厄災
「走れ!」
百夜の掛け声に、全員で渡しの桟橋に向かって走り出す。
「百夜!何とかならないの?」
「出来ん。あれは我の天敵のような奴だ」
確かに湖畔の時も百夜は投擲で緑耶さんをぶっ倒したけど、それ以外は何も出来なかった。だいたいあの嫌味男も、世恋さんも歌月さんまでもが手も足も出なかった。つまりこれは逃げの一手という事だ。
百夜の手を引いて、三人で探索路を渡しまで走る。これはもう崩れとか言っている場合じゃない。百夜を引きずる様にして必死に走り続けると、やっと渡しの桟橋が見えてきた。桟橋には香子さん一人だけが居る。
全力で走って来たので、息が苦しくてたまらないが、何が来るのか彼女に話さないといけない。
「香子さん……奴が、奴が、来ます、神、もどきです」
だが香子さんは私の呼びかけに全く反応する様子はない。無言で向こう岸を見つめる香子さんの手を取って、こちらを振り向かせた。あれ? おかしい。目は開いているが、その目は何も、何も見ていない。これって!
「百夜!」
「繋がれたな。しっぽ娘、お前も気を確かに持て。繋がれたらお終いだぞ!」
実季さんも蒼白な顔をしている。
「百夜!実季さんを払って、私は香子さんを払う」
何かが私達に手を伸ばそうとしているのが分かる。湖畔で見た、あの黒光りするあれだ。あの得体のしれない触手のような奴だ。あの時にはドロドロした触手の様なものが見えたけど、今日は何も見えない。
もしかしたら日の光の下では見えないのかもしれない。だけど湖畔では手で払う事が出来た。今回も出来るかもしれない。それを信じて香子さんの背中に手を伸ばした。
『あぁあぁ……』
自分の体の全てが、私の意思に逆らってそこから手を引こうとする。その不気味さは蛞蝓で満たした壺に手を入れた方がはるかにましなくらいだ。とても言葉に出来ない嫌悪感の塊が、手から頭の先、そして足の爪先まで私の全てを犯していく。これはあの湖畔にいたやつなんか目じゃない。それよりはるかに強力で邪悪な奴だ。
それでも必死に手を動かす。香子さんの体が不意に崩れ落ちた。私の力では彼女を支えることが出来ない。彼女の体が前から崩れ落ちていく。それを支えようとした私の体も桟橋の上に一緒に倒れ込んだ。でも香子さんが怪我をするのだけはなんとか避けられた。
「いや――!」
だが安心する間もなく、背後で悲鳴が上がった。実季さんの悲鳴だ。百夜が必死に何かを払おうとしているが、百夜の体では実季さんの頭までは届かない。
「実季さん、しっかりして!」
「いや、いや!」
起き上がって彼女の体にとびついた。背中に頭に手をやって必死に祓う。再び体中にこの上もない嫌悪感が走る。嫌悪感なんてもんじゃない。邪悪な何かに全身を嬲られているような感じすらする。
「やめて――――!」
だめだ。彼女は私を見ていない。どうしたの実季!? あんたは私なんかよりはるかに強い人よ!
「実季!しっかりして!貴方は私の弟子よ!こんな奴に負けるんじゃない!あなたがこんな奴に負けるなんて、私が絶対に許さない!」
彼女の頬を張る。固く閉じられていた彼女の目が見開かれた。私を見るその顔は蒼白を通り越して、まるで紙のように白い。そして私が抱いた彼女の肩は小刻みに震えていた。負けないで実季さん!彼女の目を必死で見つめる。彼女の栗色の瞳が私を捉えた。
「しっかりして実季さん!向こう岸まで逃げるよ!」
低く、そして体の内から震えるような振動はさっきより近づいてきている。間違いない。奴はこちらに向かって来ている。
「百夜、右手を探って!まだ警戒組の3人が残っているはず。助けに行かないと……」
百夜が私の目をじっと見た。
「赤娘、無駄だ。もう遅い」
何が遅いだ!
