背中
「お姉さま、左ががら空きです」
「はい、実季さん」
「間合いを詰められたからと言って、ただ後ろに下がらないでください。足を軸に円を描くんです」
「はい。実季さん」
『お姉さまには、自分で自分の身を守ってもらわないといけません』
その台詞からはじまった、この毎日の稽古なるものは、本日はすでに半刻を優に過ぎて、一亥に達しようかとしています。これは何かの罰なんでしょうか?
冬なのに汗だくで、汗が目に染みてとても痛いです。私は一応、あなたの師匠ですよね。弟子として師匠に厳しすぎませんか?
「お師匠さん、頑張ってくださいね」
「風華、足元がふらついているよ」
庭の台ので優雅にお茶を飲む二人から声がかかります。二人とも楽しんでますよね? 絶対に楽しんでますよね?
思わず二人を睨みつけます。今晩の料理に何が入っているか、楽しみにしているがいい。
「実季、あんた牽制じゃなくて、本気で突きに行くときに、握りを一瞬持ち直す癖が抜けてないよ。見るやつが見たら一発だ」
「はい、歌月さん」
うん、うん、これが普通の師匠と弟子ですよね?
どこかに申請を出すと、弟子を譲り渡せるなんて制度はないんでしょうか? もう無理です。許してください。これなら、まだ美亜教官の方がましだったような気がします。
「少し、少しだけ、休ませてください」
「お姉さま!」
この子、美亜教官をこえる鬼だ。
「おもかろそうだな。我も遊んでやろう」
台の上に座って、足をぶらぶらさせていた百夜が、ひょいと降りると、私の手から、やわらかい布を巻いた木の短刀を持っていく。
「小娘。いつでも良いぞ」
あんたの方が、小娘でしょうが!
だが助かった。百夜の向こうで構える、実季さんの目は真剣だ。百夜は片手にもった短刀を、もう片手に、ぽんぽんとやっているだけだ。それが降りた瞬間を狙って、実季さんが一気に間合いを詰める。百夜だって、ほら、無理でしょう。
『えっ!』
黒い何かが、地面すれすれを這ったかと思ったら、その切っ先は、低い体勢から突き、そこから払いに行こうとした実季さんの喉元にあった。
お前何者だ? やっぱりマ者か?
「お前は単純だからな。試合にならん」
百夜が短刀をぽいと投げ捨てて、台に戻った後も、実季さんはそのまま固まっている。
「なんだ百夜。お前もやるじゃないか? 今度私とやろう」
「嫌だ。おっぱい女はずるしそうだからな」
「あんたね、そのおっぱい女というのは、止めてくれないか? これでも気にしているんだけどね」
「おっぱい女は、おっぱい女だろう。それ以外にどう呼ぶんだ?」
「まあ、まあ、お二人とも。それにそろそろ風が冷たくなってきました。風華さんも実季さんも汗をかいたままだと、風をひきますよ」
世恋さんが、私と実季さんに、乾いた布を渡してくれる。黒娘、よくやった。なんとかこれで、今日は解放されそうだ。
* * *
「お姉さま、背中をお拭きします」
「実季さん、背中ぐらい自分で拭けますよ。子供じゃないんですから」
だが断る間もなく、濡れた背中を実季さんが布で拭いてくれる。それよりも先に自分を拭いて、肌着を着ていただいた方が、私としてはありがたいのですが……。
お願いします!
実季さんの無駄のない、すらりとした体を見てると、私の体は無駄というか、練り物をつめた袋というか、悲しくなってくるので、早く肌気を着て先に出てください。
それに先に湯あみしてって、言ったじゃないですか? 何でこう言う事を聞かない弟子なんですか? それにあんた、どこまで拭こうとしてるの!?
「実季さん、背中だけで十分ですよ」
「そうですか……」
なんか、とっても残念そうな実季さん。なんだろう。今ちょっとだけ、寒気がしたような気がするのは気のせい?
冬ですからね。お湯を入れても、すぐに冷たくなるからそのせいですよね。うんうん。お風呂が懐かしいな。
冒険者用の皮の上下なんてものから、この部屋着に着替えただけで、なんて世界は快適なんでしょう。やっぱり乙女は、冒険者なんてものになってはいけません。
でも、髪はぬれたままなので、居間の暖炉の火の前で乾かさせてもらいます。乾かさないで放っておくと、私の髪は、白蓮の髪を全く笑えない状態になってしまう。
私が居間に入ったら、玄関の樫の木のドアが、いささか乱暴に開く音と共に、茶色やら灰色やらにまみれた何かが、床に転がり込んできた。
『マ者?』
だが、薄汚れたおさまりの悪い灰色の髪で、それが何かは、すぐに分かった。
「白蓮!」
「白蓮様!大丈夫ですか?」
私達の声に右手をあげて、大丈夫だと答えると、白蓮はゆっくりと立ち上がった。彼の服や装備から、乾いた茶色や灰色の泥が床に落ちる。
「大丈夫です。ちょっと足を滑らせてしまいました。世恋さん、床をよごしてしまってすいません。着替えたら掃除しますので、ちょっとだけ待ってください」
白蓮はそう言ったが、私達を見る目は虚ろだ。そう言うと、彼は私達の返事も待たずに、一階の奥の、彼が使っている階段部屋へ向かって、体を引きずるように歩いていく。
世恋さんは、白蓮の後姿を見ながら、しばし考え込んだ表情をしていたが、
「ご無事でなによりです」
と独り言のように小さくつぶやいた。
「風華さん、私はお湯を沸かしますので、とりあえず、白蓮様に布を持っていって頂いてよろしいですか?」
世恋さんが毛地の布を私に渡してくれた。私は彼女に頷くと廊下を進む白蓮の後を追った。
「白蓮、白蓮、本当に大丈夫なの? 顔色もよくないみたいだけど」
部屋の前で、戸の把手に手をかけた白蓮が、私の方を見た。その顔にはいつもの、お調子者の姿は影も形もない。
「ふーちゃん……」
その声は私を呼んでいるが、その目は私を見てはいない。
「無理はしないで。それに私で相談に乗れることがあったら、」
「ふーちゃん、ごめん。今はちょっと何も考えられないんだ」
白蓮はそう言うと、戸を開けて後ろ手にそれをしめた。何かが床に落ちるような、倒れるような、低く鈍い音が扉の向こうから聞こえて来た。
何故だろう? 扉を閉める前の彼の背中は、私が知っている彼の背中とは全く違う、とても遠いものに感じられた。




