黒衣の聖女
まるで国中が泣いているようだ。
オルガはどこか他人事のように考えていた。
泣き腫らした目の下には酷い隈ができていた。ただでさえ白い肌が、眠れず碌に食事もとれないでいるせいか青白い。
銀に輝く髪をきつく結い上げ、黒いレースのヴェールで口元まで覆い、ドレスも極端に露出も装飾も少ない漆黒。
城下が一望できるテラスで、オルガは長いことそうして外を眺めていた。
すぐ側の部屋では、王や貴族たちが魔女についての議論をしているはずだった。
「お身体に障りますよ……」
遠慮がちに召使いが外套を掛ける。
「きっと、エミリアン様はご無事です」
なんとかして、この美しく哀れな姫を勇気付けようと声をかける。
だが、オルガはそれに同意も否定もすることはなかった。
ただ、流された多くの血に祈りを捧げるように。
静かに遠くを見つめているのだ。
あの後、エドワールの葬儀が簡単に行われた。
クレイアイスを守るために命を散らした若い他国の王子に、ホールに避難していた民たちも涙した。
偉大な英雄を讃える歌が途切れることなく響き、今も耳を凝らせば聴こえてくるようだった。
「いま、エドワール様はどの辺りでしょう」
抑揚のない声で、オルガが呟く。
国王ユークリッドが、宰相や他の王子たちを連れレイダリアに発ったのは昨夜のことだった。
レイダリアで、もう一度葬儀が執り行われる。
エドワールの民たちからの人気は高い……国民の失望は、見ずともわかるというものだった。
「順調であれば、そろそろ関所でしょうか……」
召使いが控えめに答える。
オルガは頷くと、ふいっと踵を返し室内へ入った。
「ど、どちらへ?」
「国王陛下のもとへ」
歩みを止めることなく、オルガは言い放つ。
オルガはもう決めていた。これからどうすべきなのか。
「国王陛下!」
制止する召使いを振り払い、貴族たちと会議を行っていた王の前に姿を現わす。
「ご無礼をお許しください」
真っ直ぐに王の前に跪き、オルガは淀みなく言葉を紡ぐ。
「どうか、わたくしが魔女を追うことをお許しください」
しん、と室内が静まり返る。この愚かな姫は何を言っているのかと。
国王も動揺を隠すことができず、優しくオルガの肩を支えながら立ち上がらせた。
「お主の気持ちはわかるが、姫よ。何ができると言うのだ? むざむざその命、魔物にくれてやるつもりか?」
「魔物はわたくしに触れることはできません」
きっぱりと言い放つオルガに、国王は更に狼狽する。
「それが真であっても、エミリアンがおれば許さぬだろう……」
「……いいえ、わたくしが行かなくては。陛下に申し上げたはずです、魔女はわたくしに来いと言ったと」
毅然とした態度に、貴族たちからヒソヒソと声が上がる。
ジェイン派の貴族たちだ。
「陛下、恐れながら。レイダリアの姫君は代々女神キルギスの加護を受けるとか。本当であれば、聖女様ではありませぬか。まさに、疲弊した我が国の民草の希望となりましょう」
「しかし」
否定しようとする国王に、別の貴族が声を上げる。
「なに、別にお一人で送り出すことはありません。護衛の騎士をつけましょう。きっと聖女様をお守りするという使命、達成することでしょう」
嫌らしい笑みを浮かべながら、貴族たちが口々に「聖女様」と続けた。
ジェインの愛妾が魔女だったという落ち度を、無きものにするが如く。
ついに、国王は反論することはできなくなった。
その日のうちに、国王の名の下にお触れが出される。
「聖女マルグリット様が、エミリアン王子奪還の指揮をとられる」
朗々と宣言された言葉は、確かに民に希望をもたらした。
そして、貴族たちはほくそ笑むのだ。
これでジェイン殿下の基盤は磐石だ、と。
オルガはそれでもいいと思った。
エドワールを失い、エミリアンまでをも失うことこそ。
自らの命が尽き果てることよりも恐ろしい。
部屋を辞したオルガは、さっそく準備に取り掛かった。
