穢れ落とし【2】
その日の夜、まるでヴァレリーの不安を体現したかのような激しい雨がレイダリアに降り注いだ。
こんこんと眠り続けるオルガの側で、一睡もできずに見守る。
夜が明けても、雨が降り止むことはなかった。
日が差さない薄暗い室内で、オルガの瞼が僅かに震える。
ヴァレリーははっと息を呑み、オルガの様子を注意深く見つめた。
どんな変化がオルガに訪れようと。それを受け入れようと。
うっすらと目を開けたオルガは、ぼんやりと天井を見つめていた。
側にいるヴァレリーに気がつくと、緩慢な動作で起き上がり不思議そうな顔で小首を傾げた。
「お、おはよう」
緊張の面持ちでヴァレリーが声を掛ける。
「よかった、顔色は悪くなさそうだし具合も悪くなさそう。そうだ、オルガ。喉は渇いてない?誰かに水を頼もうか」
「……? ええ」
ヴァレリーの言葉に、オルガは驚いた顔のまま頷いた。
そして、言いにくそうにヴァレリーの顔を見つめる。
「あの」
控え目な声音で声を掛けられ、ヴァレリーは浮かしかけた腰を再び降ろし、オルガの瞳を見つめる。
先を促すようにヴァレリーが頷くと、オルガは安堵したように続けた。
「気を悪くしたら申し訳ありません。貴女と、以前お会いしたことがあったかしら……?」
雨音が、急に激しさを増す。
ヴァレリーはその言葉に、動揺を隠しきれなかった。
オルガの様子はいつもと変わらない。
穏やかで、優しい微笑みを浮かべている。
だが、ヴァレリーのことがわからないと言いたげだ。
「じょ、冗談? えっと、私だよ、ヴァレリー」
「ヴァレリー」
思い出そうとするように、オルガが目を細める。
「……ごめんなさい、思い出せなくて。なんだか頭がぼんやりとしてしまって。そうだわ、儀式は無事に終えたのかしら……」
「え、ええ」
激しく鳴る鼓動を抑えようと、ヴァレリーは大きく息を吸い込んだ。
儀式という単語に、ヴァレリーは目を伏せる。
考えたくないことだが、「これ」がそうだというのか。
ヴァレリーは思い直したように立ち上がると、オルガを安心させるように笑顔をつくった。
「私、国王陛下かエドワール様を呼んできますね。マルグリット様はもう少し待ってて」
オルガの素性を初めて知った日から呼ぶことのなかった本当の名を口にする。
ヴァレリーは耐えられなくなり、オルガの返事も待たずに駆け出した。
オルガの部屋を飛び出し、召使いたちが控える部屋を一目散に目指す。
ノックも忘れて部屋に飛び込むと、カップを片手に窓の側に立っていた青年と目が合った。
「どうした」
ただならぬヴァレリーの様子に、青年が声をかける。
ヴァレリーは思わず青年に駆け寄ると、その胸に飛び込んだ。
一瞬驚いたような顔をした青年だったが、窓辺にカップを置くとヴァレリーの頭を優しく撫でる。
暫くそうしていると、ヴァレリーがゆっくりと身体を離した。
「何があった?」
ヴァレリーが落ち着いたのを確認すると、青年が声をかける。
ヴァレリーは泣きそうな顔で青年を見上げた。
「オルガが……私のことを忘れた」
悲しげに零された言葉に、青年も少なからず動揺した。
「確かなのか。他のことは?」
「わからないけど、儀式のことは覚えていたみたい……。エドワール様か国王様にお知らせしないと」
ヴァレリーが言うと、青年が頷いて隣の部屋へ続く扉をノックした。
中からファブリスの返事が返ってきて、程なくファブリスが姿を現した。
青年が簡単に説明すると、難しい顔で唸りながら頭を掻く。
「……とりあえず、エドワールに報告してこよう。ヴァレリーは姫さんについていてやんな。ルーは俺と行こう」
「わかったわ。あと、オルガの身の回りのお世話をする召使いさんを呼んでほしい」
「おう、そうだな。それじゃあ姫さんの準備が終わったらエドワールの部屋まで使いをよこしてくれ」
「うん、そうする」
行動をお互い確認し、それぞれ動くことにした。
雨はいつの間にか、上がっていた。
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オルガの私室に置かれていた応接に、国王ユークリッドがどっしりと座り、その向かいにオルガが腰掛けていた。
青年やヴァレリー、ファブリスとエドワール、それにエミリアンは少し離れた場所で立っている。
本来であれば青年たちが同席できるわけもないのだが。
「それで、少し記憶が混乱しているだけか?この場にいるもので思い出せないものは?」
ユークリッドが尋ねる。
オルガはゆっくりと室内を見回し、すぐにユークリッドに向き直った。
「……ヴァレリーさん、とおっしゃいましたよね。あの方のことだけ思い出せなくて」
オルガの言葉に、ヴァレリーが悲しそうに目を伏せる。
「ううむ……では、ルーやファブリスのことは?」
「忘れるわけありません!私を守っていただいたんですから。それに、エミリアン様のことも、エドワール様のことも……あら、陛下。どうしてそんな顔をなさるのです?」
オルガが不思議そうに首をかしげる。
ユークリッドもかた悲しげにオルガを見つめた。
オルガが払った代償は、「ヴァレリーとの思い出」だった。
今まで過ごしてきた時間を埋めるには、余りにも日が足りない。
「いや、これについてはルーたちとよく話すが良いだろう。エミリアン王子も、早い時間から呼び立ててすまなかった」
「いえ、国王陛下。マルグリット様のお加減がどうかと心配しておりましたので」
エミリアンが淀みなく答える。ユークリッドは頷くと、もう一度オルガのことを見つめ、そして去っていった。
「マルグリット様、明朝クレイアイスへ向けて出立することになります。今日はゆっくりお休みください」
「ええ、ありがとうございます。エミリアン様も」
短い会話を済ませ、エミリアンも部屋を出て行った。
残ったのはよく見知った顔ぶれだったが、どうしても違和感が拭えない。
「マルグリット、本当にヴァレリーのことだけ思い出せないのか」
エドワールが尋ねる。
オルガが困ったようにヴァレリーの方を見、すぐにエドワールを見て頷いた。
「で、でも。よかった。忘れたのが私だけで。みんなのこと、覚えてて。オルガが元気で、よかった」
精一杯の虚勢を張って、ヴァレリーが微笑んだ。
それは、どんなオルガでも受け入れると誓ったからに他ならない。
「でもね、オルガが嫌じゃないなら……クレイアイスまでの旅の間、もう一度友達になるところからやり直していいかな」
「ヴァレリーさん……いいんですか?」
驚いたようにオルガが声を上げる。
忘れてしまったのに、ヴァレリーは怒るわけでもなく手を差し伸べた。
「その、よかったらヴァレリーって呼び捨てにしてほしいかな」
「わかりました、ヴァレリー。お友達です」
オルガが微笑んだ姿に安堵すると同時に。
ヴァレリーの胸がチクリと痛んだ。




