穢れ落とし【1】
王都ガレイアの王城の側には大聖堂と呼ばれる聖堂が建っている。
女神キルギスを信仰する、この国では一般的な宗教だ。
レイダリアの子供たちですら知っているおとぎ話に、レイダリアの建国神話がある。
荒れ果てたレイダリアの地と、かつての民を率いていた始祖グランファーレルの祈りを聞き届けた女神が、その願いを聞き入れたというものだ。
女神はグランファーレルに恋をし、彼が命の灯火を燃やし尽くすその時まで側にいたのだという。
大聖堂はそんな女神キルギスに感謝の祈りを捧げる場であり、レイダリアで結ばれた夫婦を祝福する場である。
そして、何よりも重要なのが「穢れ落とし」と呼ばれる儀式だ。
レイダリア王室に産まれた王女が嫁ぐ際に行われるこの儀式は、その身に女神キルギスの加護を宿し、神性を受け入れる儀式だ。
女神キルギスの血を受け継ぐとされるレイダリア王室の女児は、すなわち女神の現し身とされる。
神ではなく人として生を受けた姫たちが、その神性を身に宿す為に行われる。
「緊張してる?」
連日の舞踏会の疲れもあるのだろうが、あまり顔色のよくないオルガに、ヴァレリーが尋ねた。
そう言うヴァレリーの表情も晴れない。
儀式を行えば、オルガの何かが永遠に失われる可能性もある。
思わず不安に取り憑かれそうになりながらも、こうして儀式の日は無情にも訪れる。
「大丈夫」
気丈に振舞ってはいるが、オルガの手は震えていた。
王城にあるオルガの私室は、綺麗に整えられていた。
ヴァレリーの宿屋よりも広いのではないかと思われるその部屋で、2人はそうして朝からおしゃべりをしていたのだ。
「もうすぐ時間ね」
白を基調とし、金色の糸で刺繍されたドレスに身を包んだオルガはやはり美しかった。
ヴァレリーは力無く頷くと、立ち上がった。
「ねえ、ヴァレリー。私、ヴァレリーに出逢えてよかったと本当に思うの。ヴァレリーがそばにいてくれたから、私は迷わず選んで来れたんだと思うわ」
「私もそうだよ、オルガ。身分も全然違うのに、友達になってくれてありがとう。クレイアイスの王室に入ったら、今までみたいに気軽に会えなくなっちゃうのかな」
「そうかもしれない。でも、エミリアン様にお願いしてみるね」
オルガは微笑むと、ゆっくり立ち上がった。
静かな室内に、衣擦れの音が虚しく響く。
「そうだ、ヴァレリー」
オルガがふと思い出したかのように声を上げる。
「これ、あなたにあげる。私はもう一緒に行けないけれど、これを持ち歩いて。そうすれば、私もみんなと旅ができているような気がするから」
そう言ってサイドボードから拾い上げたのは、銀色に輝く短剣だった。
ヴァレリーが鞘から出してみると、流線型を描く紋様が刀身に彫られ、柄には深い青色の宝石が埋め込まれていた。
鞘はシンプルな革製で、不思議と手に馴染む。
「オルガみたい。大切にするね」
そう言って短剣を鞘に戻し、腰のベルトに固定する。
オルガはそれを見届けると、満足したように頷いた。
「ヴァレリー、今度ルーさんとどうなったか教えてね」
いたずらっぽくオルガが笑うと、ヴァレリーが顔を赤くした。
「な、なんで?!何もないよ!」
「ふふ、嘘。ヴァレリーは嘘が下手なんだから」
唐突に扉がノックされる。
流れていた和やかな空気が霧散し、オルガの表情が「王女マルグリット」へと変わる。
「入りなさい」
ゆっくりと声を掛けると、扉が開かれた。
「失礼致します。儀式の準備が整ったので、お迎えにあがりました」
召使いが淀みなくい言う。召使いといっても、王女程の者の身の回りの世話をするのは王家に連なる家系の姫だ。
その秘匿性から、身分は当然ヴァレリーよりも上だ。
「わかりました。すぐに参ります」
「大聖堂まではお供できませんが、お気をつけて。ファブリス騎士団長が城の前でお待ちになってますので、そこまではご案内致します」
「騎士団長……」
オルガが反芻する。ユークリッドの命令とはいえ、面倒な役柄を押し付けてしまったことに思わず顔をしかめる。
