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「君の名前を、教えて?」


 いつも遠くから聞く声とは違う、甘い声。

 微笑みながら私を見つめる王子の目に熱を感じる。

 ―――逃げたい。

 私は王子から逃げたい、と心から思った。


「昴、彼女が困ってる」


 すっと私の前に出て、私を背後に隠すように蓮見が立つ。

 蓮見の背後に隠れるかたちになって、私は安堵の息を漏らす。


「僕に彼女を紹介してくれないの?あぁ、そういえば僕の自己紹介がまだだったね。僕は東條昴」

「……知っていますわ。東條様は有名ですもの」


 蓮見の背後に隠れたことにより、少しだけ平静を取り戻した私は、蓮見の背中から出る。

 そして蓮見の隣に並び、お嬢様らしく微笑む。


「初めまして、東條様。私は神楽木凛花と申します。弟が、お世話になっているそうですね?」


 いつも弟をありがとうございます、と頭を下げる。

 王子は嬉しそうに私を見た。


「悠斗君は優秀だからね。いらないお世話だとは思うんだけど、ついつい世話を焼いてしまうんだよ」

「ふふ、弟は東條様に感謝してましたわ」

「本当に?嬉しいな」


 そろそろ私のにわかお嬢様の仮面がとれそうだ。

 私は隣に立つ蓮見に然り気無く目配せをしてみる。

 前は通じなかったのが少々不安だが、蓮見ならきっとわかってくれるはずだ。いや、わかってくれないと困る。


「昴、俺に用があったんじゃないの?」


 アイコンタクトは通じたようだ。良かった。


「ああ、そうだった。この前のことなんだけど……」


 蓮見と王子が私にはよくわからない話をしだす。

 これは、ここから逃げ出すチャンスなのではないだろうか。

 いや、このチャンスを逃したら昼休みが終わるまで逃げられないだろう。

 よし、逃げよう。

 私は父より受け継ぎしアルカイックスマイルを浮かべた。


「お二人の邪魔をしてはいけませんし、私はこれで失礼しますわ」


 ごきげんよう、と言って颯爽とその場を立ち去ろうとした私の腕を王子が掴む。

 げぇっ。


「待って」

「なんでしょうか」


 私はアルカイックスマイルを崩さず、王子を見る。

 これ疲れるんだよ。早く立ち去らせてよ。


「もっと君のことを知りたいな。また、一緒に話をしてくれる?」


 王子のその一言に私の笑顔がひきつる。

 リアルでこんな台詞を聞けるとは思わなかった……!

 しかし、私はお嬢様なのだ。

 今まで培ってきたお嬢様スキルを活かし、私はなんとか笑顔を保ったまま、心とは正反対の言葉を口にする。


「……私でよろしければ、喜んで」


 王子は私の返事に満足そうに笑った。

 蓮見に目を向けると、蓮見の目が不安そうに揺れていた。

 私を心配してくれている?

