35「笑ってる君が」
「…ん」
いつの間にか、朝が来てきた。
この日の朝はこの世界に来て一番と言っていい程に目覚めが悪く、最悪な気分だった。
からからな喉に、腫れた眼…朝の日差しは今の僕には害悪でしかなかった。
「…切り替えよう」
今はいつも通り振るわなければ、でなければみんなに心配をかけてしまう…平常心…そこで、ふと時計を見てみるとーー
「あ」
時間は既に七時四十分を回っていた。
「本当…何やってんだ、僕」
いつも睡魔との激闘を繰り広げているみんなをお越しにいかなければ…この重々しい体でも立ち上がって、いつも通りに振る舞うことくらい造作もないはずだ。
切り替えた頭で、いつも通りお越しに行こうとした時、僕の部屋の前に一枚の紙が落ちていた。
それを拾い上げ見てみるとーー
『しぃちゃんへ
ゆっくり休んでね!』
一言、そう書いてあった。
何かを察しているかの様に、母さんはいつも僕に気を使ってくれる…本当にこう言う時有り難い、少し気持ちが楽になる。
僕は急いで、支度した。
高校生活はまだ始まったばかりだと言うのに、僕に高校で青春を謳歌する暇など許されない…そんな気分にもなれやしない…今の僕はクラスメイト達にどう映っているのだろうか?ちゃんと笑えてるだろうか?ちゃんと作れているだろうか?ちゃんとやって行けてるだろうか?ちゃんとーー
そんな事を思い繰り返している内に、既に放課後になっていた。
鳴ったチャイムがやけに耳に響き、僕の意識を呼び覚ます。
…部室に行こう。
昨日はつきちゃんとの…椿さんとのデートで行けなかったからな…。
彼女の呼び方を言い直したのは、きっと心の声ですら呼ぶのが苦しかったからだろう…僕には呼ぶ資格などないのに、彼女の側にいる事すら許されるはずがないのに。
文芸部の部室に着くと、いつもの様に氷室さんが小説を書いていた。
その光景にいつもならば輝かしいと目をキラキラとさせているが、今はそんな風にはとても思えなかった。
隣に座っても、氷室さんは僕の存在には気づかず、そのまま小説を書き続ける。
会話がないと、なにもしてないと考えてしまう。
また来た…昨日から何度も味わっているこの感覚…押し寄せてくる嗚咽、痛み…なにか考えて居ないとこの記憶が鮮明に脳裏に焼き付いてしまう。
今も、まるで自分がその場に居るような感覚…今すぐに吐いてしまいたい…泣き叫んでしまいたい。
なにか、他の事を考えろ。
なにか、なにか、なにかーー
「灰原くん?」
「っ!や、やぁ氷室さん、どう?小説の方は」
突然だった為動揺を隠せていたか不安だ。
「ぼちぼちかな…そ、それよりか灰原くん」
「ん?」
「どうして…泣いてるの?」
言われて初めて僕は気づいた。
泣いていた、涙が止まらなかった。
押し込めようとした感情は、歯止めなど効かず僕の心を何度も締め付けてくる。
今すぐにでも、口にして楽なりたい…そんな事を思ってしまった。
「氷室さん…僕は、本当にここに居ていいのかな?」
涙ながらに訴えたらその言葉を、氷室さんの瞳は見開き、何故か泣きそうになっていた。
僕ってやつはズルい…また誰かに縋ろうとしている…寄り掛かろうとしている…一言でいいから肯定の言葉が欲しい…そんなしちゃいけない贅沢を願ってしまう。
「ごめん…なにいってんだろ僕…今のは忘れて?」
貼り付けたかの様な笑顔を氷室さんに向けると、 氷室さんは真剣な眼差しになり、徐にペンを持ち、原稿用紙に文字を書き始めた。
突然で、僕はよくわからないままその姿をただ見ていた。
何十分、何時間、どれくらい経ったのか、わからない。
僕がボーッと氷室さんを眺めていると、氷室さんの手は止まった。
そして、書き終えたであろうその原稿用紙の束を僕に渡してきた。
それはまるで、初めて会ったあの時の様に。
「これは?」
「短編小説、読んで!」
そう言われ、僕はそのタイトルに目を向ける。
『笑ってる君が』
ストーリーはいたって単純な物だった。
一人の少女は存在を否定されて、蹲っていた。
そこに一人の少年が現れ、少女の真っ暗な道のりに光を照らし、それは笑顔が溢れてゆく様な物語だ。
そして少年は最後に、少女に対してこう言葉をかける。
「笑ってる君が」
と。
読み終えた僕は、そっと原稿用紙を置く。
読んでわかった…この短編小説は、僕の為に書いたのだろう、それはあの時の行動からも読み取れた。
この話を読んで、氷室さんが僕に何を伝えたかったのか、それは簡単なメッセージ…笑ってる君が、この君はーー
「氷室さんは…僕のお陰で笑えてるの?」
氷室さんの事だ。
「うん…!私は、灰原くんと居るといつもが楽しいの」
氷室さんの声が、ただ耳に残る。
「たまに意地悪だけど、そこも含めて灰原くんはいつも楽しい人で、とても愉快で…わたしの心をあったかくしてくれる…私を、笑顔にしてくれる」
「……」
「私はもう、灰原くんが居てくれなきゃ笑えないよ?」
「っ!」
…ズルいな…もう…そんな事言われたら、許されると思っちゃうじゃんか…僕はここに居ていいんだって、甘えたくなっちゃうじゃんか…。
僕を押さえ付けていた感情の鎖は砕け、ただ泣いた。
全ての、これまで募ってきた何かを吐き出す様に、泣き果てた。
そんな僕を、氷室さんは笑いながら、何度も僕に感謝の言葉を伝えた。
伝えたいのはこちらの方だと言うのに、止まらない涙のせいで、僕は喋れなかった。
本当に、氷室さんには感謝してもしたりない。
氷室さんから勇気を貰えた、自信を貰えた、存在を貰えた。
なら僕は、それに答えたい。
読んでくださりありがとうございます!




