ベアトリス【1】
災禍の魔女ベアトリスは、青年たちが現れると冷酷な瞳を細め微笑んでいた。側にはエミリアンが横たえられ、青白い顔で目を閉じている。
「意外と早かったな」
ベアトリスは口角を引き上げ、にまりと笑った。青年は一歩前に出ると、ベアトリスを見据える。
「おお、私の呪いが随分と解けてきているようだ。私の贈り物は気に入ってくれたか?」
青年を見つめ、ベアトリスが首をかしげる。ベアトリスの言う贈り物が青年の母竜を指すのなら、趣味が悪い。ヴァレリーとオルガは顔をしかめるが、青年は気にした様子もなかった。
「もう充分だろう。エミリアンを解放しろ」
「充分? お前は何を言っているんだ。私はマルグリットに言ったはずだ。用があるのだよ、マルグリット」
ベアトリスが不気味に微笑み、左腕を上げる。エミリアンの瞼が震え、ゆっくりと身体を起こした。
「坩堝の只中に長時間晒された者がどうなるか、アデライドは教えなかったか?」
起き上がったエミリアンを見ようともせず、ベアトリスがオルガを見つめる。オルガの視線の先のエミリアンが立ち上がり、オルガを見つめた。
「エミリアン様……」
オルガが名を呼ぶ。だが、エミリアンの双眸は真紅に染まり、その瞳は何も映していないかのように虚ろであった。
「様子が変よ……」
ヴァレリーが声を上げる。ブラックドラゴンと同じ様に、正気を失っているようだった。
「随分と抵抗はしていたよ。エルフから受け継ぐ魔力の多さからか、それともこれの意思か。だが、人のなんと脆弱なことよ」
ベアトリスが侮蔑の表情を浮かべる。オルガはエミリアンから視線を反らせないでいた。
「わかったら、その命を散らすがいい。お前とアンジェリーヌを屠り、この箱庭に祝福を与えてやろうではないか!」
「祝福だと……?」
青年が訝しげに聞き返す。ベアトリスは鼻で笑うと、青年を値踏みするように見つめた。
「知りたいか? そうだろうな。無意味に屠られることこそ虚しいことはない。教えてやろうか?」
「理由があるからって、していいことと悪いことがあるわ!」
ヴァレリーがベアトリスに抗議の声をあげた。ベアトリスはそれを鬱陶しそうに見つめ、肩をすくめた。
「そうであるなら、災禍の魔女など生まれはしなかった」
ベアトリスが静かに呟く。その意味を計りかね、ヴァレリーが目を細めた。
「信じなくとも構わない。意味のないことだからな。だが、これだけは本当だ」
ベアトリスは1度言葉をきると、暗い瞳で微笑んだ。
「災禍の魔女などいなかったのだよ」
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荒廃した「世界」に舞い降りた女神が祝福を与えたのは、若き英雄だった。かつて父であり夫であった神は言った。人間を愛せば、身を滅ぼすことになるのだと。数多にある箱庭に過ぎぬ「世界」に深く干渉すれば、その神神性すら失いかねないと。
穢れた「世界」は、女神の身を灼き心を黒く染めていった。それでも、女神は「世界」を、英雄を愛していた。
英雄がその身を土に還す時、女神は言った。
「きっと、すぐに追いつきますから」
そんなささやかな願いを。想いを。人の業が醜く踏みにじる。
「女神様、どうかご慈悲を」
英雄亡き後の迷える人々を救うべく、女神は孤独に慈しみ続けた。それが英雄の願いであると囁かれれば、そうである気がした。
「女神様、あなたとあの方の血を分けた子らに、祝福を」
それは、女神にとって疑問を差し挟む余地のない願いだった。英雄と自分の愛し子が、その子孫が、永劫脅かされることのないように願いと祝福を。
人間の浅はかな思惑を疑うこともせず、女神はひたすらに人々を愛し慈しんだ。
だが、ある時それが崩れる。人間が浅ましくも女神に「災禍の魔女」という烙印を押し付けた。それは、女神の神性を恐れた教会の……そして、女神が愛したレイダリアの人々がしたことだった。
ありもしない「災禍の魔女」という偶像を作り出し、一方で清廉潔白な女神キルギスを表向きは信仰し続ける。そのどちらをも押し付けられ、レイダリアの地を追われた女神は、いつしかその魂から神性を失っていった。
黒く染まった魂に、最早「世界」や英雄への愛は消えていた。残ったのは、レイダリア、そして「世界」への復讐心。救いようのない箱庭への破壊衝動だ。
歪で穢れた世界なら、壊してまた造ればいい。
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ベアトリスが語った「おとぎ話」は、俄かには信じられぬものであった。それを認めるということは、即ち。
「女神キルギス……」
青年は別として、ヴァレリーとオルガは動揺した。特にオルガは、女神キルギスの神性を身に受け継いでいる。それは即ち、女神キルギスから奪った神性ともとれる。
ベアトリスの話が事実であるならば、その復讐心を咎めることがオルガにできただろうか。
「だけど」
ヴァレリーが青ざめた顔でベアトリスを見る。
「オルガたちを殺して……世界を壊して。その後、あなたはどうするの?」
ベアトリスが驚いたようにヴァレリーを見つめた。考えていなかったとでも言いたげに首をかしげると、興味深そうに頷いた。
「何故そんなことを聞く」
「わからないけど……ねえ、どうしても壊さないといけないの?」
それは、純粋な疑問だったのだろう。だが、その問いはベアトリスにとって思ってもみないものであったようだ。看過できないほど明らかに狼狽したベアトリスは、一歩後ろに下がった。
「あ、当たり前だ! 最早この箱庭は存在すべきではない!」
動揺を悟られまいと、ベアトリスが険しい顔で答えた。ヴァレリーが悲しげに首を横に振る。
「そうじゃなくって……えっと、レイダリアに継承されてきた神性をあなたに返して、あなたに押し付けられた災禍の魔女という概念を消すことはできないのかなって」
オルガがハッとしてヴァレリーを見つめる。ヴァレリーの言わんとしていることを理解し、一歩前に進み出た。
「ベアトリス、もう一度人間のことを信じて頂けませんか? 私とアンジェリーヌの神性をお返しし、教会に掛け合い災禍の魔女についての訂正を求めます」
青年が、同意するように頷いた。
「お前の歪んでしまった存在が戻るまで、付き合ってもいい。必要なら俺が人間を見守ろう」
「知っていますか? レイダリアの人々は、本当に敬虔な女神キルギスの信徒です。あなたなら、本当はわかっているはず……」
オルガが尚も言い募ろうとした時、ベアトリスの瞳が見開かれ、苦しげに後ずさった。
「もう……遅い! 何もかも!」
叫ぶように吐き出された言葉に呼応するように、ベアトリスの身体から膨大な魔力が放たれた。
まるで慟哭のように。放射状に広がる魔力の波が、青年たちを呑み込んだ。




