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私が家に帰ると、出迎えた使用人さんたちが悲鳴をあげた。
あ、そういえば顔に湿布貼ってた……すっかり忘れていた。
騒ぎを聞きつけた母がやってきて、やはり私の顔をみて悲鳴をあげた。
「あ、あなた……どうしたの、その顔は!?」
「これは、名誉の負傷ですわ、お母様」
「名誉の負傷……?ああ……凛花の可愛い顔がこんなことになって……」
母は倒れそうになり、慌てて使用人さんたちが支える。
しかし母はすぐに立ち直り、私の肩を掴んだ。
「誰なの。誰にやられたの?お母様が復讐をしてあげるわ……!名前を言いなさい、凛花」
「あ、あの……」
「私の可愛い娘の顔をこんな風にして……タダで済むとは思わせてはならないわ……!」
やべえ。お母様、ガチギレしてる……。
私は必死に母を宥めすかし、なんとかその場を収めた。
が、しかし。
「姉さん……その顔……」
弟が私の部屋に入ってくるなり、私の顔を見て青ざめる。
そして私に近づき、私の肩を掴む。
あ……なんか既視感……。
「それ、誰にやられたの?よくもオレの姉さんを……!」
「ゆ、悠斗……落ち着いて……?」
「落ち着いて?落ち着いてられるわけないだろ!オレがありとあらゆる手段を使って姉さんの顔をこんな目に遭わせた奴を追い込んでやる……!」
ひぃ!弟が怖い……。
姉思いなのは嬉しいよ?嬉しいけど、もっと穏便に、ね?
私は母と同じように、弟を宥めすかした。
なんだかんだ言って、似た者母子だなぁ、と私は思った。
宥めすかすのが、大変だった。
カイトがイタリアに帰った、と皆に知らされたのは、次の日の朝だった。
珍しく伏見が気まずそうに、そして少し残念そうな顔をして言った。
「あー……突然なんだが、矢吹が今日イタリアに帰ることになった」
クラス中がざわざわとざわめく。
みんな困惑した顔をしている。
「本日付けで転校になる。なんでも家の事情らしくてな……残念だ」
そんな、と誰もが悲しそうな顔をした。
それだけ、カイトは皆に愛されていたのだ。
男女問わず、誰でも平等に接するカイトは、人気者だった。
私がふいに四方から強い視線を感じて、視線を感じた先々を見る。
美咲様、ヘタレ、飛鳥、蓮見。
それぞれが私に問うような視線を送ってくる。
私は4人に曖昧な笑みを浮かべ、前を向く。
机の下に握りしめた、携帯。
メールを打とうと入力した宛先には、カイトの名前。
だけど私は、なんてカイトにメールをすればいいのだろう。
カイトに送る言葉が、思いつかない。
メールの本文は、空欄のままだった。
休み時間になると、4人が私の机の周りに集まって来た。
「どういうことなの、神楽木さん。突然転校だなんて……」
「神楽木、君は、知っていたのか?矢吹がイタリアに帰ることを」
「……ええ。知っていた、とは言っても、知ったのは昨日ですけれども」
私は曖昧な笑みを浮かべる。
そんな私に4人が互いに顔を見合わせる。
「……矢吹くんと、なにか、あったの?」
美咲様が心配そうな顔をして聞いてきた。
あったけれど。
きっと、あのことは美咲様たちに言うべきことではない。
そう思った私は、「いいえ、なにも」と笑みを浮かべたまま、答えた。
4人はなにか言いたそうな顔をしていたけれど、私は気づかないふりをした。
「皆さん、そろそろ移動しないと。授業に遅れてしまいますわ」
そう言って私が立ち上がり、教科書と筆記用具を持って歩き出そうとすると、急に視界がぐにゃり、と歪んだ。
あれ、と思っていると、私は蓮見によって体を支えられていた。
「顔色が、悪いよ。保健室に行った方が……」
「いいえ、平気です」
私は蓮見を突っぱねて歩き出そうとするが、その視界は暗いままで、まともに歩けない。
冷や汗が出て、気分も悪くなってきた。
これは、まずいかも、と思っていると、体が急にふわりと浮いた。
キャアと黄色い悲鳴があちこちであがる。
なに?なにが、起こったの?
「どう見ても、平気じゃないだろ」
耳元で蓮見の声がする。
私は気分が悪くて、蓮見に答えることができない。
蓮見が3人になにかを言っている。
私は気づく。
―――お姫様だっこされてる!?
