帳
笹薮から出てきた二人は、ゆっくりと、ゆっくりと、帳の近くを離れてこちらへと向かってくる。おそらくこちらにはまだ気づいていない。だがその足取りはかなり心もとなかった。音を立てないためにと言うより、もうその動きしか出来ないという感じだ。
どうする? こちらは3人だ。定員越えはない。彼らを救うには、帳の注意をこちらに引き付けて、音響弾でやつらの聴覚を麻痺させている間に脱出だ。だがそれをするには僕では帳に近すぎる。引き付けるも何も、その前にあっさりとやられる。
後ろを見た。そこに居るのは千夏さんだけだ。創晴さんは後衛で退路の確保をしているはず。それに渡りが全滅させられたのだ。前に居る帳だけではなく、他にもっといる可能性が高い。音響弾なんて使ったら、この辺りにいるやつらを全部を引き寄せるかもしれない。
見捨てるか? あるいはともかく千夏さんだけでも逃がすか? だめだ。すでに奴は何かが居ることに気が付いている。千夏さんが音を立てたら、その時点で彼女が狙われる。
チチチチチ……
前の二人が背後の帳を見た。一人がもう一人の手を引きゆっくりと移動しようとしている。彼らを犠牲にすれば、僕達は逃げ切れるのではないか? それもだめだな。時間稼ぎにもならない。帳はあの二人をあっという間に仕留めて、次に僕らを始末する。
帳の急所は背中にある。千夏を囮に僕が背後から仕留められれば、全員が逃げ切れるかもしれない。だがこの手は囮になる千夏を一番の危険に陥れる。それに僕の腕で空を飛ぶ帳を落とせるのか?
何を迷っている。迷っている時間などないのだぞ!
これがふーちゃんなら悩むまでもない。彼女は前の二人を絶対に見捨てたりはしない。彼らを助けられる可能性があるのなら、自分から彼らを助ける為に囮になる。だから僕も悩む必要などない。ただ命を懸けて彼女を守るだけだ。なんで千夏にはそれをやれと言えない!?
バサ……、チチチチチチチチチチチ……
帳が羽を広げて顔を上げた。くそ、時間切れだ。これは時間を無駄にした僕の責任だ。自分でやるしかない。端に咥えていた笛を口の中央に持っていき、舌で板を動かして高音側に設定する。
ピ――――!
来い『帳』。僕が相手をしてやる。僕がいくらマナ無しでも、これなら僕がお前にははっきりと見えるだろう。その代わりにみんなからは離れてもらう。背中の弩弓を手に取り、崖の縁から落ち葉の上を一気に滑り落ちる。
「千夏、そこの二人をつれて逃げろ!」
滑り降りながら背後の千夏に叫ぶ。これで帳は僕を最初に狙う。僕が殺られるまでは、他の誰かを狙いには行かない。
チチチチチ、バサバサ――
長革靴の底で制動をかけつつ、下った勢いを使って、営巣地を覆う渡りの羽毛の中に突っ込む。辺りに渡りの白い羽毛が舞い上がった。
「東に逃げろ。二人いる!」
崖の上にいる泥だらけの二人に声を掛ける。そのうち遅れ気味の一人の手を引いていた人物がこちらを見た。そいつに向かって東側を指す。うまく聞き取れなくても、これで十分に分かるはずだ。千夏さん、二人を頼んだよ。
バサバサ……
何かの影が辺りを舞う。帳だ。殺られる前にせめて弩の一本ぐらいはくれてやる。だがあたりは帳が巻き起こす風に舞う渡りの羽毛で、まるで吹雪の中にでもいるみたいだ。全く視界が効かない。
チチチチチチ、チチチチチ……
耳障りな帳の鳴き声が再び耳をつんざく。だが奴はこのくぼ地の上を旋回するだけだ。そうか、この羽毛のせいで、こちらの位置を見失っているのか? だが渡りの急所は背中側だ。下からは狙えない。くそ、こんな奴に会うとは思っていなかったぞ。
狙おうにも、こちらも舞い上がる羽毛が邪魔な上に、上空をひらひらと舞う奴が相手では、とても狙いなんかつけられない。弩と言う奴は弓と違って一撃勝負だ。
「ズドン!」
唐突に岩が落ちてくる様な音が響いた。空から奴が降りてきた音だ。そして羽毛のない黒い羽根を思いっきり振る。
バサ――――!
