口づけ
私は白蓮に肩を抱かれるように酒場を後にした。角庵さんは、私が慣れない酒に具合が悪くなったと思ったのだろうか? 私にとても謝っていた。
角庵さん、あなたは私に何も謝るような事はしていないですよ。むしろ感謝しています。今日、ここに来なかったら、私は何かを勘違いしたまま一生を過ごしたと思います。
馬車に戻った私を見て、三春さんが白蓮に何か一言、二言、言ったみたいだったが、私には聞こえていなかった。私の中では、「私は誰だろう?」という言葉が、まるで木霊のように響いている。きっと相当にお酒臭かったのだろう。三春さんが、
「酒場に行ったからって、こんな女の子にお酒を飲ませるなんて……」
そう言って、わたしの頭を膝の上に乗せてくれた。だめですよ三春さん。服が私の涙で汚れちゃいます。
三春さんは泣いている私を見てお酒のせいと思ったのか、それとも白蓮と喧嘩でもしたかと思ったのだろうか? 優しく頭をなでてくれた。その手は私の知らない母親の手のように感じられた。
『緑の三日月』
あれは私の夢だったのだろうか? そしてこの遠く離れた関門の『緑の三日月』がその夢を終わらせるなんて、いったい誰が作った出来の悪いお芝居なのだろう。
いつの間にか馬車は診療所の前に泊まっていた。青い扉の横に小さな油灯が灯っている。中からは弥勒さんと百夜の楽し気なやり取りが聞こえて来た。
三春さんは、私の手を取って馬車を下りるのを手伝ってくれた。白蓮も足元がおぼつかないらしく、御者の手を借りている。うん、こんな顔で中に入ったら弥勒さんに悪い。私は自分の顔を両手で叩くと、顔を上げて精いっぱいの作り笑いを浮かべた。
「ただいま!」
「お帰りなさい。収穫はありましたか?」
百夜と何やらさいころ遊戯に興じていたらしい弥勒さんが、私達の方を振り返った。
「遅いぞ赤娘。お前、いつもよりもっと赤いな。ごちそうは多すぎて全部食べられなかった。残念、残念」
うん、良かった。いつもの百夜ちゃんだ。それにそれは、私達の分も残しておいてくれたという事でしょう? 黒娘にしては気を回し過ぎだぞ。
「はい。でもお酒を少しいただき過ぎました」
隣に立っている白蓮がそう告げた。彼の顔もかなり赤い。私の顔も真っ赤なんだろうな。
「二人とも、どれだけ飲めるかも知らないのに……。まだまだ子供ですね。先生、二日酔いの薬を出してください」
三春さんがしょうがないという顔で、私達に灰色をした粉と水を渡してくれた。
「それを飲んだら屋上で夜風に少し当たってきなさい。それと、この子の洗っておいた上着も持って来てくださいな」
私は少しふらふらになりながら、診療所の屋上に上がった。三春さんがあちこち出かけたせいだろうか、敷布やら診療に使う布らしきものが夜風にはためいている。その中に見慣れた小さな上着があった。百夜ちゃんのだ。
火照った体に建物の間を吹き抜けていく風が心地よい。広場では芝居小屋がかかっているのか、風に乗って音楽と歌が聞こえてきている。
「白蓮、私は誰なんだろう?」
私は今まで白蓮に、『自分の事もよく分かってないくせに!』なんて台詞を気軽に吐いていた。白蓮もそれを気にするそぶりは全く見せなかった。むしろ自分で冗談のネタに使っていたくらいだった。
でも私は本当に馬鹿で頭の悪い子だ。自分がなってみてはじめてその辛さが、不安が少しは分かるなんて。
「ふーちゃんは、ふーちゃんさ。今までもそしてこれからも変わらない」
白蓮、白蓮。
「すこし足の大きな……」
君は私のことになると、いつも余計な一言を言うんだね。君お得意の適当話はどうした?
だから私がその余計な一言を止めてあげる。私は唇で彼の口をふさいでやった。私の唇に熱く火照った彼の唇の感触が伝わる。はじめての口づけは、お酒の香りがして大人の味がした。
白蓮がちょっと驚いた顔をした。知っているのか? 素の君はけっこうかわいいんだぞ。それに今は私の事などどうでもいい。私は自分にそう言い聞かせた。私達は絶対やらなくちゃいけないことがあるんだ。3人の『組』の仲間の命がかかっている。
「白蓮。明日も忙しくなるね」
私はそう白蓮に告げると、百夜ちゃんの上着をもって階下への階段を下りた。
私達の背後で、広場の音楽はまだ風にのって響いている。




