坩堝
オルガたちに起こったことを、遠く離れた青年たちは知る由もなかった。
船は順調に航路を進み、数日かけてジャレイン諸島へと着いた。
元は漁師が多く住む豊かな自然の島だったが、今は不気味なほどに静まり返っていた。
「うん、やはり向こうの魔術師は応答せんな」
アデライドが呟く。
「婚礼の後でバタついているのか?」
ファブリスが不思議そうに尋ねる。
アデライドは肩をすくめると宝玉をヴァレリーに返した。
「島の探索を終えたらもう一度連絡をしてみてくれ」
青年の言葉にアデライドが頷いた。
「旦那、お気をつけてニャ!ボクらは船で待ってるニャア」
アノルーに見送られ、島に上陸する。
海岸には腐臭を放つ臓物や、何かの動物の毛皮などが散乱していた。
「人はいねえか……」
ファブリスが顔をしかめる。
アデライドが辺りを見回し、浜辺から島の中に続く林を指差した。
「使い魔はあの奥で怪我をしたようだな」
林を進むほど、引きちぎられたような屍体は増えていった。
普段肉を扱えるヴァレリーも、これにが顔色を悪くする。
「ヴァレリー、離れるな」
先頭を歩いていた青年が、前方を見つめ立ち止まる。
奥からは禍々しい瘴気が漏れ出し、そこだけ闇が広がっていた。
「坩堝か」
アデライドが苦い顔で呟く。
熱気すら孕んだ瘴気は、ヴァレリーの身体に恐怖を縫い付けるには充分だった。
「坩堝ってのはなんだ?」
「金属を混ぜて溶かすのに使う壺のことだが、この場合は違う。高純度の魔力と生贄、それに魔物を用意し、長い期間をかけてこうしてこねくり回してやるのだ。造り上げるのにも魔法陣だの結界だの必要で、コストがかかるゆえ使うものが少ないが……」
脇に転がっていたヴィーヴルの亡骸を蹴り飛ばし、アデライドが唸る。
「こいつは弱い個体だったようだな。共食いの形跡がある。儂も坩堝の実物を見るのは初めてだが、よもやこれほどのものを造り上げるものがおるとは」
「ヴィーヴルはまだ残っていると思うか?」
「どうだろうな。だが、ここは壊してしまった方がいいだろうな」
アデライドの言葉に、青年が頷く。
「だが、いかにお主とて中に入れば無事ではすまん。入れば理性を失い、たちまち獲物を狩るだけの化け物にかわるだろう。それはそこにおるグレイウルフや、ブラックドラゴンの子も同じだ」
アデライドが淡々と言葉を紡ぐ。
「じゃあ、どうやって壊すんですか?」
ヴァレリーが震えながら尋ねる。
アデライドは安心させるように微笑むと、林の奥を見つめた。
「魔術の心得があるものならば、狂わずにいられる。だが、儂1人ではヴィーヴルの残りがいた場合ちと厳しいだろうな」
「お前、まさかヴァレリーを」
青年が言いかけると、アデライドは鋭く青年を視線で射抜いた。
「他に方法があるか?お主もファブリスも、行けば狂う。ここで狂わずにいられるのは、儂とヴァレリーのみだ」
「あの……私は何をすればいいんですか?」
ヴァレリーが震えながら声を上げる。
「ここをこのままにしておいたら、またあの村の女の子みたいなことが起こるかもしれないんですよね。私、どうすればいいんですか?」
震えながらもヴァレリーが出した答えは、アデライドへの協力の言葉だった。
「すまない。儂にもっと力があればお主を危険に晒さずにすむものを。お主はヴィーヴルどもの残りがおったら、魔術で牽制するのだ。これを貸そう」
アデライドはそう言うと、左腕に着けていた腕輪を差し出した。
「それは魔物が嫌う。こと、闇の魔術に晒された魔物は。よいか、中は恐らく色々な声が聞こえるはず。心を強く持つのだ」
アデライドに抱きしめられ、ヴァレリーは頷いた。
アデライドの肩越しに、心配そうな青年の視線とかちあった。