まるで風使いの全力のような突風が周囲に渦巻いた。その風が僕の周りを舞っていた羽毛を全て背後へと吹き飛ばす。羽毛だけじゃない。不意をつかれたこちらの体も背中から地面へと叩きつけられた。辛うじて弩は手に保持したが、その為に受け身が取れず、もろに背中を打って息が詰まる。早く立ち上がって背後に回らないと……
チチチチチチ!
何か黒い影が自分の周りを包んだ。百合のつぼみが開くように帳の口が開き、その4つに分かれた嘴の縁の内側に、奴の牙が黒光りしているのが見える。こちらよりも奴の方が動きが早い。背後に回るなど不可能だ。背中の急所でなくても、口の中ならいけないか?
弩を構えようとするが、奴の動きは予想以上に俊敏だ。とても間に合わない。ああ、これが僕の最後か。ここまではたまたま生き残れてこれたが、今回はだめだったらしい。ごめんよ、ふーちゃん。僕は君の守護者としては役不足だった。
「白蓮さ~~ん!」
不意に千夏の叫び声が聞こえた。何をしている。なぜ逃げていない。弩弓の弓弦の音が聞こえた。見ると帳の羽に小さな短弩の矢が刺さっている。帳が叫び声がした方を向いた。だめだ千夏。僕の次に君がやられる。横を向いている奴の口は狙えない。奴の胸を狙って弩を放つと、それは奴の胸の中心に突き刺さった。
チチチチチ!
奴が再び僕の方を向くと嘴を大きく開く。僕の放った弩は何の効果も無かったらしい。くそ!駄目か。今度こそお終いだ。なんてことだ。僕も死んで千夏も死ぬ!そしてみんな死ぬ!これでは犬死以下だ!
パン!
何かがはじける音がして、僕の顔を火傷しそうな程の熱風が通った。思わずその熱さに体をよじる。見ると目の前の帳の背中に大きな炎の柱が上がっており、その炎はそのまま帳の全身を包んでいく。
チィ―――――!
帳は火を消そうと必死に羽ばたくが、その羽ばたきにより炎はさらに火力を上げ、盛大に周りに火の粉をまき散らしていく。火の粉は僕の皮の上着の上にも落ちて、そこに焦げを作った。
いかん、このままではこちらもまる焼けだ。弩弓を手放してそのまま横に転がる。全身に泥がへばりついて、渡りの毛で真っ白だ。だがそのおかげで熱さも少しは和らいだ。そのまま転がって10杖ほど離れても、まだ顔に感じる風は相当に熱い。どこかにとんでもない炎使いでも居るのか? さっきの泥だらけか!
