ベアトリス【2】
あまりにも凶悪な魔力の波に、青年は咄嗟にヴァレリーとオルガを守るように身を投げ出した。ブラックドラゴンの硬質な鱗を剥ぐ勢いの魔力が収まると、エミリアンが即座に駆け出す。手には、いつの間に抜いたのか剣が握られていた。
「エミリアン様!」
オルガの悲鳴が響く。青年は舌打ちをすると、軋む身体に鞭打ってエミリアンの初撃を剣で受けた。正気を失ってはいても、所詮は人間の力だ。青年が本気で切り崩しにかかれば、エミリアンを討ち取ることは造作もない。
だが、それは望むところではなかった。
剣撃の音が響き、エミリアンの攻撃は容赦なく青年を襲う。ヴァレリーとオルガはふらふらと立ち上がると、顔を見合わせた。
「止めないと……」
ヴァレリーが杖を握り直す。青年が庇ってくれたとはいえ、ヴァレリーたちも無傷ではなかった。肌に僅かに血が滲む。それでも今は、痛みに臆している場合ではなかった。
「ベアトリスに言葉は届かないのかしら……」
「オルガの加護をベアトリスに返すって、どうすればいいのかな」
ヴァレリーの問いに、オルガが目を伏せる。
「ベアトリスがそう望んでくれさえすれば可能だと思うのだけど……」
「どうして今まで、神性の返還を望まなかったのかな」
ヴァレリーが悲しげに呟く。ベアトリスが話さない以上、そこは想像の範囲をこえることはない。
エミリアンの剣の応酬をいなしていた青年が、エミリアンの剣を弾き飛ばした。
「オルガ! 少々荒っぽくなるが構わないな!」
オルガの返事を待つよりも早く、青年がエミリアンの懐に潜り込む。強烈な拳を鳩尾に叩き込むと、エミリアンの身体が痙攣し倒れ込んだ。青年はエミリアンを受け止めると、ベアトリスに向き直る。
「本当に、こんな手で俺を止められると?」
ベアトリスは何かに怯えるように震え、青白い顔で唇を噛んだ。明らかな様子の変化に、青年はエミリアンを地面に横たえると一歩一歩歩き出した。
「やめろ……私は」
「もう諦めろ。お前だってわかっているはずだ。本当のお前が望んだことはなんだ?」
青年の諭すような言葉に、ベアトリスがハッとする。だが、すぐに否定するように顔を歪め首を横に振った。
「もう、遅い……今更……私は」
震えるベアトリスからは、最早殺気は感じられない。だが、ヴァレリーは見た。ベアトリスの身体から滲み出る、黒い瘴気を。
「様子が変よ……」
エミリアンを抱き締め様子を伺っていたオルガも、訝しげな声を上げた。青年も歩みを止め、ベアトリスを見つめる。
「あぁっ……」
哀れな喘ぎ声を上げ、ベアトリスの身体が仰け反った。禍々しい瘴気がうねり、ベアトリスから溢れ出ていく。人が押し付けた「災禍の魔女」という悪意を、ベアトリスが……いや、女神キルギスの残った神性と理性が押さえつけていたのだ。
それが、今。本物の災禍の魔女として、解き放たれる。
瘴気はやがて人の形をとった。ベアトリスによく似ていたが、髪は黒く瞳は赤い。肌は青白い、生気のないものだった。
完全に分離してしまった2人は、色の違う双子のようにも見えた。ベアトリス……女神キルギスは立ち上がると、震えながら自身が抑えていた災厄を見つめる。
「なんてこと……」
「あぁ……やっと自由になれた。哀れな人間に救済を与えなくては。祝福を。祈りを。私が愛し、育み、そして壊す……破壊こそ我が愛。我が慈悲。我が救い……」
災禍の魔女が笑う。これもまた、女神キルギスの一部ではあった。最早歪み、形を変えた。
「もうやめて……私はそんなことしたくはないのです」
女神キルギスの叫びに、魔女は失笑で返した。
「お前が望んでいたことでもあるのにか?」
「それは……」
動揺する女神キルギスを制し、青年が足を踏み出した。
「アレを止めるにはどうすればいい?」