召使いはそれを、身分の低いものに護衛を任せる不安ととったのか、安心させるように微笑んだ。
「マルグリット様、ファブリス騎士団長は冒険者ですがずっと姫をお守りしていたというではありませぬか。ご安心ください」
「いえ……いや、そうですね。ありがとう」
オルガは微笑むと、一歩足を踏み出した。
ヴァレリーがそれに続く。
「では行きましょう」
しっかりと足を踏みしめて。
オルガは歩き出した。
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レイダリアの姫は、普段公務にあたっているエドワールたちとは違い儀式の日に初めて民衆の前に姿を見せることが許される。
王城からキャリッジと呼ばれる、天井のない儀礼用の馬車に乗せられ、大聖堂までの距離を移動する。
短い距離だが、民衆は一目王女の姿を見ようと沿道につめかける。
高らかなラッパの音とともに、城門が開く。
豪奢な装飾が施された馬に跨ったファブリスが先導し、騎士達が整然と歩き出す。
やがて、オルガの乗る馬車が城門から出ると民衆たちから王女を讃える言葉が口々に漏れた。
オルガはその一人一人に笑顔で手を振る。
ヴァレリーと青年は、そんなオルガの馬車の後ろを静かについていく。
隊列はまだ後方まで続いていたが、やがてオルガを乗せた馬車が大聖堂に辿り着いた。
この日だけは、民衆が中に入る事は許されない。
誘導を命じられていたヴァレリーがオルガを馬車から降りるのを助けると、大聖堂の扉が開いた。
オルガはゆっくりと大聖堂に向け歩き出し、ヴァレリーがそのすぐ後に。
ファブリスと青年、そして数人の騎士だけが大聖堂の中へと入った。
中は、白い壁と高い天井、そして色ガラスから柔らかな光が降り注ぐ荘厳な空間だった。
奥の祭壇には司教とユークリッドが立っている。側には数人の聖職者もいた。
エミリアンやオルガの兄王子たちは、立ち入りを許されない。
オルガがゆっくりと祭壇の前に進み出て跪く。儀式が始まるのだ。
女神キルギスへの祈りの聖句を唱えると、司教が持っていた錫杖を一度、オルガの額に当てた。
司教が口の中で何事か呟き、そして錫杖を戻す。
側に控えていた聖職者の一人が錫杖を受け取り、別の一人が短剣を渡す。
果物ナイフよりも小さく薄いナイフは、儀礼用のものなのだろう。
それを再びオルガの額に当てがうと、司教が今度ははっきりと聖句を唱えた。
僅かに、オルガに触れていたナイフが光る。
柔らかな光が、まるでオルガに吸い込まれるように消えると、オルガがゆっくりと立ち上がった。
「これを」
再びナイフを聖職者に渡し、新たに司教が手に取ったのは銀色の指輪だった。
オルガが右手を差し出すと、右手の小指にゆっくりと指輪がはめられた。
しんとした空間に、一瞬耳鳴りに似た音が響く。
そして、オルガの身体がゆっくりと揺れ倒れこんだ。
ヴァレリーは思わず駆け寄りそうになるのを耐えながら、儀式の様子を見守る。
司教がゆっくりと息を吐くと、安堵したように目を細めユークリッドに目配せした。
儀式は終わったのだ。
ヴァレリーは弾かれたようにオルガに駆け寄ると、そっと抱き起こした。
「オル……、マルグリット様」
慌てて言い直しながらオルガの名を呼ぶ。顔色は悪いが、オルガからは規則正しい呼吸音が聞こえた。
「眠っておられるだけです。明日には目を覚まされるでしょう。穢れ落としは無事に終わりましたが、どんな反応が出ているかはわかりません。お忘れなきよう」
司教が言うと、ユークリッドは頷きオルガの側に屈み込んだ。
優しい手つきで頭をひと撫ですると、すぐに立ち上がる。
「ファブリス、大聖堂の裏手に馬車がいるはずだ。確認し城へ戻る手配を」
ファブリスは頷くと、すぐに駆けて行った。
「すまないが、マルグリットを運んでもらえるか」
ユークリッドが青年に尋ねると、青年は頷きオルガを抱き上げた。
「ヴァレリー、今日は側についてやってほしい」
王の声はどこか悲しげに揺れていた。
「わかりました」
ヴァレリーが頷くのを見て、ユークリッドは満足そうに頷いた。




