正体不明
「左のちょっと先に居るぞ。数はそうだな、片手というところだ」
百夜のつぶやきに無限が反応した。
「その位置にいるなら黒犬だ。こちらは風下だから右へ行けば見つからない。おい、事務方の指示は変わらずか?」
「発光信号は無しです」
無限の問いかけに旋風卿が答えた。その頭の上には肩車をした百夜がちょこんと乗っている。
「右は?」
無限は上を見上げると百夜に問いかけた。右には探索路がある。そこに誰かが居ればそちらへは行けない。
「おもかろい奴はいない」
百夜が不機嫌そうに呟く。白蓮はその姿を心配そうに見つめた。ずっと探知しっぱなしなので流石に疲れるのだろう。いや、さっきおやつを探すのを諦めさせたからか?
「そのおもかろいと言うのは慣れないな。まあいい、右前方に進む。この鹿の獣道を使うぞ。近道だしな。10町(1km)はこのまま進む。足元に気を付けて、おれの角灯を絶対に見失うなよ。見失ったらそれでおしまいだぞ」
「了解」
白蓮は無限に答えた。夜に手信号は使えないから小声で返す。ついでに首元の汗をぬぐった。濡れたままだと後で体温を持っていかれる。
しかしなんて速さなんだ。白蓮は心の中で舌を巻いた。いくら事務方が道を開けてくれたと言っても、ここは嘆きの森だ。どこかのとび森ではない。しかも月も星明かりもない夜だというのに、迷う事なく北ー1へとまっしぐらに進んでいる。
「いいぞ。こいつは新記録って奴が作れそうだ。かなりずるをしているけどな」
無限はそう独り言を漏らすと、再び先頭を走り始めた。覆いを下した角灯が照らす足元と、無限が腰につけている、指向性の角灯のかすかな明かり、その双方を見ながら白蓮は無限の背中を必死に追いかける。
森に入ってからほぼ走り続けだ。白蓮はもつれそうになる足を必死に動かした。無限さんだって若くはないと思うのだけど、どんだけ体力があるんだ? やはり森に入り続けている人は違う。この暗闇の中で時折見える城砦の明かりで位置確認をしているのだろうけど、それに時間をかけている様子もない。
旋風卿に至っては、後ろに百夜ちゃんを背をっているにも関わらず、汗一つかいていないように見える。こっちは全身汗まみれな上に、息も上がって来た。正直なところ、白蓮としては後ろの背嚢を全部すててしまいたい気分だ。
それにこの暗闇の中で、どうして獣道とかを見つけられるのだろう。城砦でもっとも森に潜っている人だ。この人の頭の中にはこの森全部が細部まで入っているのかもしれない。旋風卿や百夜ちゃんとは種類は違うが、無限さんも間違いなく化け物だ。
「遅いぞ白男。お前が遅れると我の餌が無くなる」
前をいく旋風卿の肩に乗っている百夜が、白蓮に向かって呑気に声を掛けてくる。まあ、僕を元気づけているつもりかな? いや、きっと本気で食料の事だけを心配しているような気がする。
道は開かれている。そこに居るマ者は百夜ちゃんの探知と無限さんの指示でここまで避けて来られた。この速度で移動できれば、本当に夜明け前には北ー1の入り口まで着いてしまう。もっともそこまで僕の足が持つかはかなり自信がない。いや、死ぬ気で頑張らないと、ふーちゃんに殺される。
なにより、ふーちゃんの悲しむ姿は見たくない。
* * *
『何が起きているの?』
美亜は自分の耳に入ってくる音に、そして目に入ってくる情景に混乱していた。
東側の空はわずかに白んで来ており、もうすぐ夜が明ける事を告げている。それにありがたいことに、雲にも切れ間が出ていた。だがそのかすかな明かりの下、顎達が北に向かって、止むことなく威嚇の声を上げ続けている。
ギュエ~~~~!
