油断
何かが私の口をふさいだ。
寝台の上の私の体を押さえつけている。いったい何が起きているんだろう。白蓮が出かけて行って、私はいつの間にか寝てしまっていたらしい。声を上げたいのだけどがさついた手がそれを阻む。
私の両手は頭の上でもう一つの手に抑えられていた。こちらも万力で押さえつけられたかのようだ。腕が折れてしまうかのような激痛が走る。私は身をよじってこの手から逃れようとしたが、太ももが何者かの足で押さえられて動くことが出来ない。私を押さえつけていた何かが私の耳元で臭い息を吐いた。
「お嬢さん、金が必要なんだろう。あんな青瓢箪の兄ちゃんじゃなくて、俺が客を引いてやるよ。だいたい、まだ一人も連れてこれないなんて役立たずだろう?」
目の前にある薄汚れた上着。どこかで見覚えがある。ああ、あの帳場に居た男だ。そうかこいつなら鍵は関係ない。寝てしまうなんて、私はなんて馬鹿な事をしたんだろう!
「なんだ」
寝台の向こう側で、うつぶせに寝ていた百夜ちゃんが目を覚まして上体を起こした。
『逃げて!!』
私は男にふさがれた口で必死に叫んだ。
ドン!
男の足の蹴りをまともに受けて、百夜ちゃんの体が壁の方まで飛んでいった。かすかに響く百夜ちゃんのうめき声。必死に目を動かすと彼女は床にうつぶせに転がって口から何かを嘔吐している。私の中で何か熱いものが湧き上がって来た。それは私の中の恐怖を怒りで塗り替えた。
何とか手が動かせれば、背中の革帯にさしている小刀が使える。腕が折れようが、どうなろうが、必死に体を動かして男をはね避けようとするが、私の体は少しも自由にならない。こんなやつ一人もどうにかできないなんて、私の腕はなんて非力なんだろう。
「おいおい、あばれるなよ。あんたにも手荒なことをすることになるだろうが? 気絶させたって、やることはできるんだぞ。こうやって体を売るのも病気の妹のためだろう。暴れるんなら、あんたの妹をもっと静かにさせるぞ。むしろ俺が処分してやった方が、あんたのためじゃないのか?」
考えろ風華、そのうち白蓮ももどってくるはずだ。言いなりになったふりをして、こいつを油断させるんだ。ともかく私がどうなろうが、百夜ちゃんは守ってやらないといけない。それに私達には余計な事をしている時間なんてないんだ。私は体の力を抜いた。
「いい子だね~。でも騒ぐなよ。騒いだら分かっているだろうな?」
男が私の口をふさいでいた手で、上着の紐を外しにかかった。
「先はどのくらいで売れるか、味見させてもらわないとな。こんな脱ぎにくい服なんか着てんじゃない。ぱっぱと脱いでぱっぱとやらせないと儲からないだろうが。素人が。何も分かっちゃいねぇな」
流したくもない涙が私の頬を伝わる。こんな奴の前で泣くなんて!まだ男の片手は私の腕を抑えている。ともかくこの手から力が抜けるまでは我慢だ。
男の手が上着の上から私の胸のふくらみに触れ、肌着の間から手を入れようとしている。嫌だ!自分の決意と裏腹に、本能がその手を避けようと体をねじった。
「まあ、そのぐらいしてくれた方が……」
「おい」
男の頭の上で何かが光った。
「いてぇ!」
男の手が私の腕から離れた。私は男の足をはねのけ、その体を突き飛ばして寝台の端へと飛びのいた。寝台に横になる男に覆いかぶさるように若い男が立っている。
その片手は男の口をふさぎ、もう片手は男の右目の上に黒光する何かを突き付けていた。私の目に涙が、今度は安堵の涙があふれた。白蓮だ。
だがそこにいる白蓮は私が知っている白蓮とは全く別人のように見えた。耳を押さえている男の右手からは赤い何かが男の顔を伝わり、敷布の上に染みを作っている。その染みの上に赤く染まった気味の悪いものが落ちていた。なんだろう? 『耳』だ!
「動けるのなら、彼女を見てあげて欲しい」
白蓮は、寝台の端で固まっていた私を一瞥するとそう語った。だがその声はいつもの声と違って、とても低くゆっくりだった。その顔は私が今まで見たことがない、冷たいまるで能面のような表情だ。
その言葉に、私はあわてて百夜ちゃんのところに駆け寄った。何かあったら許さない。白蓮が手を汚す必要なんかない。私が殺してやる。私は彼女を抱きおこして、籠にあった布で彼女の口を拭いてやる。彼女はかすかなうめき声をあげて左目をあけた。良かった。とりあえず意識はある。
「人の仕事の邪魔をするのは、やめてもらえないかな?」
白蓮が男に告げた。白蓮はいつのまにか体を動かして、男の上に馬乗りになっていた。
「お前の目の前にあるものが何か分かるか? 黒犬の牙だ」
男は何かを言おうとしていたが、その口は白蓮の手で、その腕は白蓮の膝に抑えられている。
「彼女の胸元にある印は何か分かるな?」
男の視線が私の方に向く。私のいつのまにかはだけていた胸元には、黒い線で書かれた目の紋章の半分があらわになっている。男の目がさらに大きく見開かれた。
「まだ仕事中だから、特別に始末しないでおいてやる。口を閉じていろ、騒ぐな。たとえ俺の同僚達が訪ねてきても何も言うな。分かったな?」
男は必死に頷いて見せた。
「これは、もう一人分だ」
男の口から手を放した白蓮が、男の顔の上に何かを置いた。男の左耳だ。男は必死に歯を食いしばりながら、その痛みに耐えていた。




