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叫び

 美亜は腰に差した水筒からマナ除けを被った。砂時計はまだ残りがあるが、奴らに気付かれる危険を少しでも減らしておく必要がある。そして泥の中から体を起こした。


 とりあえずはこの泥の山の背後に回って、前にいる新種の視界から体を隠す必要がある。顎は目が見えないが、新種はどうか分からない。


 夜が白んでから動き出したのを考えれば、目が良いと思った方がいい。じっとしていて強張った筋肉が痛みを上げるが、それを無視して腰を落としつつ足を動かす。


 ギュエ~~~~!


 美亜の頭の上に顔を出していた顎がひときわ高い鳴き声を上げると、泥の山から一気に前へと飛び出した。隣の山の顎も同じ動きをする。その風圧に美亜の体は地面へと引き倒された。顔が泥に埋まり息が詰まる。必至に手を動かして顔を泥から上げたが、顔にこびりついた泥で何も見えない。


 ズドン、ズドン!


 背後では何かと何かがぶつかる衝撃音が響いてくる。肩で顔を拭って背後を見ると、新種に向かって、数匹の顎がその大きな口を開けて跳躍していた。だがとてつもなく鋭い牙を持つはずの顎が、新種の背に牙を立てることが出来ずに、そのままずるずると地面へと滑り落ちていく。


『何て奴なの。顎の牙を一切受け付けないなんて』


 美亜は大人の顎に群がられながら平然としている新種の姿を呆然と見ていた。これは人がどうのこうの出来るような奴とは到底思えない。


 ギュエ~~~~!


 威嚇の鳴き声を上げて、顎が再びその背中へと跳躍する。しかし同じように地面へとずり落ちていく。跳躍の時に跳ね上がる泥がこちらの体にまで降ってきた。


 それは単なる泥とは思えないほど重い。礫使いから礫を体中に打ち込まれている様な気さえするほどだ。美亜はそれを受ける度に、体が泥の中へと引き倒されそうになった。


 だがこれは好機だ。顎も新種もお互いに意識が集中している。それにこの音だ。顎にも自分の動きは捉えられないだろう。美亜は必死に足を動かした。その背後で新種に向かっていく顎の数はさらに増えていく。


 ズズズズズ……


 美亜は自分が身を隠そうとしている泥の山の影から、何かがこちらに向かって来ようとしているのに気がついた。まずい、背後の山に居た顎が泥の山を超えて新種に向かおうとしている。その先に居る美亜に気がついている様子はない。だがこのままだと奴に踏みつぶされる。


 美亜は顎達が跳ね上げた泥に沈む足を必死に動かして、泥の山へと体を押し付けた。後は運だけが頼りだ。


 ズドン!


 顎が振り上げた足が、美亜の体のすぐ左側に振り下ろされた。直撃を食らえばその時点で間違いなく即死だ。


 グオォォォオォォォオォォ!


 再び新種が吠えた。その咆哮自体に体が引き倒されそうになる。美亜はその恐怖に、思わず目をつぶって腕を顔の前へと掲げた。


 キーーーー!


『何なの!?』


 グチャグチャ、グチャグチャ……


 美亜の耳に巨大な箆で泥がかき回される様な音が響く。顔の前に掲げていた腕を下ろして目を開けると、横では自分を踏み潰すところだった顎が、金属音のような叫び声を上げながら、体を震わせつつのたうち回っている。前を見ると、新種の周りにいた顎達も同じ様に地面をのたうち回っていた。


『な、なに!? 一体何があったの?」


 美亜はその地獄の底にでもいるかの光景に息を飲んだ。その瞬間だった。何か黒い物がこちらに向かって来るのが視界の隅に映った。


「あっ!」


 だが声を上げる間もなく、美亜の体は吹き飛ばされて宙を舞っていた。美亜の体を吹き飛ばしたのはのたうち回る顎の前足だった。とっさに体をかばった左腕と左わき腹に激痛が走る。体は泥の中へと落ちると、その上を何回転も転がり、最後は仰向けになった。