「探せ!」
「だめだ。何も感じない。もう取り込まれた後だ。お前が行けば、お前だけじゃない、我も実季も、ここにいる皆が死ぬ。あきらめろ」
「分かった」
右手の奥の森を見る。そこには何の気配もない。かみしめた唇から血の味がする。
『ごめんなさい!』
警戒組は警戒するのが仕事だったのに、探索路を呑気に歩いていたからだ。何もいないと分かったのなら、さっさと森の奥を探るべきだった。ごめんなさい。本当にごめんなさい。未だにぼっとしている実季さんの頬をもう一度張る。
「実季、しっかりして!浮き橋を桟橋に戻す。あなたにも手伝ってもらう」
私と百夜だけではどうにもならない。実季さんの力も必要だ。それにここだけじゃない。森に入っているみんなが危険だ。
ありったけの緊急の狼煙玉を桟橋の向こう側に転がす。誰でもいい、ともかく大勢の目に留まって欲しい。実季さんと二人で綱を引っ張って、川に漂っていた浮き橋を桟橋に戻す。焦りからかうまく綱が引けない。それでもちょっとずつ、空の浮き橋が桟橋の方へと寄ってきた。
「タン、タン、タタン」
百夜が桟橋の上で、下手な踊りでも踊っているかのように足を踏み鳴らしている。もちろん踊りなんか踊っているのではない。こちらに手を伸ばしている、見えない触手を必死に払っているのだ。その動きはどんどんと忙しなく、そして激しくなっていく。
「実季さん、そっちを持って」
香子さんの体をほとんど放り投げるように浮橋に下ろす。彼女の体を受けて、浮き橋が大きく左右に揺れた。
「実季さん、先に乗って。百夜!」
百夜の体を抱きかかえて、浮き橋に飛び込んだ。実季さんが反対側に体重をうまくかけて、私達を受け止めてくれた。そうでなかったら、この時点で浮橋は転覆していたかもしれない。
ともかく実季さんと二人で綱にとりついて、それを引っ張る。背後からはもはや振動だけではなく、何かが引き裂かれて倒れる大きな音も響いていた。それはまるで巨人が森を破壊しようとでもしているかの様な音だった。
黒青川の早い流れに妨げられて、浮橋は中々前へと進んでいかない。そして背後の音はより大きく、より鮮明になっていく。私の非力な腕は既に悲鳴を上げていた。
一体そこには何が居ると言うのだろう。今は前だけを向いて、ひたすらに綱を引くべきだと分かってはいたが、迫る恐怖に耐えきれずに、思わず背後を振り返った。
『なっ、何なの!?』
そこには巨大な木の様な物が見えた。それは楡の木の様に大きく枝を広げた姿をしている。根らしきものも枝と同じ様に左右に広く張り出していた。その大きさは湖畔で見た、神と崇められていた巨木よりは一回り以上小さい。だがそれは全てが歪められ、はるかに邪悪な、邪神とでも呼ぶべき姿をしていた。
枝も幹も節くれだっており、ねじ曲がってしまっている。その色は黒く、ざらついた表面からはまるで乾いた血の色を思い出す、赤黒い樹液らしきものが染み出していた。
そしてそれは体を捻り、震わせながらこちらへと近づいて来ている。その節くれだってねじ曲がった枝や根らしき物が打ち振るわれる度に、森の木々があっさりと引き倒されていった。
その強大な暴力の前に、住処を失った森の鳥たちが、狂った様に鳴き叫びながら空へと駆け上がっていくのが見えた。そして迷子の群れの様に森の上を旋回し続けている。
「これは、夢じゃないですよね……」
反対側で綱を引いている実季さんの口から言葉が漏れた。そう告げた彼女の目は大きく見開かれ、悪夢から目覚めたばかりの子供のような怯えに満ちている。
「実季さん、これは夢なんかじゃない。現実よ!」
悪夢のように、目覚めたらそこで終わりじゃない。
* * *
「遠見卿、南の黒青川沿いからまた緊急の狼煙です。これで3つ目です」
物見方の見張り員は手すりに据え付けられた遠眼鏡を覗き込みながら、背後に立つ遠見卿に向かって声を上げた。その声は報告と言うより叫びに近い。
「一体今日は何があったというんだ?」
長らくこの仕事について、主任を任せられている見張り員の口から狼狽した言葉が漏れた。こんな事は一度も経験した事もなければ聞いた事もない。見張り員は遠見卿からの指示を待ったが何も無かった。不審に思った見張り員は遠眼鏡から顔を上げると、背後を振り返った。
「遠見卿!」
そこに居た遠見卿の姿を見た見張り員が、驚きの声を上げた。彼の横では遠見卿が胃の辺りを抑えながら、手すりに縋りついている。見張り員は慌てて遠見卿へ手を伸ばすと、その体を支えた。
