつぶれようが、ふーちゃんの元まで全力で走る!
僕が今できることはそれしかない。




