音響卿
夜の帳が森に落ちようとしている。音響卿はその中を必死に走っていた。穿岩卿と早耳卿の二人がその命と引き換えに稼いでくれた時間を無駄にする事は出来ない。それに暗くなれば帳にとってはより有利になり、こちらは不利になる。
大量の帳が群れて辺りに居るもの全てを狩り始める「触」。未だにそれが何なのかは分かってはいない。次の女王を選ぶ為だとも、それが竜に変わるのだとも言われているが、何れも定かではない。
当たり前だ。それに出会った物はほぼ死んだことと同じなのだから。自分や明、早耳はその極小数の例外だ。音響卿は明や早耳同様に、今回は自分が触を起こした帳の群れからは逃れられない事を悟っていた。
前回自分たちが逃れる事が出来たのも、舞が居たからだ。そして舞の犠牲のお陰で逃れる事が出来た。音響卿は必死に足を動かしつつ、その時の事を思い出していた。
「舞、あんたは娘が待っている」
「そうだね。でも音、あんたはもう空っぽだ。居ても何の役にも立たない」
「明、早耳、お嬢と音をおぶって逃げな」
「舞、俺はまだいける。あんたが落としたやつを俺がたたけば」
「明、そうすると私とあんたが死んで、音も死ぬ」
「私一人で足止めすれば4人が助かる。簡単な話じゃないか?」
「舞!」
間違いだ。私が空になる前に皆を逃がせば良かったのだ。そうすべきだったのだ。
「歌には、あの子には令が残っている。決して一人になる訳じゃない。あんた達だっている」
「お嬢だってほとんど空だよ。時間がない。早耳、逃げ道は先に決めときな」
「お嬢。辛いだろうけど、もうちょっとだけ頑張って。それと一つだけあんた達にお願いがある」
「何だ」
「山さんに会う事があったら、舞がよろしくって言っていたと伝えておくれ。あんたのことを忘れられない馬鹿な女が居たって!」
「舞……」
「令も知っている事さ。人間死ぬ時ぐらい正直になってもいいじゃないか」
舞歌はどうしてそんな事を私達に告げたのだろう。未だに理由は分からない。
「さあ、行きな!後先無しの私の全力だ。巻き添え食ったら、帳と一緒にあんた達もお終いだよ」
私はなんて愚かだったのだろう。月令と明翠が二つ名持ちになった。二人とも打ち手で花形だ。彼らが思いっきりマ者を打てるのは、私とお嬢が二人をマ者から隠しているからだ。そして早耳がその動きを遠くから確実に捉えられるからだ。
二人が二つ名になって、どうして自分達がなれない。なんて馬鹿な事を考えたのだ。
帳はやっかいな奴らだ。集団でいる上に、奴らは音で確実にこちらを捕らえてくる。こいつらにはマナ除けはほとんど効かない。やつらの探知範囲に入ったら、その時点でお終いだ。だが、私の音場があればこちらの音をすべて防げる。やつらから完全に身を隠すことが出来る。
貞が私に告げた。こいつらを狩って帰れば間違いなく私は二つ名持ちだと。こんなものには何の意味もないと気が付いたのは事が起きた後だ。
帳を狩れる期間はほんのわずかだ。まれに迷いが出ないことはないが、奴らは普段は私達の手の届かない遠くにいた。僅かの期間だけ、生まれて間もない若い奴が城砦の近くまで降りてくる。
しかし令が結社の仕事で城砦を離れることになった。明翠のつぶては強力だが距離は稼げない。そのままでは空を飛ぶ帳は落とせなかった。
『何で私はそこであきらめなかったんだ!』
私は舞歌に頼み込んだ。しかも帳を仕留めれば私も二つ名持ちだなんて余計な事もだ。なんて愚かな事をしたのだろう。舞歌にはまだ小さな娘がいたと言うのに……
舞歌は快く承諾してくれた。舞歌の鉄鎖の力があれば、帳を地面に引きずり下ろせる。そうしてしまえば、明粋のつぶてで問題なく狩れる。
途中まではすべてが予定通りだった。早耳の探知とお嬢の力でこちらの姿を隠しつつ、帳に近づきやつらの音を私が消して、舞歌が地面に叩き落したやつを明粋が打つ。若い帳が面白いように地面に落ちて狩られていく。私は有頂天だった。そこでとったマ石を抱えてさっさと城砦に帰るべきだった。
狩が終わり、日が傾くころに何かが変わった。藍色にそまりつつあった東の空に月が、とても赤く見える月が昇った時だ。私の音場は威力を失った。それは人の耳には聞こえない音だが、あまりにも大きな音の洪水だった。
赤い月を背後に、若いやつとは比べ物にならない大きさの帳、大人の帳が空を埋め尽くさんばかりに舞っていた。何年かに一度起きるという「帳の蝕」だ。それがこの時は城砦の限界線の中で起きた。
必死に音場を築こうとするが、それは鉄砲水に向かって砂で堤防を作るようなものだった。それでも私は必死に音場を築き、そしてその中を皆で逃げた。だが音の洪水は消えない。最後はお嬢の闇の力だけが辛うじて私達を隠していたが、それも長くは持たない。そして私は空っぽだった。
その時、舞歌が私達に言ったのだ。自分が時を稼ぐと。私が今まで生き延びてこれたのは、舞歌が犠牲になってくれたからだ。それだけだ。私のその後の人生に何か意味があるとすれば、それは彼女に救ってもらった命をどう使うかという事だけだ。
そして今がその時だ。
「音響卿、穿岩卿に早耳卿は!」
授符卿の叫びに音響卿は我に返った。音響卿は走りながらも背後へと視線をやる授符卿の顔を見る。その表情は恐怖に強張っている。だがこの場で正気を保っているだけこの子は偉い。
「授符卿、彼らは斥候と前衛の役割を果たしてくれた。その身と引き換えに私達に情報と時間をくれた」
「まさか、あの方々が……」
授符卿の顔に驚愕の表情が浮かぶ。
「お嬢さん、人はいつか死ぬ。あんたも私もそうだ」
音響卿は足を止めると、授符卿に向かってそう告げた。
「授符卿、あなたが用意してくれたマ石を使って、私の全力を持って音場を広げる。その間にここから離れるんだ。ここの事を誰かが城砦に知らせないといけない。授符卿、堅盾卿、それが君達の仕事だ」
そうだ。かつては私が背負った業だ。申し訳ないが、今回は君達に背負ってもらうよ。
「音響卿!」
今度は堅盾卿が叫んだ。音響卿は若者に向かって頷いて見せる。君はちゃんと姉を守り給え。守れなかったら城砦にはたどり着けない。
「何も気にする事はない。私の命も他の人の犠牲の上にある。それが冒険者だよ。それに何かあったら、君達を優先して返すことは私達の中では既に決まっていた事だ。何せ君たちの方が長生きするからね」
二人が私をじっと見る。そんな顔をしないで欲しいね。私は英雄には程遠い人間だんだよ。
「ではよろしく頼んだよ」
舞、君がくれた命を使わせてもらうよ。それに知っていたかい。私はね、君のことがとっても大好きだったんだ。