「遠見卿、しっかりしてください」
だが遠見卿の顔は蒼白で血の気を失っており、痛みの為か、脂汗を流している。そしてその体は床へと崩れ落ちていった。見張り員は伝声管に飛びつくと、それに向かって叫んだ。
「遠見卿が倒れられた。救護班を呼べ!緊急だ!」
見張り員は伝声管から離れると、遠見卿の体を抱き起こした。その姿を見た他の見張り員も、中に居た者達も慌てて外へと飛び出してくる。
「何だ、何なんだ……」
その様子を心配そうに見る者達の前で、遠見卿の口から微かに呟きが漏れた。そして目を開く。その目は彼を心配そうにのぞき込む人々を全く見てはいない。
「救護班はまだか!急がせろ!」
遠見卿がそう叫んだ見張り員の胸倉をいきなり掴んだ。
「あれは、マ者なんて代物じゃない!あれは、我々がどうこうできる様な奴じゃないんだ!」
* * *
「創晴、ま、待て!」
創晴さんが帆洲と呼んだ、まだ若い男性が創晴さんに声を掛けた。
「何だ? 死にかけなんだから黙っていろ」
疲れか、それとも何処かに痛みでもあるのだろうか? 悪いが今は立ち止まっている場合じゃない。ともかく早く監視所まで戻らないといけない。最重要緊急要請の狼煙を上げたから、黒青川の渡しも他の組をすべて止めて、僕らが最優先で渡れるはずだ。
「だ、だめだ。この先に進むな。奴に、追いつく」
『進むな? 奴?』
思わず創晴さんの方をふり返った。創晴さんも訳が分からんと言う顔をしている。
「奴って何だ」
「化け物。いや化け物以上だ」
「腹でも減りすぎて、頭がおかしくなったか?」
そう告げた創晴さんと顔を見合わせる。これだけひどい状態なのだから、多少錯乱していてもおかしくはない。だが彼は僕らに向かって必死に首を横に振って見せた。その目に狂気はない。僕らに何かを訴えようとしている切実さだけがある。
「違う。狂ってなどいない。姉さんもそいつに一度やられそうになった。力で防いで、姉さんをかついで逃げた。必死だった」
彼は創晴さんの肩から腕を外すと、創晴さんの胸に縋りついた。
「おい、帆洲。お前、本当に死んじまうぞ」
「あいつの後には何も残らない。だから危険を承知で、あいつの後をつけて逃げてきた」
何も残らない? あの営巣地の「渡り」の事を言っているのか? あれは「帳」の仕業じゃないのか?
「見ろ、お前にもあれが見えるはずだ。奴だ。これ以上近づいてはだめだ」
そう言うと、彼は必死の力で創晴さんを引きずると、その顔を右手前方へと向けさせた。何だろう。あの森の上にある黒い塊は?
「ひっ!」
背後に居た千夏さんの口から悲鳴が上がった。彼が示した方角の空には沢山の黒い点の様な物がある。あれは鳥か? 鳥が森の上を舞っているのか? その数はあまりにも多い。
椋鳥の群れだろうか? でもまだ夕方じゃない。それに一種類でもない。あのでかいのは黒鳥だ。ともかく飛び方が異常だ。群れるというより、ただ慌てふためいているだけのようにしか見えない。
それに強い風が吹いているのか、木の枝がやたらと揺れている。いや揺れているのはそこだけだ。何かが動いているのか?
「白蓮さん!」
千夏さんが僕の前へと飛び出してきた。僕を見つめる目は大きく見開かれている。
「千夏さん?」
「大高森です!」
大高森!? いったい何の話だ?
「あれは、あれは……この世の厄災そのものなんです!」
千夏さんのそれは、言葉というより叫びに近かった。彼女が僕の体に縋りつく。その体は小さく震えている。それは手の中に入れた先触れの体のように弱々しく感じられた。
彼女の背中に手を回しながら、先程の方角に再度視線を向けると、ここからはその頭だけしか見えないが、何か巨大な木のような森のような奴が、ゆっくりと右手前方へと進んでいくのが分かった。よく見ると、その先では緊急を表す黄色い煙が盛大に上がっている。
「千夏、あいつが何か分かるのか?」
創晴さんが僕に縋りついている千夏さんに問いかけた。
「名前だけです。祖父からはまるで大きな森のようなマ者がいて、それに近づいたら命はないと言われました。この世の厄災の全てだと」
大きな森のようなマ者? そうだ、あれは見たことがある。旧街道の湖畔で、あの巨大な樫の木に同化して隠れて居た奴だ。
まずい!
奴が向かっている先は……間違いない。そしてあの緊急の煙玉をあげたのも間違いない。ここには僕ら以外は彼らしか潜っていない。
左2の監視所だ。
そしてそこにはふーちゃん達がいる。