 私は大丈夫という意味を込めて蓮見に微笑み、優雅に一礼をしてその場をあとにした。



 今日は早めに生徒会の仕事を切り上げ、蓮見と以前待ち合わせをした喫茶店に向かった。

 あのあと、蓮見からメールが届き、喫茶店に来るようにと書かれていた。

 きっと昼休みのことだ。心配してくれているのだろう。

 私は蓮見の優しさに温かい気持ちになった。


 喫茶店に着くと、以前と同じように店主さんが出迎えてくれて、前と同じ席に通された。

 蓮見はまだ来ていなかった。

 なんでも今日はちょっとした用事があるとかで、生徒会の仕事も休んだのだ。

 前日までに今日の分の仕事を終わらせているのだから、蓮見の有能さには舌を巻く。

 そんなわけで、来るのは少し遅れるかもしれないと事前に聞いていた私は早速飲み物を頼むことにした。

 ついでに前から目をつけていたケーキも食べよう。

 今日はショートケーキな気分だ。ショートケーキを食べよう。

 私は店主さんを呼び、紅茶とショートケーキを注文した。

 待っている間、私は昼休みにあったことを思い返す。



 ずっと避け続けるのは不可能だとわかっていた。

 いずれは王子と顔を合わせることになると覚悟をしていた。

 でも、顔を会わせることになるのは『いずれ』で『今日』ではないと思っていた。

 蓮見といつも待ち合わせをしている中庭のあの場所で誰かと遭遇したことは今までなかったし、蓮見以外の人があそこにいるのを見たことがなかった。

 だから、油断した。あそこは安全だと。


 とんだ勘違いだ。あそこは蓮見だけが使える場所ではない。生徒なら誰でも使える場所だ。

 それなのに、私はあそこを蓮見の専用スペースだと思い込んでいたのだ。

 その思い込みが、今日の出会いを生んだ。


 私は下唇を噛む。

 これから、どうしたらいいのだろう。

 王子のあの声、あの視線。あれは今までにない“熱”が込められていた。

 ―――王子はきっと、私に恋した。

 漫画の通りに。

 拒絶すればいいのだろうか。でも、それで王子がすんなり諦めてくれるかどうかはわからない。


 いや、王子がどうしようと、本当はどうだっていい。

 一番恐いのは、私が漫画通りに“王子に恋をしてしまうこと”だ。

 それが本当に私の意志によるものならいい。でも、それが漫画によって無理やりにねじ曲げられたものだったら?

 そうなったら、“私”の意志はどうなるの?

 わからない。

 ただ、私はちゃんとこの世界で生きているのだ。私は漫画のキャラクターじゃない。私は“私”だ。

 私は、自分の意志で“神楽木凛花”として生きたい。

 よくわからない力によって、自分の意志を変えられるのは、いやだ。



 恋をするなら、“私”として恋をしたい。

 セカコイの登場人物(ヒロイン)としてではなく。



 もし、私が“私”として恋をすることができたなら、それはどんな人だろう?


 私がそんなことを考えていると、店主さんが優しい笑みを浮かべて紅茶とケーキを持ってきてくれた。

 私はお礼を言って受け取る。

 紅茶の匂いを鼻から吸い込み、まずは砂糖をいれずに飲む。

 あれ。今日の紅茶は、砂糖を入れなくても甘い。


「お嬢様が何かお悩みなようでしたので、紅茶に蜂蜜を入れてお出しした方がリラックスできるかと思ったのですが、いかがでしたでしょうか?」

「とても美味しいです。なんだかほっとしましたわ」

「それはよろしゅうございました。……お嬢様のお悩みとは、恋のお悩みでしょうか?」

「……ええ、そうなんです。恋をすると、私が私じゃなくなるようで、恐いのです」

「……そうですか。ですが、それが恋というものでございましょう」

「それが、恋?」

「私くらい年寄りになりますと、恋というのはとても輝いて見えるようになるのです。例えそれが破滅に向かうものであっても、恋をしている人の目は美しい」


 店主さんは私を優しく見つめる。


「恋をする過程で変わっていくこともありましょう。ですが、変わらないものもあるはずです。お嬢様はまだ恋というものが未経験だとお見受けします。お嬢様、恋というものを恐がらないでください。恋は素晴らしいものでございますよ。伊達に年を取った年寄りの言うことですが、それだけは胸を張って言うことができます」

「恋は素晴らしいもの……」

「おやおや。年を取ると話が長くなるのがいけない。お嬢様、最後に1つだけよろしいですか」

「ええ。なんでしょうか」

「きっと、お嬢様の恋のお相手はすぐ近くにいらっしゃると思いますよ。これは、年寄りの勘ですがね」


 それでは、どうぞごゆっくり。

 そう言って店主さんは店の奥に入っていった。


「……恋、か……」


 私は店主さんに言われたことを胸に刻みこむ。

 店主さんのお陰で、心が軽くなった。

 私はまだ恋を知らない。

 これからどうなるのか、わからない。

 私には、知らない、わからないことだらけだ。


 わからないことばかりだけど、私はきちんと王子に向き合う必要があるのだと、店主さんとの会話で感じた。

 今まで逃げてきた。王子からも恋からも。

 これからは、逃げない。

 きちんと向き合って、決めたい。

 私がこの先に進むべき道を。


 私はケーキを一口食べる。

 クリームの甘さが胸に染みた。




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