慈雨【2】
辺りがすっかり暗くなった頃、ヴァレリーが目を覚ました。
セバスチャンが尾を乾かし、それで包んでいたお陰か少し体調もいいようだった。
濡れてしまった服を着替える間、セバスチャンの背面に回る。
「何故戻ってきたんだ?」
ヴァレリーのいる方に向かって、青年が声をかけた。
「心配で」
「だからといって、倒れていたら」
青年の語気が強くなる。ヴァレリーの行動が腹立たしく感じた。ヴァレリーに何かあったら。そう考えると、何故か気持ちが落ち着かなくなる。
「ごめんなさい、でも離れないって決めたから」
声に熱がこもる。青年はそれをざわつく心を静めるように聞いていた。
衣擦れの音が闇夜に響き、セバスチャンの背後から着替えを済ませたヴァレリーが戻ってきた。
まだ少し顔は赤いが、先ほどよりは顔色も良かった。
「火にあたって」
青年が毛布を差し出す。雨雲が去った空は、満天の星空だ。
ヴァレリーは毛布に包まると、ぼんやりと焚き火を見つめた。
「……ルーさんは、わかってないね」
ぽつりと落とされた言葉に、青年は首をかしげる。
「ルーさんは、どうして私を逃したの?」
「それは」
適切な言葉を探し、言葉に詰まる。
「……怪我を、させたくなかった」
「私も、ルーさんに怪我をしてほしくないよ」
ゆっくりと顔を上げ、青年の顔を覗き込む。ヴァレリーの双眸が青年をとらえた。
「だから、私怒ってるんだから」
真っ直ぐに見つめ、胸中を吐露する。それは、青年が言いたかった言葉に近いような気がした。
「俺も、お前が怪我をするんじゃないかと……」
「あのね。ルーさんが私たちとは考え方が違うことはわかってるんだよ。私を守ってくれようとしたことも。だけど、私はルーさんから離れないって決めたんだから、その私の気持ちは無視しないでほしい」
「それじゃあ、俺の気持ちはどうなるんだ」
狼狽して口をついた言葉に、青年自身が驚いた。
ヴァレリーを特別だと認識していることに。
「ねえ、それって……」
「いや、これは……」
沈黙が訪れる。ヴァレリーが、細い指を青年の頬に添え、微笑んだ。
「うん、ごめんね。今は、それだけでいい」
そのまま青年の首筋に抱きつくと、毛布がばさりと肩から落ちた。
「ルーさんの体温は低いんだね。ひんやりして気持ちいい」
「また熱が上がったんじゃないのか?」
困惑した顔で青年が呟く。
「そうかな? そうかも。でも、この熱はいい熱だから」
ヴァレリーが笑う。青年は落ちていた毛布を掴むと、ヴァレリーごと包まった。
「いい熱はない、とアデライドが言っていた。もう寝ろよ」
「うーん、わかった……そういえば、あのドラゴンは?」
「まだ眠ってる。もう暴れることはないと思うが、一応みておくよ」
青年が視線を移すと、ブラックドラゴンの側でピィ眠っていた。
「ピィちゃんの家族なのかな」
「ピィが言うにはそうらしい。母親だ」
「……当たり前だけど、ルーさんはピィちゃんの言葉がわかるのか。いいなぁ」
ヴァレリーが目を細め、小さく欠伸した。
「セバスチャンと寝たらいい」
「ルーさんどっか行っちゃいそうだから、今日はこうやって寝るんだから」
「……じゃあもうそれでいいから、早く寝ろ」
無理やり会話を打ち切った青年を見上げ、ヴァレリーはもぞもぞと毛布に潜るようにして目を閉じた。
やがて聞こえてきた寝息に、青年は安堵の吐息を零すとヴァレリーが寝やすいように抱え直した。
青年には人間の細かい感情の機微を理解することが難しかったが、今日わかったことが一つだけあった。
ヴァレリーを危険な目に合わせたくない。それは、ブラックドラゴンにもある感情だ。
パートナーや子供に対する気持ちと同じものだ。
「こんなに、中途半端な存在の俺が……?」
苦悩の表情で呟かれた言葉に、一部始終を見守っていたセバスチャンが悲しげに鼻を鳴らした。
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翌朝優しく揺り起こされたヴァレリーは、間近に迫った青年の顔に悲鳴を上げかけた。更に、昨夜の自らの大胆不敵な行動に恥じ入り、赤面しながら立ち上がった。
既にブラックドラゴンは目を覚ましており、悠然と身を横たえ青年たちを見ていた。
「あっ……き、昨日はごめんなさい! もう、傷は大丈夫かしら……」
動揺を悟られまいと、ヴァレリーは慌ててブラックドラゴンに尋ねた。
「大丈夫だろう」
「よ、よかった。でも、どうしていきなり暴れていたの?」
「記憶がないらしい。ピィを探していたことは覚えているらしいが、何故俺たちを襲ったのか……」
「アデルに聞いてみないとわからないかな」
「だろうな。さて、彼女が王都ガレイアまで送ってくれるらしい。セバスチャンは乗れないが、お前は自分で走れるな」
セバスチャンが任せろと言わんばかりに頷く。
「え……ブラックドラゴンに、乗るの?」
「あぁ。大丈夫だ、彼女はゆっくり飛ぶから、セバスチャンとはぐれることもない」
「そうじゃないの!」
ヴァレリーが震えながら首を横に振る。空を飛ぶなんて、想像するだけで恐ろしい。
「怖いのか?」
青年が困ったように尋ねる。ヴァレリーが震えながら頷くと、ピィが胸に飛び込んできた。
「ピィ……」
「ピィちゃん……」
「無理にとは言わないが、歩くよりは早く着く」
ヴァレリーは迷っていた。だが、ややあって頷くと、青年の腕をつかんだ。
「オルガの力になりたい。だから、彼女の背中に乗る……」
「よし、じゃあ急ごう」
青年は頷くと、荷物をセバスチャンの背に預けた。
「場所はわかるな?後で合流しよう」
セバスチャンは頷くと、先に走り出した。いくらセバスチャンの足が速いといっても、ブラックドラゴンの飛行速度には敵わないのだ。
「さあ、行こう」
ヴァレリーを抱き上げると、青年はブラックドラゴンの背に駆け上った。ゴツゴツとした突起が幾つか生えており、青年はその間に腰を落ち着けた。
「え、こ、このまま?」
「ちゃんと掴まって」
青年がブラックドラゴンの背を叩くと、翼を羽ばたかせた。突風のような風が巻き起こりゆっくりと巨体が浮かび上がる。
ヴァレリーは眼下を見ることができず、青年の首にぎゅっと抱き着いていた。
ごうごうという風の音が唸りを上げ、あっという間に草原は遠くなる。
「懐かしいな……」
風の音の向こうで、青年が確かにそう言うのをヴァレリーは聞いた。




