【幕間17】とある兄妹の話
全国高等学校剣道大会の会場は、異様な空気に包まれていた。
個人戦の決勝戦、即ち高校生の頂点を決める戦い。しかし、その試合はあまりにも一方的なものだった。
両者ともに厳しい戦いを勝ち抜いてきた実力者であることには間違いないのだが、力の差はあまりにも歴然。
審判の試合開始の合図とともに、竹刀が防具を打ちつける小気味の良い音が会場中に響き渡る。
「勝負あり!」
敗北した選手が呆然としているのもお構いなしに、圧倒的な覇者は美しい礼をする。
どこまでも礼儀正しく、しかしその目に静かな怒りを宿して。
「今年も、優勝は御堂桜夜か」
「とうとう三年連続全国制覇か」
「準優勝の奴もいい線いってたんだけどな」
「いや力の差がありすぎる」
「御堂がすごすぎるんだよ。大人だってまともに太刀打ちできないんだろ」
「すごい奴がいるもんだなぁ。あれが本物の天才ってやつか」
己を賞賛する声に囲まれて、それでも桜夜の頭を占めていたのは、喜びでも感動でもなく、目の前が赤くなる程の強い怒りだった。
弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱すぎる!!
全国大会でもこの程度なのか? まるで子どものお遊戯だ。
今まで数多の試合に出てきたが、対戦相手の顔と名を覚えたことは一度もない。どれも同じだ。名を覚え、今一度試合したいと強く思える相手など一人もいない。
強者と戦えることを喜び、試合に出ては相手のあまりの弱さに絶望する。もう何年もそんなことの繰り返しだ。
強い者と戦いたい。
もっと、もっと、もっと!
試合会場を出たところで、桜夜の元にセーラーの少女が駆け寄ってきた。サラサラと揺れる真っ直ぐな黒髪の、和装が似合いそうな少女だ。名は綾女。桜夜の一つ下の妹である。
綾女は兄の顔を見ると、心配そうに眉を下げた。
「兄様、浮かないお顔をしてどうされたのですか」
「綾女……いや、なんでもない。それより、お前こそ大丈夫なのか」
「……はい」
綾女は美しい少女だ。それ故に、最近は不審な男──いわゆる、ストーカーとやらに付け回されている。警察に相談もしたのだが、明確な証拠が無くては逮捕は難しいらしい。
だからこそ、綾女から相談を受けた桜夜は常に妹のそばに張り付き、護衛をしていた。両親を早くに亡くし、二人きりの兄妹なのだ。自分が妹を守らねば、と桜夜は強い使命感を抱いていた。
「お兄様に迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「構わん。ここで妹を守れねば、俺は何のために剣を習ったのか分からんではないか」
そうだ。それこそが己が戦う理由。
強い者と戦うことに執着し、道を違えそうになった時、妹の存在はいつも己を正してくれる。
己の信念は妹を守ること。この剣は妹を守るためにある。
強者との戦いに悦びを見出だすなど、あってはならない。
……あってはならないのだ。
* * *
その男は、就職に失敗し、フリーターをしながら、とあるアイドルに夢中になった。アイドルを追いかけている間は幸せだった。満たされていた。
もっともっと満たされたくて、夢中で彼女を追いかけていたら、いつの間にかストーカーと呼ばれ、ファンクラブを追放された。
信仰対象に裏切られ、絶望し、いっそ死んでしまおうかと赤信号の交差点を一歩踏み出した時、彼の腕を掴んで止めてくれたのはセーラー服を着た一人の少女。
「危ないですよ」
そう言って凛とした目で自分を見る美しい少女に、男は心を撃ち抜かれた。
──あぁ、あんなアイドルなんてクソだ! 彼女こそが、俺の真の女神だったのだ!
その日から信仰対象を変えた男は、その美しい少女のことを調べあげ、尾け回した。
御堂綾女、十七歳。両親を数年前に亡くし、今は兄と二人暮らし。御堂家は先祖が武家であり、綾女もまた薙刀部で優秀な成績を収めている……あぁ、強くて美しいなんて最高じゃないか!
その日も、男は女神の姿を一目拝もうと、綾女の高校の前で待ち伏せをしていた。彼女が学校を出るのは部活の練習が終わってからだから、大体十八時前後。あぁ、最近は日が沈むのも早くなってきたし、帰り道は暗くて危ないから、自分がきちんと見守らなくては!
