進入禁止
「一体何が起きたんだ?」
考える間もなく、無限に宙にあった体の鳩尾に掌底を撃ち込まれた。
彼の小柄な体から放たれたとは思えない、重い一撃に息が止まり、体が後へと倒れていく。胸の痛みをこらえながら、背を丸めて頭を守ろうとするが、立て直すことが出来ず、そのまま体ごと斜面を転げ落ちていった。
どうやらここはくぼ地になっていたらしい。最後はくぼ地の底らしきところに投げ出された後に、さらに数回転してからやっと体が止まった。ありがたいことに意識はまだある。
『最近は地面に転がってばかりだ』
そんな、どうでもいいことが頭に浮かんだ。せめてもの救いは、たまった落ち葉が背中への衝撃を和らげてくれたことぐらいだろうか?
落ち葉がこれほど溜まっている場所じゃなかったら、この時点で骨の数本ぐらいで済んだら、御の字というところだ。
あの男に撃たれた胸の痛みと、打ち身により体のあちらこちらに痛みはあるが、手足は動く。頭は、体は大丈夫だろうか? 手を頭にやったが特に出血らしきものはない。
ゆっくりと慎重に体を起こすが、めまいの為に体がうまく動かない。あれだけ派手に回ったのだ。だがあの男がとどめを刺しに来るかもしれない。いつまでもここに寝転がっている訳にはいかない。
這うように体を動かし、肘と膝を使って体を持ち上げる。未だはっきりしない頭を上げて、自分が落ちて来た坂を見あげた。落ちて来た坂は、落ち葉に覆われており、足元を考えると、ここを登るのは難しそうだ。それにこの上には奴がいる。
反対側のくぼ地の底らしきところは、黒い葉に覆われた陰になり、まるで日が暮れたかの様な暗さだ。肘や膝が、地面のぬかるみからにじみ出て来た水気で濡れていく。こちらも気をつけて歩かないと、ぬかるみに足をとられることになりそうだ。
ともかく斜面が緩やかな、あるいは足場になるような木があるところで上に上がって、探索路の方まで戻る必要がある。奴が待ち伏せしているかもしれないが、それをどうするか考えるのは、上に登る手段を見つけてからの話だ。
頭を振って、めまいをなんとかしつつ、慎重に辺りを伺う。役に立つかどうかは分からないが、背中にさしてあった短剣の鞘を払って利き手の反対に持った。
闇に慣れて来た目に、何か見慣れないものが映る。地面が盛り上がっているような、まるで泥に巨大な石を落として、その石を取り除いた後としか言えないものが辺りにある。
その周り、足元には落ち葉ではない、何やら固い陶器の破片の様な物がある。足で触ってみると、それはかちゃかちゃと乾いた音を立てた。
何かが突然にその穴から顔を出した。どこかで見たことがある姿だ。大きな黒い目。大きな鉤型の嘴。羽毛で覆われた体。そいつは口を開け、ぬめりと舌で嘴の周りをなめると、穴の中へと姿を消した。
『渡り』だ。
『渡り』が何で渡りと呼ばれるかは、こいつらが季節の移り変わりに合わせて、森から森へと移動するからだ。温かい季節は東側、追憶の森のあたりにいて、冬になると積雪がない西の地、この嘆きの森のあたりに移動する。
そしてここで、冬の間に卵を産んで子を孵し、越冬する。そして春に生まれた子をつれてまた東に向かう。山さんから聞いた話だ。
ここは渡りの繁殖地なんだ。だから進入禁止区域に指定されていたのか。一亥も早くここから離れないといけない。
渡りは目はいいが夜目はきかない。音には敏感だが、匂いには鈍い。今日は天気が良くないのと、丁度ここは陰になって薄暗い。この影を伝わってこいつらから離れる必要がある。背をかがめて足を動かす。
「かちゃ、かちゃ……」
足元の卵の殻が音をたてた瞬間、近くの穴から一斉に渡りが顔を出す。
クー、クーックック
渡り達が首を傾げるようにしながら、辺りを伺っている。そうか、こいつらは夜目が効かないから、周りに卵の破片をおいて、その音で警戒するのか……。
短剣が光が反射しないように気をつけながら、ゆっくりと鞘に戻す。見つかったら最後、こんなものなど何の役にも立たない。
卵の破片をまともに踏んで、音を立てたらお終いだ。つま先で確認しながら、一歩、一歩、慎重に足をずらすように動かしていく。
それでも殻同士が触れる音がするが、上から踏むよりはましだろう。それでもちょっとでも大きな音がすると、一番近くの穴の渡りが顔を出す。
額から、こめかみから、汗が流れてくる。こいつらが匂いに敏感で無くてよかった。匂いに敏感なやつらだったら、こんなへんな汗を掻いていたら、一発でばれる。
念のために、マナ除けを掛け直したいところだが、なるべく早くここから移動することを優先して諦める。
一歩、一歩、つま先に触れる殻の感触を確認しつつ、それを押したり、それが無さそうな場所を探しながら動いていく。
体がやっとくぼ地の底の縁にたどり着いた。ここに落ちてから、どれだけの時間がすぎたのだろうか? あまり時間が過ぎると、マナ除けの効果が本当に切れてしまう。一亥も早くここから遠ざからないと。
背後で何かが動く気配がした。いくつあるか分からない穴から『渡り』達が顔を出して空に向かってその嘴を上げている。
悪い予感がする。
崖の縁を回って急ぎ移動すると、やっと縁に近いところに生えている木を見つけた。上にも何本かの若木が見える。短剣の鞘を留め具にして、木の幹に細縄を掛け、体を持ち上げる。
クー、クー、クー、クー
背後では、『渡り』達の伴侶の戻りを即す鳴き声が、一斉に響き渡っていた。




