60 ヒーロー
この旅行を提案したのは、僕だった。
それに美咲が賛同してくれて、会うたびに話が進んでいった。
奏祐と神楽木さんに事前に言うと厄介なことになりそうだから、二人には男同士、女同士の旅行ってことにしよう、二人には内緒にして驚かそう、なんて、笑いながら計画を立てた。
旅行の話をするたびに、美咲は笑顔で言った。
「旅行の日が楽しみね。待ちきれないわ」と。
旅行の当日に美咲の家でばったりと会った二人の顔は、見物だった。
二人とも本当に驚いた顔をしていて、その表情がそっくりだったから、余計に面白かった。
移動中は二人とも不機嫌で、ご機嫌をとるのに苦労をしたけど、それすら楽しかった。
なのに、どうして、こんなことに。
2日目はボートで釣りをしようと言い出したのは僕だ。
僕は釣りに夢中になって、周りが見えていなかった。
そんなとき、彼女の悲鳴が聞こえた。
「美咲様!!」
僕たちは急いで彼女のもとへ駆けつける。
彼女は真っ青な顔をして海面を見つめていた。
なにがあったのか彼女に悠斗君が訊ねると、彼女は震えた声で答えた。
美咲が、海に落ちた、と。
僕はそれを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
美咲が、海に落ちた?
海面を見ても美咲が浮き上がってくる様子はない。
僕は気づいたら、服を着たまま、海に飛び込んでいた。
その時に、奏祐が僕の名を叫んだ気がしたが、僕は構わず海に潜った。
美咲を助けなければ。
僕の中にはただ、その想いしかなかった。
幸いなことに、僕は美咲をすぐに見つけることができ、美咲を抱いて浮上する。
ボートの上で待機していた奏祐が浮き輪を投げて寄越したので、僕はそれに掴まった。
ボートの上に引き上げられた僕は、真っ先に美咲の確認をする。
美咲は、呼吸をしていなかった。
僕は今度こそ本当に頭が真っ白になった。
美咲とは、奏祐より前からの付き合いだ。
美咲は常に僕の隣にいて、美咲が隣にいるのが当たり前だった。
一緒に笑って、一緒に泣いて、時には僕を叱って、ケンカをして。
それが、僕にとっての“当たり前”だった。
―――そんな“当たり前”を、失うかもしれない。
美咲が僕の隣にいない生活を考えたことはない。
どうしてだろう。どうして美咲が僕の隣いなくなる可能性を考えたことがなかったのだろう。
そう、例えば、美咲が僕以外の誰かを好きになって、その人と結婚をしたら。
例えば、僕が美咲以外の誰かと結婚をしたら。
そんなあり得る未来のことを考えたことがなかった。
「東條様……?大丈夫ですか?」
僕がベランダに出てぼんやりと夜空を眺めていると、神楽木さんがやってきた。
普段の僕に対する態度が信じられないくらい心配そうな顔をして僕を見ている。
僕は無理やり微笑む。
「大丈夫だよ。僕のこと心配してくれたんだ?」
からかうような口調になるように心掛けて僕は言う。
しかし彼女は心配そうな顔を崩さない。
笑顔を作るのを失敗したんだろうか。笑顔を作ることは得意なのに。
それくらい、僕は動揺しているんだろうか。
「……美咲さん、先ほど目を覚まされましたわ。特に大事はないそうですが、念のため1日は安静にしていた方がいいだろうと、お医者様が仰っておりました」
「……そう。奏祐の人命救助のお陰だね」
「ええ。お医者様も、少しでも遅れていたらどうなっていたかわからないと……」
「……情けないな、僕は。一番大事な時に役立たない……」
「東條様……でも、東條様は真っ先に美咲さんを助けに海に飛び込んだではありませんか。私こそ、一番美咲さんの近くにいたのに、おろおろするだけで何もできませんでした」
彼女はそう言って、俯いた。