「白蓮さん!」「白蓮!」
振り返ると、十数杖ほど上の崖の上に千夏さんと創晴さんが居る。そして創晴さんの肩にもたれかかって、さっきの二人組の一人が居た。
「白蓮、さっさと登ってこい。他の奴が来る前に逃げるぞ」
さっさと言われましてもね。こっちは本当にボロボロなんですよ。
* * *
「白蓮、手を出せ」
下ろしてくれた細縄で、なんとか斜面を登ってきた僕に創晴さんが手を差し出した。落ち葉がたまった斜面という奴はなんとも始末に負えない。
「白蓮さん、大丈夫ですか?」
千夏さんが心配そうに声を掛けてくる。大丈夫かと言われれば、あちらこちらがちょっと焦げたような気がするが、命に別状は無いと思う。
それより全身に泥と一緒にくっついた渡りの羽毛の方が問題の様な気がする。このまま監視所まで戻ると、渡りと間違えられて警備方に撃ち殺されそうだ。千夏さんが布に水を含ませて僕の顔を拭いてくれた。おかげで少しは人に戻れた気分になる。
「誰か炎使いでも居たんですか?」
「ああ、こちらの土産物だ。授符卿、助かったよ」
地面に座り込んだ泥だらけの人物、多分女性だと思うが微かに頷いたように見えた。街の浮浪者でもこれよりは相当にましという状態だ。それに意識も少し朦朧としている様に見える。
「姉さん」
その顔を覗き込む男性も、泥だらけの上に、あちらこちらに生傷のようなものもある。その一部は白く化膿しているようにすら見えた。千夏さんが水で傷口を洗い流して、消毒液に浸した止血布を巻く。
「ともかくさっさと逃げるぞ。白蓮、彼女を背負えるか? 俺と千夏で堅盾卿に肩を貸す。千夏、緊急要請の狼煙を最重要であげろ。間違ってあげたら吊るされかねない奴だが、今回は誰からも文句なんか出ない。ここの情報も、この二人も絶対に城砦まで連れて帰るぞ」
「創晴さん、了解です」
千夏さんが油紙の塊を腰の道具入れから出して、中から橙色の煙玉を取り出す。最重要緊急要請という探索組の、しかも特別な潜りじゃないとお目にかかれない煙玉だ。千夏さんが栓を抜いて、それを少し遠くに投げた。上がるまでは少し時間がかかる。匂いで寄ってくる奴にやられないようにするためだ。
ぐずぐずしている時間は無い。背嚢から組み立て式の背負子を取り出して、それを組み立てる。他の背嚢の中身は創晴さんと千夏さんに持ってもらい、それに女性を乗せて背負った。だが思ったよりぜんぜん重くない。相当にやせ細っているらしい。
背負子からだらりと力なくぶらさがる足に履いている皮細履きには隙間が相当にある。この人達はいったいどこから戻って来たんだ?
「まずい……とんでもない奴が……城砦に……」
男性が口を開いたが、創晴さんがそれを押し留めた。
「帆洲、話すのは後だ。さっきので先触れは何処かに行ってしまった。俺に今話しても、どのみち城砦には伝えようがない。ともかく逃げるぞ」
「ああ、そうだな」
男性が創晴さんに頷いて見せる。あれ、創晴さんはこの人を知っているのか?
「白蓮、先に礼を言っておく。助かった。こいつとその姉は俺の城砦の同期だ。だがな、今度一人で突っ走るなんてことをやってみろ。ぶっとばすからな。それに……」
創晴さんが千夏さんの方を向く。創晴さん、そこから先は僕に言わせてもらっていいですか?