背後から誰かが肩を叩く。警察だろうか? 彼は不審者として通報されることにも、その対処にも慣れきっていた。警察なんて恐るるに足らず。自分は逮捕されるようなことなんて、何もしていないのだ。
男は余裕の態度で振り向く。しかし背後に立っていたのは警察官ではなく、細身の青年だった。キリリとした目元が綾女に似ている。男は当然、この青年のことを知っていた。御堂桜夜。綾女の兄だ。
「お前か、綾女につきまとっていたのは」
そう言って青年は竹刀の袋を男の喉元に突きつけた。
「二度と妹につきまとうな」
「はぁ? オレがストーカーだって証拠でもあるのかよ?」
そんなものあるはずがない。だって、男は綾女に手紙や写真を送ったわけじゃない。まして隠し撮りだってしていない。ただ後を追って、その美しい姿を目に焼きつけていただけだ。
堂々とした態度の男を桜夜は抜き身の刃のように鋭い目でじっと見つめていた。そして、竹刀を男の喉に食い込ませながら呟く。
「貴様の気配は覚えた」
「はぁ? 何だよそれ、厨二かよ?」
男が小馬鹿にしたように笑っても、桜夜の表情は変わらない。
桜夜は静かに淡々と言い放つ。
「もう一度言う。二度と綾女に近づくな。次、綾女の近くに貴様の気配を感じ取ったら……貴様がどこにいようと何をしていようと……叩き斬る」
そう言って桜夜は竹刀袋を手元に戻すと、中の竹刀を取り出し、横薙ぎに振るった。
まるで竹刀の汚れを払うかのように無造作な一振り。しかし、次の瞬間。男のすぐそばにあった看板に亀裂が入る。看板は金属製だ。それを竹刀で?
「ば、ばけもの……っ!!」
男は手足をバタバタと振り回しながら、一目散にその場を立ち去る。その後ろ姿を見つめながら、桜夜はフンと鼻を鳴らした。
* * *
「なんなんだあの野郎、オレが何をしたっていうんだ。オレはただ綾女さんを影から見守っていただけなのに……そうだ見てるだけ見てるだけだ……」
男は近くのビルの非常階段を駆け上ると、ポケットからオペラグラスを取り出し、覗き込んだ。
お目当ての少女はすぐに見つかった。美しい黒髪を揺らして、楽しそうに笑う彼女の隣を歩くのは、憎きあの男、御堂桜夜。
(あぁ、あの男が邪魔で綾女さんがよく見えないじゃないか、退けよ、退け退け……)
憎々しげに念を送っていると、オペラグラスの中で桜夜が首を捻り……
男を、見た。
偶然だ。だって、何十メートルも離れているのだ。気づくはずが無い。
カタカタと震えながら、もう一度オペラグラスを覗き込むと、綾女の姿はあるが、桜夜の姿が見当たらない。男が望んだ通りのシチュエーションだ。なのに、寒気がするのは何故だろう。
男は己の生存本能に従い、オペラグラスを握りしめたまま非常階段をフラフラと下りる。
非常階段を下りきった先には、御堂桜夜が竹刀を手に佇んでいた。
「どうやら慈悲はいらぬらしい」
ヒュゥン、と竹刀が風を切り、男の手の中のオペラグラスを真っ二つに叩き割る。
「ひっ、いぃっ!?」
「これが最後だ。二度と綾女のそばをうろつくな」
桜夜が竹刀を構え直した。その先端は、真っ直ぐに男の額に狙いを定めている。
「あばばばばば、ふぎゃああああぁぁぁぁぁ!」
男は奇声をあげながら、その場を逃げ出す。
(畜生畜生畜生! あいつマジだ! マジで化け物だ! あんなに離れていたオレに気がついた! ああ、綾女さん綾女さん綾女さん綾女さん綾女さん、一目見たい見ているだけでいいんだ見ているだけで良かったのに、あいつがあいつがあいつが畜生畜生! 見ることも叶わないなんて酷すぎる絶望だ最悪だ。全部全部全部あの化け物が…)
あぁ、そうだ。あの化け物がいるからいけない。
綾女はみんなのものなのに、あの兄が常にそばに張り付いて独占しているから!
「そうだ、オレが、助けてあげないと……綾女さんをあの化け物から……」
男は狂気に淀んだ目を笑みの形に歪め、泡を吹いていた口でヒヒッと引きつるように笑った。
* * *
桜夜がストーカーを撃退して数日が過ぎた週末、綾女が熱を出した。普段から学業も部活動も、そして家事も疎かにせず頑張っていたから疲れが出たのだろう。
桜夜は体温計の数字を睨み、布団に横になっている妹に告げた。
「三十八度二分……だいぶ熱が高いな。部活は休め。俺が連絡を入れておく」
「申し訳ありません、お兄様……」
「構わん。最近は気を張ることが多かったから、疲れが出たのだろう……もう不安の種は無い。ゆっくり休め」
綾女はか細い声で「はい」と返事をすると、目を閉じる。
桜夜は立ち上がると、薬箱と冷蔵庫の中身を確認した。風邪薬はあるが、冷却シートの類は無い。冷蔵庫の食材も心許ないし、買い物に行った方が良いだろう。
(風邪にはやはり、粥が一番だな。綾女のように上手くは作れぬかもしれんが……まあ、なんとかなるだろう)
スーパーとドラッグストアを周り、必要な物を買った桜夜は、家まであと少しというところで足を止めた。家の方に、あの男──綾女を尾け回していたストーカーの気配を感じたのだ。数日前に、だいぶ強めに脅してやったのだが、まだ懲りていなかったらしい。
今、家では綾女が一人で寝ている。戸締りはしているが、あの手の輩は何をしでかすか分からない。桜夜は迷うことなく走り出し……角を一つ曲がったところで、家の方から黒煙が上がっているのを見た。
──まさか、まさか、まさか!!
