逃走
「誰か早く油紙と防寒布を持ってこい! 凍傷になるぞ」
岸にたどり着くと、伊一さんが監視所に向かって声を上げた。そして私達の方を覗き込む。
「皆さん、怪我は?」
大丈夫と答えたいのだが、歯の根がかみ合わなくて口がまともに開けない。腰から下は体の感覚自体がない。
「怪我はないみたいだね」
私が口を開く前に、伊一さんは私達を一瞥すると、安心した様に頷いて見せた。
「は……い……たす……か……り……ま……し……た」
誰かの手で防寒布が体に巻き付けられる。
ギィギィイイイイギィイイギィイイギィィィイィイィィ
背後では奴が川岸迄完全に姿を現していた。ねじれた巨木そのものだ。それが根や枝を、幹をよじりながらこちらへと近づいて来ている。そして奴は躊躇することなく、黒青川へとその主根の様なものを下ろしていく。もしかして、こいつは川を超えるつもりなのか? いや、まさか……
周りにいる人たちも動きをとめて、神もどきをじっと見ている。その姿は不動の力にでも捕らえられたかのようだ。
「離れろ!」
伊一さんの叫びがその静寂を破った。皆が我に返ったかのように岸から堤防の上へと駆けあがる。奴の起こした波紋が大きな波となって、こちらの堤防の上まで飛沫をまき散らした。
眼下では波を受けた渡しの桟橋から、盛大な水しぶきが上がり、桟橋の上に置かれた装備が宙を舞っては、ぽとりと黒青川の中に落ちていく。係留されていた浮き橋も、ただの木片のかたまりのような姿になって、川の流れに飲まれていった。
「何だあれは?」
伊一さんが黒青側へと身を入れようとしている神もどきを見ながら呟いた。その態度はいつもの様に冷静そのものだが、その声は少し震えている様にも感じられる。
「かっ……か、み、も……ど……き……です」
「かみ?」
だめだ、寒さで舌が全く回らない。
「つまらないの。神もどきだ。さっさと逃げろ。あれがこちらまで来たら終わりだぞ」
私の代わりに百夜が伊一さんに説明してくれた。私も震える体で必死に頷いて見せる。
「お前達、あれを知っているのか?」
伊一さんが驚いた顔をして私達を見る。
「そうだ。だがあれは我が前に会った奴より、もっと手強い」
伊一さんが助けを求めるように周りの人々を見回した。しかしそこに居並ぶ全員がさっぱりだという顔をしている。
何か説明が居るの? 見ればわかるでしょう。あれはとてつもなくやばい奴だ。あの緑香さんでも勝てなかった奴だ。それに百夜の言う通りだ。これは湖畔で会った奴よりも、もっともっとやばい奴だ。
「に……に……げ、な……い……と」
「そうだ。お前達、何をぐずぐずしている。さっさと逃げるのだ!」
百夜が叫んだ。
「しかし、あれを監視して城砦に報告しないと……」
伊一さんが当惑した顔をして百夜を見る。
「繋がれたら終わりだぞ!」
癇癪をおこした百夜が、ダンダンと地面を足で踏み鳴らす。
「副、主任……この子達が、言っているのは、本当……です」
香子さんが震える体と声を必死に抑えながら、伊一さんに訴えた。
「香子さん?」
「多分、繋ぐというのは意識を……乗っ取られる事を……言って、言いるのだと、お、思います。私……も、やら……れました」
「は、はい、副主任。私も……同じ、です」
実季さんが香子さんに同意して見せた。そうしている間にも奴は幹の部分の大半を黒青川へと入れている。黒青川は深いと聞いたが、奴の体の三分の一も水に沈んでいない。それだけ巨大な相手と言う事だ。
「近づかれたら……終わり……です。すいません……警戒組の三……三……人はと……瑞希は……」
「分かった香子さん。君達だけでも戻れたのは僥倖だった。戻れなかった者達については君の責任ではない。後は僕に任せて休んでください」
伊一さんはそう香子さんに告げると、私達の方を振り向いた。
「君達も監視所で着替えて逃げる準備だ。手すきの者は馬車の用意をお願いします。準備出来次第、監獄に撤収します。余計な物は何も持たないでください」
伊一さんが皆に指示を出していく。良かった。分かってくれた。
「物見係、城砦に向けて発光信号をお願いします」
「はい、副主任」
「『逃げろ』と打ってください」
* * *
「遠見卿。大丈夫ですか?」
遠見卿はその声に自分が何処かで寝かされているのに気がついた。変わった眼鏡をかけた男がこちらを覗き込んでいる。
「柚安君か?」
「まだ横になられていた方が……」
体を起こそうとした遠見卿に柚安が声をかけたが、遠見卿はその言葉を無視すると体を起こした。胃からはまるでそこに焼けた石を放り込んだかの様な痛みが続いている。
どうやらいつの間にか意識を失っていたらしい。周りを見ると、物見方においてある長椅子の上に寝かされている。
何てことだ。こんな大事な時に気を失っているとは。役立たずもいいところではないか……。
「私の体などどうでもいい話だ。下は大丈夫なのか?」
「はい、今は大して潜っていません。出ているのは全部森に留めておくことにしました。緊急備蓄の使用許可と使用順番の割り振りまでは終わっています。一体何事ですか?」
遠見卿は柚安に向かって肩をすくめて見せた。それが分かれば苦労はしない。こんなのは初めてだ。前回の新種騒ぎの時でさえ、これほどの密度は感じなかった。
「分からん。だがとんでもない奴という事だけは私の力でも十分に分かった。奴の位置をもう一度探らないと……」
「遠見卿、奴の場所は分かっています。今は無理は禁物です。あなたに倒れられると、いざという時に何も分からなくなります」
遠見卿は心の中でため息をついた。若い奴にこんなことを言われるようになるとは、老いとは残酷なものだな。いや老いだけではない。私の命は消えかかっている。だがそんな個人的な感傷なんかは後回しだ。
「奴は何処だ?」
「監視所から連絡がありました。左2の監視所のところで黒青川を渡河しつつあるようです。どうやら巨木ないしは森のように見える、とてつもなくでかい奴のようです」
「巨木? 新種か?」
「そうでしょうね。それとそれを観測した左2から追伸があります」
「追伸?」
「はい、『逃げろ』だそうです。じきにもっと詳しい情報が先触れか何かで届くと思います。まあ先触れがちゃんと機能すればの話ですが……」
柚安はそう言うと訝し気に窓の外に目をやった。その視線の先では、森の上で多くの鳥たちが狂ったように飛び交う姿がある。
「『逃げろ』か、ともかく早急に対策をたてないといけない」
「はい、この件については結社長と書庫へは連絡済みです。それに監獄が少しは時間を稼いでくれるはずです」
「監獄か……」
「はい、監獄はそのためにあるのですから」
柚安はそう遠見卿に告げると、軽く頭を下げて、下に向かう階段の方へと歩いていく。入れ替わりに医事方の者たちがこちらへと向かってくる姿があった。
今は自分の体のことなど後回しだ。遠見卿は胃の痛みに耐えながら立ち上がると、外に続く扉へと手をかけた。




