焦燥
部屋のあちらこちらに置かれた暖房機の上の薬缶が、白い湯気を上げていた。その湯気の作る水滴がついた窓の向こうも真っ白だ。いつもなら晴れが続くはずの季節だというのに、ここ数日は天気が悪い。日の光があるかないかだけでも森に潜る手間は大分違うというのに……。
「美亜さん、お茶はいかがですか? 温まりますよ」
天気についてそんな感想を抱いていると、兵太さんが部屋に備え付けの湯飲みにお茶を入れて持ってきてくれた。年が近いせいか、彼は私に何かと世話を焼いてくれる。今までは無言で湯呑を差し出してくる人が相手だったから、正直なところどう対応していいか分からない時がある。
「ありがとう、兵太さん」
「今日は長いですね」
彼が部屋の向こう側に置かれた大卓に集まった人達に視線を向けた。事務官から説明を受ける大店組の組長たちだ。そこからは地図を前に何かの約束事を説明する事務官の声だけが響いてくる。私が知っている事前確認とは全く別物だ。
私の知っているそれは、まるで子供の遊びの試合のように、こっちがいいやら、あっちにいけだのそれはそれはやかましいものだ。ある種の戦いと表現してもいい。
だから、各組とも交渉が一番うまいと思われるものが出ていく。押しの強さでいく組もあれば、貸し借りが上手な人。組によっては一番若い女性をたてて泣き落としという手だって使ってくる。この手の交渉事は理朝がお手の物だった。でも彼女はもうこの世にはいない。
少し離れた席で、丁司さんと大海さんが前回潜った時の稼ぎについて話している。この人達はいつも金の話ばかりだ。仮に私を欺く為の演技だとしても、いい加減うんざりしてくる。
「やっと終わったみたいですね。待ちくたびれました」
兵太さんの言葉に、手にした湯呑から顔を上げると、書類を持った輝一組長がこちらに歩いてくるのが見えた。彼は書類を私達の前にある地図が置かれた卓の上に置くと、全員が集まる様に手招きした。丁司さんと大海さんも話を切り上げて卓の周りに集まってくる。
「今度の潜りはこれまでよりもうちょっと奥です。朝一でも日帰りは無理な奴ですね」
輝一組長が地図のある点を指した。
「今度はずいぶん北ですね」
兵太さんが地図を眺めながらつぶやいた。それはこれまで潜っていた中央付近ではなく、ずいぶん北を指している。北は古参組の領域では無かったのだろうか?
「いつもなら渡りの繁殖地になっているところですが、上の交渉で、ここはうちでも潜っていい事になりました。進入禁止区域の埋め合わせという事ですね」
「探索は?」
丁司さんが私も気になっていたことを聞いてくれた。
「うちの探索の方で一通りは終わっているそうです。渡りの奴らは今年はみんな南にとったらしく、渡りについては営巣地も何も見当たらなかったという事でした。空いているところには黒犬の群れが入っているとの報告もありました」
「渡りはいないんだろう。黒犬のやつらは何を狩っているんだ?」
「子持ちの針熊でも入っているんじゃないかという話です。それと帳の群れが移動する時期が近付いている。若い奴から移動するから、先回りをして、それを狙っているんじゃないかという話も聞きました」
丁司さんの質問に答える輝一組長の歯切れも悪い。
「全部憶測か」
例年と違うせい? それにしても探索組は大分および腰だったに違いない。これでは何も調べていないのと同じだ。
「先に入った組からの情報は?」
私の問に、輝一組長が首を振って見せた。
「我々が最初の組ですからね。情報の持ち帰りについても上りは出すという話でした」
「『いっせいのせ』という事か。あたればでかいな」
大海さんが無精ひげをなでながらつぶやく。
「顎の大物も居るだろうな」
丁司さんが大海さんに声を掛けた。
「居るだろう。本来は渡りとお互いに狩りあうが、今は渡りがいないから腹を空かせた大物がいるはずだ」
この二人は何でもすぐに儲け話に持っていてしまう。これも作戦?
「どっちを狙う。黒犬か、それとも顎か?」
大海さんが、輝一組長に尋ねた。彼としては実入りがいい顎を狙いたいと思っているだろう。あるいはそう思っているように見せかけているだろうか?
「顎は案山子で釣ってつぶてというところですが、美亜さん、あなたの力はつぶての代わりになるでしょうか?」
「私の力は急所に当たれば確実に仕留められるけど、動きを止められない奴は難しい。それに落ち葉の下を移動されると、こちらには風使いがいないから姿を捉えられないのではないでしょうか?」
この人は分かっていて私に聞いているのね。自分も死んだら意味がないですものね。回答としてはこれで十分でしょう?
「黒犬から案山子を使ってはぐれをだして、待ち伏せで打つのが一番確実という事ですね?」
輝一組長が私に再度尋ねた。私はその言葉に頷いてみせる。どうやら金にうるさい二人も納得したらしい。
「黒犬だって大物になれば、それなりのマ石がとれるし、牙も金になる」
丁司さんが少し不満げにしながらも、自分を納得させるかのように呟いた。
「では、黒犬を狙うという事でいいですかね?」
輝一組長が全員を見渡す。大海さんからも異議は出なかった。
「物見方から回って来た資料ではこの天気はしばらく続きそうだという話でした。油紙は多めに用意した方が良さそうですね」
これで明日からの段取りの大枠は決まった。
思い出したくもない、この組での最初の潜りから二回ほど潜っていいる。一度は野営付きの少し遠いところまで行った。最初に比べれば組としての連携も大分良くなっている。兵太さんの案山子は機能しているし、前衛の大海さんと私の距離感も大分掴めてきた。
だが最初に感じた、色々な物が噛み合っていないちぐはぐな感じは消えることなく続いている。むしろ見かけの連携が取れれば取れるほど、まるで刺さって抜けない棘のように私の神経を苛立たせた。見かけはともかく、組としての一体感のようなものは何も感じられない。
当たり前だ、私も彼らを信用していないし、おそらく彼らも私を信用していないのだから。こんな状態で森に潜ること自体が自殺行為のようなものだ。一回目で私が生き残れたのは本当に奇跡に近い。あの時、牛蛙が急に背後に回ろうとしなければ確実に死んでいた。
私はあの人に対する人質だ。だが人質にするにはこの人達の態度はおかしい。人質は生きていてはじめて価値がある。つまり彼らは私をいつかの時点で殺すつもりなのだ。あたかも偶然の事故を、あるいは力不足を装って。
あの人への意趣返し? あの人が自責の念に駆られるように仕向けている? そんなことはない。あの人は私が死んだくらいで立ち止まるような弱い人じゃない。
私の死で、あの人とお姉さまの関係を壊そうとしているのだ。二人でいるから厄介なんだ。それぞれ一人にしてしまえば、彼らとしてはとても都合がいい。それぞれを操ることが出来ると思っている。私のこの仮説が正しいとすれば、この組で信頼関係のようなものが築けるはずなどない。いつかは殺す、殺される関係なのだから。
どうしたらそれを確かめられるだろうか? さっきの狩の話と同じだ。憶測は何の役にも立たない。証拠を、確かなものを掴む必要がある。そしてこの人達を直接裏で操っている人が誰なのかを見つけ出すのだ。あの人に相談は出来ない。自分でそれを見つける。そしてそれまでは何としても生き残る。
私はこのまま相手の出方を見るべきなのだろうか? それとも……。
「美亜さん、この後食事でも……」
兵太さんが不意に私に声を掛けてきた。その声に私の思考は現実へと引き戻された。
「結構です」
兵太さん、お願いだから私の考えの邪魔をしないでくれる?