御堂家はさほど大きくはないが、歴史ある日本家屋だ。
その家が、燃えている。家の前ではあの男がゲラゲラと笑い転げていた。
「バケモノは死ね! バケモノは死ね! バケモノは死ね! あはははははははは!!」
「貴様っ!」
桜夜は躊躇うことなく、男を拳で殴りつける。男は潰れた蛙のような声をあげて地面を転がっていたが、桜夜を見上げると信じられないものを見るような顔をした。
「なんでっ、なんでお前が外にいるんだよっ……!」
「綾女はどこだっ!?」
もしこの男の狙いが桜夜だったとしたら、綾女は外に連れ出して助けているはず。
(そうだ、そうであってくれ……!)
祈るような気持ちの桜夜に、男は呆然とした顔で言った。
「綾女さんは、この時間は部活動なんじゃ……え、嘘、中に……えっ?」
桜夜はもう男には見向きもせず、燃え上がる家の中に飛び込んでいった。
家の中は煙が充満しているのみならず、所々焼け崩れていた。なにせ古い家だ、よく燃える。
綾女の部屋は二階だが、階段は今にも崩れ落ちそうになっていた。桜夜は慎重に階段を上りながら、綾女の部屋に向かう。
「綾女っ! 綾女! いるのか! 返事をしろ! 綾女っ!」
「お兄、様……」
桜夜の声にか細い声が応えた。襖を開ければ、崩れ落ちた柱の下で綾女がもがいている。
「綾女っ、無事か!?」
「足が……挟まって……」
桜夜は綾女の元に駆けつけると、柱に手を伸ばす。
「俺が来たから、もう大丈夫だ。お前は俺が助ける」
柱は重く、そして熱かった。それでも桜夜は渾身の力を込めて柱を持ち上げる。
ほんの少し、綾女の上に隙間が出来た。今なら抜け出せる筈だ。
だが、次の瞬間、二人のすぐそばで火が爆ぜる。横から吹きつける炎に肌を焼かれながら、それでも桜夜は柱から手を離さなかった。
「ぐっ…うっ……綾、女……っ! 無事かっ、綾女……ぇっ!」
再び爆音、炎が揺れて、その向こう側にいる妹は──
「…………あや、め……?」
その光景を最後に、桜夜は意識を失った。
* * *
ケイト・ハスクリーは才女である。飛び級を重ねて大学院を卒業し、今では若干二十五歳にして、花島カンパニー研究部門の副室長を務めている。
だが、彼女は自分のことを天才だと思ったことは一度もない。真の天才というのは、彼女の上司のことを言うのだ。
「花島博士、大変お待たせいたしました。例の被検体の到着です」
「わーい! 大変お待ちいたしましたのだ!」
キャッキャと子どものようにはしゃぐのは、ぶかぶかの白衣を着て、メガネをかけた小柄な少年だ。
少年の名は花島豊。花島カンパニーの社長子息であり、稀代の天才。
ここ数年で花島カンパニーの業績が飛躍的に伸びたのは、彼の発明のおかげと言っても過言ではないだろう。
そんな彼が最近夢中になっているのが、フリークス・パーティという遊び場だ。
フリークス・パーティは世界中の生物兵器がその性能を競い合う場である。そこに自分の作った玩具を投入して戦わせるのが、最近の豊のマイブームらしい。
豊にしてみれば遊びのつもりなのだろうが、生物兵器開発の過程で生まれる技術が特許となるから、会社側にしても美味しい話であった。
「それで、それで、次の被験体はどこにいるのだ? 映像データを見たけど凄い能力なのだ! 改造するのが楽しみなーのだー」
白衣の袖をぶらぶらと揺らしてはしゃぐ豊に、ケイトは暗い声で告げる。
「ですが、博士の期待に応えられるかどうか」
「なにかあったのだ?」
「火事に巻き込まれたのです。無理を言ってこちらで引き取ったのですが……有り体に言って酷い有り様です」
「直接見てみたいのだ」
ケイトは隣の研究室へ続く扉を無言で開けた。
完全防音の扉がゆっくりと動けば、その隙間から聞こえてくるのは、嗄れた呻き声。
「ぐ……ぅぅ、ぁ、ぁえぇ、っがあ! ぅあああ……」
研究室のベッドに横たわっているのは、全身を包帯で覆われた男だった。