ここには美亜が足を踏み入れた時の不気味な静寂さはどこにもない。辺りには顎の立てるまるで巨人の歯軋りのような耳障りな音に満ちている。その音は耳を抑えていても、頭の中に大音響で響き渡るぐらいだった。
もしかしたら私はいつの間にか寝てしまっていて、悪夢でも見ているのだろうか? それとも恐怖に正気が保てなくなってしまったのだろうか? 美亜は自分は置かれた状況が一体なんなのか、必死に理解しようとしていた。
キーーーー!
恐怖に打ち震える頭の中に、何かの叫び声のようなものが聞こえた気がした。全ての音が消え去り、辺りに静寂が戻っている。美亜はいつの間にかつぶってしまっていた目をおそるおそる開けた。
闇に慣れた目が、営巣地の外れにある奇妙な影を捕らえた。なんだろうこのよく分からない形は? 少なくとも顎ではない。
キーーーー!
再び金属がこすれるような叫び声が響いた。そしてその影の近くで、何かがのたうち回っているのが見える。何だろう? おたまじゃくしの頭を半分にしたような大きな頭とあご。大きな前足。小さな後ろ足と長い尻尾。顎だ。
ならば顎の胴体から生えている、あの槍の様なものは何だ? その背後にある小山のような塊は?
暴れていた顎の体が突然に止まり、その体がまるで壁にぶら下げたお玉のように、その大きな頭を下にして、槍の様なものにだらりとぶら下がっている。
ズドン!
その背後の黒い塊がかすかに震えたかと思ったら、顎の巨体が営巣地の真ん中まで飛んで来て、巨大な石が天から落ちて来たかのような大きな衝撃音を響かせた。その衝撃の大きさに、美亜は体が一瞬、宙に浮いたような気がした程だった。
落ちてきた顎の体は半分泥に埋まっており、ピクリとも動かない。一体どれだけの高さから落ちて来たと言うのだろう。
ズズズ、ズズズ
美亜が身を隠す泥の山の中から、何かを引きずる様な低い振動音が響いてくる。白みつつある日の光を受けて、美亜の頭の上をゆっくりと大きな影が動いていく。
その影の先には大きく開かれた口。そこに並ぶのこぎりを敷き詰めたかのような牙。巨大な大人の顎だ。それは半身を泥の中から出して、その得体の知れない何かに対してその牙を剥いている。
ズドン、ズドン、ズドン
顎が牙を向けた先に居る、あの得体のしれない何かがゆっくりと動き始めた。
グオォォォオォォォオォォ!
美亜の体の中を、いや心臓を直撃するような咆哮が辺りに響き渡った。それは子供の頃に昔話で竜の話を聞いたときに想像した咆哮そのものだ。逃げたいのだが体が動かない。目を閉じることも出来ない。
赤く染まり始めた東の空の明かりが、咆哮の主の姿を微かに示した。まるで槍の穂先の様な鋭い角。全身を覆う鎧のような甲羅。まるで小さな山がが動いているかの様な大きさ。そいつはゆっくりと自分が仕留めた顎へと向かうと、それに向かって牙を立てた。そして何かを咀嚼する音が響く。
ギュエ~~~~! ギュエ~~~~! ギュエ~~~~!
美亜の頭の上の顎だけでなく、辺りの顎が一斉に威嚇の叫びを再び上げた。朝が来れば、光が戻れば自分は助かるかもしれないなんて、どうして信じられたのだろう。
『ここは地獄だ』
美亜の目尻から涙が流れた。
『姉さん、にいにい、私を助けて!』
美亜の脳裏に、泣いている時にはいつも優しく手を伸ばしてくれた人の姿が浮かんだ。美亜はここには居ない人に向かって、虚空に手を伸ばそうとしている自分に気がついた。
『何をしているの私!』
私はあの人のところに戻ると。あの人と話をすると決めていたんじゃないの!こいつらはあの得体のしれない新種に気を取られている。私なんか眼中にない。今なら動ける。もしかしたらこれは天の助けなのかもしれない。
美亜は腰に差した短剣の柄に手を這わした。姉さんとあの人が私に渡してくれた黒刃の短剣だ。美亜はそれが自分に勇気と希望を与えてくれる様な気がした。
『マナ除けを被りなおして動くんだ。今すぐに!』