そうだ。美咲が海に落ちたあの時、その直前まで彼女は美咲と一緒にいたのだ。
もっと私がしっかりしていたら、と彼女は後悔していた。
そうしたら、美咲さんが海に落ちるのを防げたかもしれないのに、と。
「……美咲が一緒にいるのが僕にとっての“当たり前”だったんだ。美咲がいなくなるかもしれないなんて、考えたこともなかった。だから、今日、美咲が息をしていなくて、情けないけど、頭が真っ白になった。そして思ったんだ。僕の“当たり前”は当たり前なことじゃなかったんだって」
「……東條様」
「僕は、美咲がいない未来を想像したことがなかった。……失いかけて、気づいたよ。美咲がどれだけ、僕の中で大きな存在だったか」
今日、思い知った。僕は、美咲に甘えていたのだ。
美咲は僕のことが好きだから、僕から離れていくことはないと、高を括っていたのだ。
美咲の好意に甘えて、自分の気持ちを見知らぬふりをした。
そして、目の前に現れた“奏祐の好きな人”に興味を抱いた。
「……東條様。私、知っていましたわ。東條様が、どれだけ美咲さんを大切にされているか。目を見てればわかりますわ。東條様の美咲さんを見る目は、どの方を見つめるよりも温かい目をしていましたもの」
「僕は、君が好きだ。今でも好きだ。きっと、君が僕の初恋だった」
「……ええ」
彼女は柔らかく微笑む。
「でも、それはまやかしですわ。すぐ冷めてしまうもの。ねえ、気づいていました?東條様が私を見る目は、最初は恋のものでしたけれど、段々と違うものに変わっていることに」
「違うもの?」
「ええ。たぶん、蓮見様への対抗心だとか、そういったものですわ。東條様は、私にちょっかいを出すことによって張り合ってくる蓮見様の反応を楽しんでいらしたのでは?あと、弟も私を引き合いにしてよくからかってらっしゃいますよね」
「……君には、なにもかもお見通しなんだね」
「なにもかも、というわけではありません。東條様、私、美咲さんが大好きなのです。美咲さんのことなら、よく見ている自信がありますわ。東條様を見ているのは、美咲さんのついでです」
「手厳しいな……」
「当たり前ですわ。何年、美咲さんをお待たせさせているのですか、あなたは。私は『美咲さんの幸せを願う会』の会員なのです。美咲さんを悲しませたら、ただでは済ませませんわよ?」
彼女は僕を睨む真似をする。
僕はそんな彼女に苦笑する。
本当に、彼女は美咲のことが好きだな。
これは奏祐が大変そうだ。
「肝に銘じておくよ」
「ええ。是非そうしてください」
彼女は真剣そのものの顔で言う。
僕はそんな彼女が可笑しくて、声を出して笑う。
そんな僕を見て、彼女は一瞬顔をしかめたが、すぐに柔らかく笑った。
「さあ、早く美咲さんのところへ行ってください。きっと、東條様のことを待っていらっしゃるはずですわ」
「ああ。ありがとう、神楽木さん」
僕は彼女に背を向けて歩き出したが、ふと、足を止める。
そして振り向いて、声に出さずに彼女に告げる。
さようなら、僕の初恋の人―――
今度こそ僕は彼女に背を向けて歩き出す。
そして、美咲の部屋の前に行くと、深呼吸をしてノックをする。
「はい、どうぞ。……あら?昴……?」
「美咲……目が覚めてよかった……」
「……心配をかけて、ごめんなさい、昴……」
僕はゆっくりと首を横に振る。
そしてまだ顔色のあまりよくない、美咲の顔をまっすぐ見つめる。
「美咲。聞いてほしいことがあるんだ―――」
補足。
美咲は貧血によりフラついて海に落ちてしまいます。その結果、海水を飲んでしまい、助けられた時点では息をしていません。
という風に思って頂けたらと思います。
昴さんは混乱しているので、美咲が助けられた時点ではそのことはよくわかってません。