「被検体No.6『御堂桜夜』剣道の大会では飛び抜けた成績を叩き出しています。データから察するにバランス型、或いは五感特化型の先天性フリークスでしょう。本人は無自覚のようですが」
そう言ってケイトは男の体にかけられたシーツを持ち上げる。シーツの下は更に酷い有様だった。特にその両腕は焼け焦げた皮膚が剥がれて、中の骨が剥き出しになっている。
誰もが目を背けたくなるような哀れな男を前に、ケイトは顔色一つ変えず説明を続けた。
「見ての通り、両腕は完全に使い物になりません。内臓も複数損傷。おまけに視力の回復は絶望的。これでは戦闘用として改造しても使い物になりません」
そこにいるのは、もはや死を待つだけの男だ。実験動物として使うには、あまりにも弱りすぎている。
だが、豊はニコニコ笑いながら、白衣の袖をパタパタと横に振った。
「なーんだ、そんなの大した問題じゃないのだ」
「ですが、これでは、わざわざ貴重な先天性フリークスを連れてきた意味が……」
「運動能力なんて、いくらでも後付けできるのだ。欲しいのは、ぼくが与えた力を使いこなす戦闘センス。だから、被検体選びは戦闘センスの高い先天性フリークスであることにこだわったのだ」
そう言って、豊はブカブカだった白衣の袖を捲り直す。
面白い玩具を見つけた子どものように目を輝かせて、唇をペロリと舐めて。
「この程度の損傷、ぼくがちょちょいのちょいで直してやるのだ。延命の狂化学者の本気を見せてやるのだ!」
「では、手術の用意をいたします。何か特別に用意するものはありますか」
「それなら、『スイッチ』を用意してほしいのだ」
ケイトは数秒の沈黙の末「はい?」と聞き直した。
豊はえっへんと胸を張って言う。
「先天性フリークスは『スイッチ』が入ると、超人的な力を発揮するのだ!」
「それは存じております」
「御堂桜夜の『スイッチ』が何なのかは、データを見れば一目瞭然なのだ」
ベッドの上で全身を焼かれた男が呻く。
「……め、…あや……ぇ…」
実妹の御堂綾女──それこそが、この男の戦闘本能を入れるためのスイッチだ。
妹のことが絡むと、この男は超人じみた身体能力を発揮した。そのことは調査でも判明している。
「ですが、御堂綾女は……」
口籠るケイトに、豊はちょっとしたおつかいを頼むような口調で言った。
「それじゃーよろしくぅ! なのだ!」
* * *
焼けつくような痛みと苦しみの中で意識が浮上する。
心臓が鼓動する度、呼吸をする度、激痛が全身を刺す。目を開けて周囲の確認をしたいが、瞼が動かない。否、今の自分には果たして瞼があるのだろうか。目を開こうとしても、顔の皮膚がひきつれる感覚しかない。
「あー、もしかして起きたのだー?」
「……ぁ、ぁ…」
喉が焼けるような痛みに耐えながら絞り出した声は、蛙の鳴き声より無様だった。
「おはようなのだ。ぼくは花島豊。君の主治医なのだ。君は二週間前に事故に巻き込まれ、それはそれは酷い怪我をしたのだ。君が生きてるのは、ぼくが施した延命処置のおかげなのだ」
生きている。
あの炎の中、何もできぬまま、おめおめと生き延びてしまった!
「ぁ……ぁ…あああああ!」
「うわっ、ちょっ、暴れちゃ駄目なのだー! 点滴が抜けちゃうー!」
こんな無様な姿で、何もできぬまま生き延びてなんになるというのだろう。
(殺せ、死にたい、殺してくれ、誰か……)
「ここで死なれちゃ困るのだー! 君には花島カンパニーの最強サイボーグになるという使命があるのだー! うわーん、せっかく生かした実験体が死んじゃうー!」
「ろせぇ……! ごろ、しで、くれぇっ」
絶望の声をあげる桜夜の耳を打ったのは、若い娘の声だった。
「兄様!」
その澄んだ美しい声を、彼はよく知っていた。
包帯で覆われた左手に何かが触れる。それは人の手だった。
何よりも守るべき大切な……
「兄様、傷が痛むのですか」
「あ、や……め」
左手に添えられた手が小さく震え、温かい雫がパタパタと落ちてくる。
可憐な声が嗚咽混じりに小さく小さく呟いた。
「あなたが生きていて……本当に良かった」