「千夏さん、今日の組長は僕だ。僕は君に逃げろと指示した。なぜそれを無視した?」
「白蓮さん……」
「答えろ!」
千夏さんが僕の視線を避けて下を向く。そして消え入りそうな声で答えた。
「一緒に死ぬつもりでした」
思わず天を仰ぐ。確かにこの子が帳の気を散らしてくれなかったら、僕はここには居ない。だけどこの子は冒険者には向かない。選抜を落ちたのもそれが理由なのかもしれない。冒険者は生き残るのが商売だ。どんな状況でも自ら死を選ぶ者が冒険者であるはずがない。
ふーちゃんも他の人の為に命を張れる子だ。だけどそれは自分が代わりに死ぬ為ではない。相手を救う為だ。それが敵わぬ時にはそれにじっと耐えることも出来る。
だからふーちゃんは僕が死んだからって、後を追って死んだりはしない。涙ぐらいは流すかもしれない。でも泣き続けたりはしない。僕の墓に、将来自分が何をしているのかを語りに来ることを約束する人だ。
だから僕も彼女の為に命を張れる。たとえ僕が死んでも、それが決して犬死にはならないことを知っているからだ。
「千夏さん、今は忙しい。だけど城砦に戻ったら、一度ゆっくり話をしよう」
「はい」
この子は女の子としてはとてもかわいらしく、そしていじらしい。その点では僕も創晴さんに同意見だ。だけど千夏さん、君が冒険者になりたいのなら、誰かに依存してはだめだよ。ましてや僕に依存するなんてのは論外だ。
だがどうして僕は千夏さんを囮にするのを迷ったんだ。あそこでは一番確実な手だ。最悪でも千夏さんの犠牲だけで済む。全員が死ぬよりはましだ。
もしかしたら、僕は彼女を批判する資格は無いのかもしれない。ふーちゃん、僕は……
* * *
足を降ろす度に、私の足元の霜がサクサクと音を立てた。それはまるで焼き菓子が割れるような音だ。世恋さんが焼いてくれた焼き菓子を思い出して、思わずお腹がへってきた。
日陰には先日わずかに降った雪がまだ残っている。日向で溶けた雪が水たまりとなり、朝の冷え込みに氷が薄く張っている。子供の時だったら、我先に飛び込んで割に行くところだ。そして靴を泥だらけにして、父に怒られるのがお決まりの結末だった。
そう言えばこの間、角庵さんと父の思い出話で盛り上がれたのはとても楽しかった。やっぱり父はもっと若い時から相当にずぼらな人だった。そうだよね。靴下を脱いだらまるめてそのままだもの。どれだけ謎の巨大カタツムリと格闘したことか……
機会があったら、今度は白蓮も連れて行って話をしたいな。女の話は勘弁ですけどね。それに百夜もつれて、弥勒さんと三春さんに会いに行かないと。それと実季さんと一緒に買い物三昧だ。
「静かだね。葉っぱが黒く無かったら、ここが嘆きの森だとはとても思えないよね。でもこの葉っぱの裏が真っ黒と言うのは本当に嫌だな」
何か汚い物に侵されて行くような気分になってしまいます。
「赤娘、お前にしてはするどいな。静かすぎだ。何もいない。しっぽ娘を呼び戻せ」
「なんで?」
「さっさと帰るぞ」
「腹がへったとか言うんじゃないよね?」
「赤娘、違うぞ。気持ち悪いのだ」
百夜がこんなことを言うなんて、間違いなくただ事じゃない。これはマジな奴だ。
『緊急』『集合』
実季さんに手信号を送る。
『了解』
実季さんが弩弓を手にこちらに走ってくるのが見えた。
「百夜、何か居るの?」
「鳥もどきも犬もどきも何も居ない。何も感じないのだ。それが気持ち悪いのだ」
「実季さん、緊急の狼煙を上げて。上げ終わり次第、渡しに戻ります」
実季さんがびっくりした顔をする。
「お姉さま!今すぐに戻ったら定員を超えます」
それは後で考えよう。本当に何も居ないのなら問題はない。それより百夜がこんなことを言うのは久しぶりだ。それになんだろう。寒さのせいだろうか、急に体が震えてきた。違う、寒さじゃない。本当に震えているんだ。
雪解け水が作った水たまりに張られた氷の向こう側で、細かいさざ波が立っている。今や自分の耳にも何かが引きずるような、うごめくような小さな音が遠くから響いて来た。
「お姉さま!」
実季さんも弩弓を構えて森の方を見る。これは百夜じゃなくても分かる。なんかやばい奴だ。
「崩れは百夜が何もいないと言っているから大丈夫」
「でも……」
実季さんが逡巡した表情を見せる。だけど実季さん、これは問答無用という奴よ。それに崩れが起きても最後は黒青川が盾になるはず。
音は次第に大きくなってくる。そして全身の産毛が逆立つような感触。何かが、見えない何かが、こちらに這ってこようとしている。この感触って……
「百夜、私も分かった。あれだ」
「そうだ。あれだ」
「神もどきだ!」「神もどきだぞ!」