「大丈夫」
なんとか微笑んで見せると、ヴァレリーは荷物の中から杖を取り出した。
「では行くか。1時間して戻らねば諦めろ」
銀細工の懐中時計を青年に放り投げながら、アデライドが歩き出す。
「ヴァレリー、無理するなよ」
青年の言葉に、ヴァレリーは笑顔で手を振る。
一歩進むごとに坩堝の禍々しい瘴気が濃くなってゆく。
ヴァレリーは足を止めないように必死にアデライドの左腕を握っていた。
吐き気を誘う不快感と戦っていると、開けた場所に出た。
中央には闇色の輝石が置かれ、そこが瘴気の出処のようだった。
「大丈夫か?」
アデライドが優雅に微笑む。
こんな状況だというのに、アデライドは汗ひとつかかずに涼しい顔をして立っている。
「ここが中心、ですか」
脳の奥がチリチリと灼けるような感覚に、ヴァレリーは自然と顔をしかめる。
アデライドは頷くと、輝石を指差した。
「あれに魔術の式を組み込んであるようだ。今から術式を打ち消す魔術を使う。だが、簡単にはいかんだろう。その間儂は無防備になる」
自らに課せられた重圧に、ヴァレリーは頷くのがやっとだった。
それでも震える両足に力を込めると、凛とした表情でアデライドの側に立つ。
「よい瞳だ」
アデライドは微笑むと、瞳を閉じ詠唱を始めた。
ヴァレリーは、その言葉を聞いたことがなかったが、不思議と心を支配していた恐怖が薄れていくのを感じた。
アデライドを中心に、正気とは別の魔力が波紋のように広がっていく。
それまで漂っていた瘴気が、あちこちで形をとり始めた。
「クルシイ……」
確かにその影たちはそう言った。
アデライドが言っていたのはこれなのかと、ヴァレリーは身震いする。
「イタ、い」
影は嘆きの歌を歌いながら、ヴァレリーたちの方へ詰め寄る。
だが、アデライドの魔術のせいなのか光の内側へは入れないようだった。
「……今、助けるから」
ヴァレリーは辺りを見回し、ヴィーヴルや他の魔物が襲ってこないか注視することで気を逸らした。
やがてアデライドの魔力が練り上がり、輝石へ向け放たれた。
やけに乾いた音を立て、輝石が真っ二つに割れる。
それまで影として揺らいでいた瘴気が、急速に空へとのぼっていく。
「やりましたね、アデライドさん!」
ヴァレリーが振り返ると、アデライドが崩れ落ちた。
慌てて抱き起こすと、アデライドは青白い顔で微笑んだ。
「やはり、坩堝の破壊は骨が折れる……」
「大丈夫ですか……?」
不安げに尋ねるヴァレリーに、アデライドは頷いてみせた。
「儂のありったけの魔力を叩き込んでギリギリとは、恐れ入ったよ」
「なんて危険なことを……廃人になるつもりですか?」
「まさか。だが、危なかったな。すまないが、肩を貸してくれ」
よろよろと起き上がるアデライドに肩を貸しつつ、ヴァレリーは歩き出した。
ジャレイン諸島の人々を助けることはできなかったが、これでひとまず凶悪な坩堝を破壊することはできた。
「お、戻ったか……」
ファブリスがアデライドに駆け寄り、ヴァレリーの代わりにアデライドの肩を支えた。
そのままセバスチャンの背に乗せるために歩いていく。
青年がヴァレリーの側に近寄り、細い肩を無言で抱き寄せる。
「あ……」
急に震えだした身体に、ヴァレリーは動揺した。
「ど、どうしてこんなことするの?」
震えを悟られまいと、必死に尋ねる。
「わからないが、こうしたかった」
青年の言葉に、ヴァレリーは震えながら身を預けた。
張り詰めていた神経がゆっくりとほぐれ、温かい涙となって頬を伝う。
「もっと早く着いてれば……あの子を助けられたのに」
静かに後悔の涙を流すヴァレリーを、青年はただ抱き締めることしかできずにいた。




