辞意
「これまでお世話になりました」
多門はそう月貞に告げると頭を深々と下げた。内心ではこの男を出来れば殺してやりたいぐらいに思っているが、それを顔に出すことはない。
「多門君、本当に残念だよ。君は私の後を継いでくれる人だと思っていたからね」
多門は月貞に向かって首を横に振った。月貞さん、どの口が言っているんだい? 美亜の件の黒幕もあんただろうが。だが、もうあんたが何を考えているかも、何をしたいのかももう俺には関係ない。自分にとって何が一番大事なのかが分かったのだから。
「私にはそんな大役は到底務まりません」
多門の答えに月貞は少し首を傾げた。
「そうかね。私にはそうは思えないのだけどね。しかし君がそう言うのであれば仕方がない。これからどうするつもりだね」
「森からはきれいさっぱり足を洗います。どこかで私塾でもはじめますよ。おかげさまでそのぐらいの金はありますしね」
多門の言葉に月貞はとても驚いた顔をして見せる。多門はその驚いた表情も何もかもが計算ずくだろうと思った。いやこれまで俺がやってきた事を思えば、本当に驚いているのかも知れない。
「君が私塾の先生とはね。柚安君あたりが聞いたら卒倒しそうだな。落夢卿、美亜君は君と一緒かね?」
「はい」
誰があんたの目の届くとこなんかに置くか。美亜は俺の宝だ。それにやっと気が付いたところだ。
「私もお見舞いに行きたいのだが、新種騒ぎでいかんともしがたい。救護組からの報告を見たよ。医者もびっくりの回復だそうじゃないか」
頼むから見舞いになんて来てくれるなよ。だが、あの大怪我からもう起き上がれるようになったのにはこちらも驚いた。俺が思ったより早くここを離れられるのはありがたい。ともかく一刻も早くこいつから遠ざからないと、何が起きるか分からない。
「新種の件もあって、君には残って欲しかったのだが、これは私の愚痴だな。何はともあれ、陰ながら君の成功を祈っているよ」
こっちはあんたからもきれいさっぱり足を洗いたいんだ。陰ながら祈るなんて縁起の悪いことは、絶対に止めてくれ。
「では、これにて失礼させていただきます」
多門は月貞に向かって再度頭を下げた。おばさんのことも気になるが、あの人にはあの人の考えがある。俺がとやかく言う事ではない。俺には美亜が居れば十分だ。
他に必要な物など何もない。
* * *
「美亜教官!本当に、本当に良かったです」
美亜はそう何度も口にする赤毛の少女に向かって微笑んだ。自分に妹が居たら、きっとこんな感じだろうか? いや、そんな事はない。この子は間違いなく特別な何かを持っている。
「赤娘、お前は我に静かにしろと言っていなかったか?」
見かけも中身も間違いなく特別な黒い子供が風華を揶揄った。その言葉に風華の眦が上がる。
「あんたね、感動というのは頭でなんとかならないから感動というんじゃないの!」
「赤娘、お前は頭が悪い。だがたまにそうではないと思う時があるぞ」
美亜は思わず苦笑した。この二人はどこだろうが、いつだろうが相変わらずだ。
「お姉さま……」
そう小さく告げた実季はとても困った表情を浮かべている。この子もきっと気苦労が絶えない事だろう。その表情はあの人がこの子について語るときと同じだ。それに嫉妬するなんて、私はなんて狭い心の持ち主だったことか……
「あなた達には本当に世話になりましたね。それに、私はもうあなた達の教官ではないのだから、教官と呼ぶのは止めなさい」
「はい、美亜教官……じゃなかった美亜さん」
なんて子達なんだろう。もうだめだと思っていたのに、今こうして生きてあの人にも会うことが出来た。全てこの子達のおかげだ。私と違って大人達は見る目がある。私には見えていないものが、ちゃんとこの子の中に見えていたのだろう。
何より貴方達は私の命の恩人というだけじゃない。私にあの人に私の気持ちを伝える勇気と機会をくれた。人生の恩人そのものだ。
美亜は病室の天井に目をやると、その先にあるはずの空を思った。姉さん、私はとっても幸せです。どうか私達を、そしてこの子達を遠いところから見守ってください。
「みんな、本当に、本当にありがとう。どれだけ感謝しても足りないくらいよ」
「何を言っているんですか、美亜さん。当たり前ですよ。当たり前!」
「赤娘、何を偉そうに。助けたのは我だぞ」
「はいはい、あんたは偉い」
「そう思うのなら我にもっと感謝の……」
本当にやかましい人達。だけど、みんなとっても大好きよ。
* * *
遠見卿は落ちていく夕日を焦燥の思いで見つめていた。これで繋ぎの先触れがこないまま、丸一日が過ぎてしまった。これは間違いなく何かあったに違いない。だが限界線の先に居る彼らに対して、ここからそれを確かめる手段は何もない。
「明、音、早耳、一体どうしたんだ?」
遠見卿の口から言葉が漏れた。それは言葉と言うよりうめき声に近かった。
「遠見卿、何か気になることでも有りましたか?」
その姿を見た物見方の副組頭が、不審に思ったのか遠見卿に声を掛けた。ああ、気になるどころじゃない。
心臓を鷲掴みにされている気分だ。




