かたいもの
※いかがわしい内容ではありません。
弟視点の話です。
生徒会の仕事を終え、家に帰ると、見慣れない靴が玄関にあった。
男物の見慣れない靴。
オレはその靴を見て、蓮見さんが来ているのだな、とピンと来た。
姉さんと蓮見さんが正式に付き合い出してから、一月近く経つ。
蓮見さんは独り暮らしを始めたようで、姉さんがいそいそと買い物袋を下げて蓮見さんの暮らすマンションへ足を運ぶ姿を見ることが多くなったが、今日は珍しく我が家に来ているらしい。
蓮見さんにはお世話になっているし、挨拶でもしよう。
そう思い、部屋に荷物を置こうと姉さんの部屋の前を通りかかったとき、姉さんの部屋のドアが少し開いていることに気づく。
そしてその隙間から、姉さんたちの会話が漏れ聞こえてきた。
「……んっ…もう…だめ…っ。おねがい…これ以上はもう……」
悩ましげな姉さんの声に、オレは思わず固まる。
続いて聞こえた蓮見さんの声にオレは頭を抱えたくなった。
「無理じゃないだろ?ほら」
「ひゃっ…そう、すけさんっ……もう無理なのっ…お願い、やめて……」
普段よりも低く、甘い蓮見さんの声。
……なんてことだ。オレはなんて間が悪いのだろう。
あともう30分遅く帰ってくれば、姉さんと蓮見さんの悩ましい声なんて聞かずに済んだのに。
実の姉のそんな声なんて、聞きたくなかった。
オレの部屋は姉さんの隣で、もしかしたら、オレの部屋からでも聞こえてしまうかもしれない。
ここは空気を読んで下にいるべきか。それともどこかに出かけるべきか。
そんなオレの葛藤なんて知らない二人の会話は続く。
「奏祐さん……っ。これ以上やったら……」
「凛花」
「これ以上やったら……私の背骨が……!」
ん?背骨……?
唐突に姉の口から出た“背骨”という言葉に、オレはぽかんとする。
「大丈夫。そんなに力入れてないし、これくらいではどうこうなる造りをしていないから。ほら、もう一度」
「ぎゃっ。い、いたい……!痛い……!」
「あのさあ……」
蓮見さんが呆れた声を出す。
オレが恐る恐る、開いている隙間から部屋の中を覗くとそこには、床に膝を真っ直ぐ伸ばして座っている姉さんと、姉さんの背中を押している蓮見さんの姿があった。
オレが想像していた不健全な雰囲気は全くない。
ほっとしたような残念なような…複雑な心境に陥りながら、オレは部屋に侵入し、呆れた声を出す。
「…なにしてるの、姉さん…」
「あら、悠斗。お帰りなさい。……あっ。奏祐さん、押さないでください!」
いたい、いたい、と叫ぶ姉さんを蓮見さんは呆れ顔で見つめている。
とりあえず。
「これは一体、どういう状況なんだ…?」
オレは状況説明を頼んだ。
「美咲の体がすごく柔らかいの。なんでも幼い頃にバレエを習っていたそうで…羨ましいわ、と奏祐さんに話したの」
「凛花が体硬いっていうから、どれくらい硬いのかと見せて貰ってたんだけど……想像以上で……」
蓮見さんは姉さんを見つめ、苦笑いを浮かべた。
姉さんはそんな蓮見さんを見て、むくれた顔をする。
「しょうがないじゃないですか……生まれつきなんですもの……」
「うん……姉さん、昔から硬かったよね……」
オレが苦笑いを浮かべ姉さんを見ると、姉さんはショックを受けたような顔をしてオレを見ていた。
自分で認めたくせに、人に言われるとショックを受けるらしい。
とにかく、今現在、姉さんの体がどれほど硬いのか、見せてもらうことにした。
姉さんは床に膝を真っ直ぐ伸ばし座る。
そして腕を伸ばし――――
「………」
「……ど、どうかしら。これでも頑張っているほうなのだけど…!」
「………」
オレは黙って蓮見さんを見た。
蓮見さんは諦めたように首を横に振る。
ああ、なんかオレ、蓮見さんの気持ちわかった。
「……姉さん、それ冗談だよね?」
「え?」
「いやだってさ……。それほとんど曲がってないじゃないか。手の先、膝をちょっと越したくらいで止まってるよ。普通、もう少しいくはずなんだけど」
「こ、これが私の限界なの!本当に頑張っているんだから…!」
必死に腕を伸ばす姉さん。
だけど、先ほどとそんなに変わらない。
オレは姉さんの背を試しに軽く押してみた。
すると、「ぎゃ!」と姉さんが情けない悲鳴をあげる。
……これは。
「姉さん。オレも硬い方だけど、これくらいは曲がるよ」
オレは実演でやってみる。
当然のごとく、姉さんよりははるかに曲がり、足の指先に辛うじて触れることができる。
姉さんはそんなオレを見て、信じられない、という顔をした。
「う、嘘よ!それで硬い方だなんて……そんなまさか!」
「嘘じゃないから。君が異常なんだって……」
呆れた声で呟く蓮見さんに、姉さんは「嘘だわ……!」と耳を塞ぐ。
そんな姉さんの手を耳から外し、蓮見さんは「現実を見るんだ」と厳しい声で言う。
蓮見さんをハッと見つめた姉さんは瞳を潤ませ、「ごめんなさい……」と謝る。
姉さんはオレたちを見つめ、真剣な表情でこう言った。
「私、ちゃんと現実を認めるわ。このままじゃないけない、ってわかったの……どうすれば、体を柔らかくすることができるかしら?」
「……お風呂上りのストレッチがいいって聞くけど」
「お風呂上がりのストレッチ……わかりましたわ。今日からやります。せめて悠斗くらいは曲がるようになるために!」
「……まあ、その。がんばれ……」
若干引き気味の蓮見さんに、姉さんは「はい!」と元気に頷く。
そして姉さんはオレを見て真剣な顔をして言う。
「悠斗。お願い!これからお風呂上りのストレッチを手伝ってほしいの……!」
「え。なんでオレが……」
「お願い!」
「う、うん……まあ、いいけど……」
オレが頷くと、姉さんは嬉しそうにパアっと笑い、「ありがとう!」とオレに抱き付く。
ちらりと蓮見さんに目を向ければ、蓮見さんは不機嫌そうにオレを見ていた。
こわい。お願いだから蓮見さんのいる前でオレに抱き付かないでよ姉さん……。
蓮見さんはオレからそっと姉さんを離し、オレの肩に手を置いて、にっこりと笑顔を向けた。
「悠斗。凛花を頼んだ」
「は、はい……ガンバリマス」
黒い笑みを浮かべてオレを見つめる蓮見さん。
あまりこのストレッチの手伝いを続けるとあとが怖そうだ。
オレはできるだけ早くストレッチの手伝いを免除できるようにがんばろう、と誓った。
その日の夜からしばらくの間、「痛いいいい!!」と叫ぶ姉さんの声が神楽木家に響いたのは、言うまでもない。