 苦痛に顔を歪める美亜の視線の先では、黒く長い顎の尾が何度も往復している。これにあたったらおしまいだ。左腕と脇腹の痛みをこらえながら、美亜は体を回転させて泥の中を転がった。


 左腕の肘から先は、さっきの衝撃で外套はおろか、革鎧も裂けてしまっている。そこからは妙に白く見える肌と、裂傷から流れ落ちる赤い液体が見えた。姉の形見の火蜥蜴の革外套で無かったら、腕ごと持っていかれていたかもしれない。いや体自体が裂けていたことだろう。


 ズドン!


 再び美亜の体に衝撃が走り、空からは泥が降ってきた。そして泥以外の何か白いものも降ってくる。渡りの卵の殻だ。それは地面から伝わってくる振動に合わせて、カラカラと音を立てる。気づけば顎の尾が美亜から二杖(2m)ほど横に落ちており、それは先ほどの激しい動きが嘘のようにぴくりとも動かない。


『殺られたの?』


 美亜はその姿に違和感を覚えた。何故だ? この顎は新種に向かう途中だったはずだ。新種のあの槍の様な角はここまで届きはしない。こいつは何に殺られたのだろう? 新種は針熊みたいに何かを打ち出せるのか? いや、そんな音は聞こえなかった。


 ズドン。ズドン。ズドン


 背後から、今度は巨大な鎚が規則正しく地面に打ち付けられる様な音が響いてくる。


 ズズズズ……


 前の小山からも何かがはい出す音がする。美亜は左肩と左腕の痛みに堪えながら顔を上げた。新種が一歩一歩とこちらに向かっているのが見える。それだけではない、泥の山から黒い向日葵のような奴もこちらを向いていた。


『こいつらには私が見えている?』


 どうして気付かれた。さっき転がった音か? そこまで考えてから、美亜は自分がマ者達に見つかった理由を理解した。泥にまみれてマナ除けが落ちたのだ。


 まだ間に合うかもしれない。美亜は痛みをこらえて左腰の水筒に手をやった。しかし美亜の意思に反して指が全く動かない。見ると自分の指がまるで二倍の大きさになったみたいに見える。


『痛い、痛い!』


 左手に、炎の中でそれを焼いているかのような痛みが広がった。それは手から手首へ、さらに腕に向かって広がろうとしている。


 毒だ!それも回りの早い奴だ。美亜はこれと同じような症状を見たことがあった。それと同じだ。ともかく毒の周りを止めないと直ぐに動けなくなる。それにまだあきらめる訳にはいかない。だが痛みに体が言う事を聞こうとしない。


『あきらめるな私!』


 美亜は自分に気合いを掛けた。あきらめたらそこで終わりだ。右手で止血布を衣嚢(ポケット)から取り出して、方端の鉤爪を左腕の切り裂かれた革の上着に引っ掛けてぐるぐると回す。最後は口でそれを強く引っ張った。止血布は特別製で、こうすると固く締まりほどけない。


 その間にも、鎚を打ち付ける様な音は響き続け、その音は次第に大きくなっていく。さらに顎が泥をひっかく音も近づいて来た。早くマナ除けを掛けないといけない。


 しかしこちらが先だ。血の巡りは止めたはずだが、燃える様な痛みは手から手首、さらに腕へとまだ広がっている。だめだ。血を止めただけでは止まらない。


 美亜は腰から右手で多門がくれた黒刃の短刀を引き抜くと、それを左腕の上へと持って行った。悩んでいる暇はない。美亜はそれを大きく振りかぶると、自分の左腕へと振り下ろした。


 ポチャ!


 何かが地面に落ちて、小さく泥を跳ね上げた。


「あああああぁぁぁ」


 甲高い音が耳をつんざく。これは何?


 私の叫び声だ。

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