「わ、私がやります……ですが、永き時を経て私も力を失いつつあります。どうか、私の愛し子たちから神性を返してもらう間、時間を稼いでいただけませんか……」
「何か、手伝えることはありますか?」
ヴァレリーが女神キルギスの側に立つ。女神キルギスは驚いたようにヴァレリーを見つめ、微笑んだ。
「ありがとう、優しい娘よ。ですが、ここより先は人の身には余るもの。踏み込めば、人を捨て去ることになります。あなたは、そんな業を背負う必要などないのですよ」
「ヴァレリー、下がってろ」
青年の言葉に、ヴァレリーは首を横に振る。
「女神様、殆ど力がないんでしょう? 私の魔力でよければ、使って欲しい。女神様が傷ついてこうなったのも、元はと言えば人間のせいなんでしょ?」
「ヴァレリー……」
青年が絶句する。他者のために献身することは、時に美談ではない。ヴァレリーが背負おうとするものは、特に。
「話は終わったのか? 無駄なことを」
魔女が自身の周りに、闇の魔力を練り上げた。
「ちっ……ヴァレリー! 無茶はするなよ」
青年が駆け出し、魔女に肉迫する。青年の剣をかわしながら、魔女は遊んでいるかのようにひらりひらりと身を翻す。
魔女と青年の攻防を見守りながら、オルガが立ち上がった。
「お返しします。そして、私の力も使ってください」
「オルガはダメよ」
ヴァレリーが珍しく、きつい口調で言い放った。オルガが怪訝そうにヴァレリーを見つめる。
「私、オルガはそのままでいなくちゃダメだと思う。守らないといけない人たちが、いるでしょ」
もう一度、今度は含みのある言い方になる。オルガはそれで悟ったかのように、エミリアンに視線を落とした。
「いつから……」
「内緒」
ヴァレリーは微笑むと、女神キルギスに向き直った。
「何故、そこまで?」
女神キルギスの問いに、ヴァレリーは笑みを崩さない。
「ルーさんが背負うものを、軽くしてあげたいの。できれば一緒に、背負いたい」
共に生きる。その選択をした時から決めていたことだった。
青年と魔女の攻防は続いていた。魔女は巧みに魔力の塊を操り青年に傷を負わせていく。時間はあまり、残されていなかった。
女神キルギスは悲しげに頷くと、瞳を閉じた。
「一時的にあなたと私を感応させます。一瞬でも、私と同質の存在になるということ。きっと、あなたにも何か変化が起こるでしょう……ですが、ありがとう。きっと止めてみせましょう」
女神キルギスとヴァレリーの身体が、淡く光る。同時に、オルガの身体から光が溢れ女神キルギスへと吸い込まれていった。
「あぁ……ヴァレリー……」
オルガの瞳から涙がこぼれる。身体から抜け落ちた神性の影響か、失っていた記憶が溢れ出す。それは嬉しくもあり、悲しいことだった。親友のことを忘れていたという事実が、今になってオルガに重くのしかかる。
「お前も消えるつもりか!」
女神キルギスの変化に気がついた魔女の顔に、明らかな動揺の色が滲んだ。
「準備は終わりました」
空から降りてきた淡い光は、アンジェリーヌのものだろうか。それが女神キルギスに吸い込まれると、女神キルギスは眩い光を放ちながら一歩足を踏み出した。同時に、ヴァレリーが地面に倒れ込む。オルガがヴァレリーを抱き起こすと、気を失っているようだった。
「大丈夫、すぐに目をさまします」
女神キルギスは微笑むと、災禍の魔女を見つめた。青年が、肩で息をしながら女神キルギスを見る。
「もういいのか……」
「はい。あとは、私が」
青年が退いたのを見届けると、女神キルギスは歩き出した。災禍の魔女は、まるで地面に縫い付けられたかのように動けない。女神キルギスが怯える魔女を抱きしめると、一層強い光で満たされた。
青年とオルガは、その眩しさに思わず目を閉じていた。遠くで、誰かの泣き声が聞こえた気がした。




