教訓
「実季さん、実季さん、大丈夫?」
誰かの声がする。誰だろう。私はまだ生きているの? まだぼやけた視界の先に、誰かが写った。
「実季さん、しっかりして」
やっと焦点があってきた目の先に、深い赤い髪の女性がいた。美亜教官だ。ということは私は助かったのだろうか? まだ生きているのだろうか?
何かが壊れてしまったかのように涙が流れる。教官が手巾で私の顔を、涙を拭ってくれた。
「お前達、男子宿舎は女性禁制だ。最初に宿舎長から説明を受けたはずだが?」
誰かが倫人たちを詰問しているらしい。
「実季の具合が悪いと、比沙美から連絡があって、ここに運びました」
「運び先も、連絡先も間違っていないか、比沙美君」
「気が動転してしまって、とりあえず倫人さん達しか、頼れる人が思いつきませんでした」
「それは冒険者としては、どうかという感じだな」
「申し訳ありません」
「彼女の体が濡れているのは、どういうことだね?」
「意識が無かったので、意識を戻すために水をかけました。思わず手が滑って、壺の水を全部かけてしまいました」
「水で意識をね」
「救急の初歩がなっていないな」
「申し訳ありません」
この人達は何を言っているんだ。あなた達は私を、私を殺そうとしていたじゃない。必死に声を出そうとするが、まだ体の自由が効かない。
「多門特別監督官殿、茶番はいい加減にしませんか?」
「おい、嫌味男。世の中には手順というものがあるんだ。それに通報してくれたのはありがたいが、なんでお前がここで口を出しているんだ?」
旋風卿だ。この人が通報してくれた。私の為に? 今日会ったばかりだというのに?
「人事方の仕事が遅いせいですかね、私はまだ特別査察官というやつです。実質的な権限は何もありませんが、こういう事に口を出すことは出来るんですよ、特別監督官殿」
「相変わらず嫌味な男だ」
「分かっているのか、こいつらはこの子の領地の貴族の子弟ってやつだ。この子の父親は従僕で、そのあほずらの父親に仕えている。妹と弟も居る。ここでこいつらを吊るすと、この子が厄介な目に合うかもしれないのだぞ」
「あなたの台詞とは思えませんね。規則は、規則では無かったのですか?」
「この娘に心から同情しているだけだ」
「つまり、吊るしはしないと?」
「一度大人達が決めたことだ。そう簡単に変えると色々と問題が出る。こいつらがどれだけ腐った奴らだとしてもだ」
「室長!」
「小娘は黙っていろ」
「ならば簡単な事です。この者達には復讐などというくだらない考えを、露ほども持たないような恐怖を与えて、領地とやらに返してやればいいだけです。例え親が何かしようとしても、泣いてそれを止めたくなるような。ああ、言い間違いましたな、先達からの教訓という奴です」
「私は女です。この子に何もする気は……」
「お嬢さん、私が相手が女性だからと言って、手加減するような人間に見えますか?」
比沙美の口から、布を引き裂くような悲鳴の声が上がった。
「では多門特別監督官。特別査察官としての尋問をさせて頂きたいと思いますので、この宿舎から皆さん、ご退室していただけませんか?」
「あなたもですよ、落夢卿。あなたにはこのお嬢さんをお願いします」
「おいおい、人の部下に勝手に指示を出さないでくれないか? おれは、現場の責任者という奴でな。お前の悪趣味に付き合わせていただくよ」
「後で後悔しても、責任は持ちませんがね」
「小娘。お前はその子を連れて、この棟から全員出るように伝えろ。例外は無しだ」
「あ、その前に少しだけ」
旋風卿が大きな体をかがめて、私の顔を覗き込んだ。その表情は、昼間あの家で見せたものとは全く別物だった。その目はまるで、人の物ではない何かのように見える。
「実季さん、出来ればこの事は、あの子には内密にしていただけませんか? この者達にあなたがされてきたことも含めて。貴方は森でのあの子を見たのですよね?」
私はやっと動く体で頷いた。
「ならば分かってもらえると思います。もしあの子がこの事を知ったら……そうですね。多分短刀一本を持って、この塵達を必ず殺しに来ます。あの子にとっては、それが出来るか出来ないかなんては関係ない。殺した後で自分がどうなるかなんかも関係ない。貴方が止めようがどうしようが、貴方の為に必ず殺しに来ます。そういう子なんですよ」
私は必死に何度も頷いた。
「ですから、是非内密にお願いします。その代わりに私が、この者達に対して生まれてきたことを、生きていることを十分に後悔させてあげます。お約束します」
私の目にまた涙が浮かぶ。私はあの人にどれだけ感謝をしなければいけないのだろう。でもあの人はきっと、そんなの当たり前だと言うに違いない。
あの人はそういう人だ。
* * *
「久しぶりに本気になったよ」
馬車の車輪の音が軽やかに響いている。もう東の空はかすかに白み始めていた。
「本気でやらなかったら、私が許しません」
旋風卿の反対に座った、つば広の黒い帽子を膝に乗せた、黒ずくめの御者姿の世恋が答えた。
「お前には面倒ばかりかけるな」
その言葉に、世恋が兄を少し睨むような表情をした。
「お兄様、何を言っているんですか? 風華さんの為に面倒なんて事はあり得ないです。それにこれは面倒というほどのことは何もありません。もともとそうしたかったのですから。単に指示が無かったことで躊躇していただけです。私が背中を押さなくてもいつかは起きた事でした」
旋風卿が妹に頷いて見せた。
「そうだろうね。まあ、これでしばらくはあの子は大丈夫だろう」
「それにあの晩、殺さない迄もあの子にひどいことをする気は十分でした。きっと彼女だけが呼ばれたことに嫉妬したんでしょう。それだけでも、今までしてきたことだけでも、十分に罪に値します」
世恋はそこで、白みかかった東の空に目をやると、
「それにあの子に起こったことは、私にも起こっていたかもしれないことではないですか?」
そう小声でつぶやいた。