すぐにでも発ちたかったが、騎士団の編成というのは時間がかかるようだ。
「本当に行ってしまわれるのですか」
召使いが悲しそうに尋ねる。
「そうです。あぁ、これを手配してもらって……それから、奥の衣装箱を開けて欲しいの」
召使いにメモを渡し、クレイアイスへ辿り着いてからも捨てることのできなかった鞄を開く。
「マルグリット様、これ……」
「ありがとう」
衣装箱から出されたのは、オルガが愛用していた杖だった。
もう二度と使うことはないと思っていた。
着替えを詰め込み、召使いが用意した応急道具を詰める。
騎士が同行するのなら、食料や馬車はあるだろうが万が一分断された時を考えていた。
「きっと、この国はバチが当たりますわ……」
震える声で、召使いが呟く。
「何故、そう思うの?」
オルガが不思議そうに尋ねると、召使いが不安げに声を落とした。
「みんな言っております。内心ジェイン様の周りは喜んですらいるだろうって……だって、人柄も良いエミリアン様やお美しく聡明なマルグリット様がいなくなれば……あぁ、恐ろしい」
「それは仕方のないことよ」
諭すように呟くオルガを、召使いが憐憫の目で見つめた。
「行ってはだめです……きっとこれは謀略なのです……」
ついに泣き出した召使いを、オルガは抱きしめてやることができなかった。
そんなことは知っていた。それでも、エミリアンのために行きたかったのだ。
人知れず自分が暗殺されることを想像してみる。
国民たちは涙し、恐らく美しく悲しいサーガにでもなるのだろう。
馬鹿らしい、とオルガは吐き捨てた。
「とにかく、わたくしは行きます。きっとエミリアン様は待っているから」
それ以上会話を続ける気もなかった。
オルガは静かに杖を持ち上げ、祈るように瞳を閉じた。
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事態が動いたのは、3日後の昼だった。
何かと理由をつけて出発を先送りにし、出発のセレモニーを明日行うという話が出た直後。
怒り狂ったアデライドがクレイアイス王城にファブリスを連れて乗り込んできたのだ。
貴族たちは萎縮し、今にも広範囲の高位魔術でも詠唱しかねないアデライドを必死に宥めすかした。
「醜いウジ虫どもが! 国王はどこだ、儂に顔を見せることもできぬのか!」
「ここにおります、アデライド殿」
「来るのが遅い!」
国王を叱りとばすアデライドを、貴族たちは怪訝な目で見つめる。
「マルグリットはどこだ、何故儂が来たのかわかっておるのだろうな。ええい、ベルクを呼べ! お主らは邪魔だ!」
貴族たちを怒鳴りつけるその剣幕に、彼らは震えながら出て行った。
「お呼びでございますかな。すぐそこまで声が聞こえておりました」
ベルク将軍が姿を現わす。ヴィーヴルから受けた傷は大したことがなかったのか、今は軽い包帯のみだ。
「お主、会議になぜ出ておらんかった。何故、マルグリットを……」
言いかけて、国王とベルクは俯いた。アデライドはその意味を悟ると、ますます眉を吊り上げた。
「お主ら、揃いも揃って無能ばかりめ! もうよい、騎士団なぞいらぬ。儂がマルグリットを連れて行く。だが、もし儂とマルグリットが死んでみろ……二度とクレイアイスの上に栄光はないと思え」
アデライドは低く言うと、すぐにマルグリットを連れてくるように指示した。
結局のところ、エルフの庇護がなければ長命の王族が生きていくには辛い世だった。
すぐにオルガが呼ばれ、そのあまりの変わりようにアデライドの双眸が悲しげに細められた。
こうして、欠けていたピースが揃うように。魔女への最後の鍵が揃った。
それはこれから始まる長い旅への序章でしかなく……。
ただ、クレイアイスでは珍しい透き通るような青空だけが、旅立つオルガたちを皮肉に見下ろしていた。
2章 終了