初めてではないとはいえ、こんな人前でお姫様だっこなんて、ありえない。
すごく恥ずかしい。
しかし、まともに歩けないのも事実で。
私が歩くよりも抱き上げて連れていった方が早い、と判断されたのだろう。
それにしても恥ずかしいけど。
「あの……私、一人で、歩けます……」
「俺が連れていった方が早いから。動くよ」
せめても抵抗として、一人で歩けると言ってみるが、取り合ってもらえない。
結局私は、お姫様だっこをされたまま、保健室に運ばれた。
なんか最近、保健室に行ってばかりだ。
昨日行ったばかりなのに。
「まぁ……2回目ね。今度は、どうしたの?」
保険医の先生が、驚いたような、呆れたような声をした。
ん?2回目ってどういうこと?
私が疑問に思ったが、具合が悪すぎて喋るのも億劫だっため、聞くに聞けない。
「貧血を起こしたようで……ベッドを貸していただけませんか」
「今回は貧血なのね。わかったわ。今、ちょうど誰も使っていないから、使ってちょうだい」
「ありがとうございます」
蓮見がお礼を言って、私をベッドに慎重におろす。
まるで壊れ物でも扱うような繊細な仕草だったが、具合の悪い私はそれにドキマギする余裕もなく、ただ小さくお礼を言うだけで精一杯だった。
私は目をつむると、すぐに眠りに落ちた。
目を覚ますと、気分はスッキリしていた。
昨日、カイトのことを考えすぎて、碌に眠れていなかった。
それが原因で貧血を起こしたのだろう。
私はゆっくりとベッドから起きだすと、保険医の先生と目が合う。
「あら。神楽木さん、起きたのね。気分はどう?」
「おかげさまで、すっかりよくなりました」
「そう、良かったわ。もうすぐ今の授業が終わるけれど、どうする?蓮見くんが様子を見に来てくれるそうだから、もう少し待っていたらどうかしら?」
「えっ……」
「ふふ。青春ねぇ。大切されているわね、神楽木さん?」
保険医の先生がとても楽しそうに笑う。
私は思わず赤面する。
「お姫様だっこをされて保健室に運ばれてくる生徒を見たのは、初めてよ。それも2回もなんてねぇ……」
また出た、2回っていう台詞。
2回ってどういうことだろう?
私、今回以外に蓮見にお姫様だっこをされて保健室に運ばれた記憶なんてないんだけど。
「あの、先生」
「なに?」
「2回ってどういうことでしょうか?」
「あら?ああ……そうだったわね。1回目はあなた、意識なかったものね」
「……あの、まさか」
「ふふふ。あなた、4月に倒れたことがあったでしょう。あの時あなたを運んだのは蓮見くんなの。今回みたいにお姫様だっこをして現れた蓮見くんに、年甲斐もなくときめいちゃったわ」
悪戯げに片目をつむりウィンクをした先生はとても可愛らしい。
聞いた話によると三十路近いらしいけれど、とてもそうは見えない。
どうみても20代前半だ。
しかし、そんな可愛らしい先生の仕草にも、私は動揺してときめけなかった。
―――し、知らなった……私の知らないうちにそんな恥ずかしいことをされていたなんて!
いや。とても有難いし申し訳なく思うけれど。
だけど、やっぱり恥ずかしいと思ってしまうのも事実なわけで。
ああ、だから倒れたあと、蓮見と一緒にいるとやたらと生暖かい目で見られたのか。
そういうことか。理解した。
理解はしたけど納得はしていない。
恥ずかしい!穴があったら埋まりたい!
近くに穴はあいていない。よし、ならばもう一度ベッドを借りて潜ろう。
そんなことを考えながら私が羞恥に悶えていると、ガラガラと保健室のドアが開いた。
「先生、神楽木の様子は……あ」
私が頭を抱えて机に突っ伏しているのを発見した蓮見がこちらを凝視するのを感じる。
しかし私は恥ずかしすぎてまともに蓮見の顔を見れない。
今、蓮見の顔を見たらものすごく動揺する自信がある。
「あら、蓮見くん。神楽木さんの具合は良くなったみたいよ。連れていってあげて」
「そうですか……良かった。神楽木、教室に戻ろう。……神楽木?」
机に突っ伏している私の顔を蓮見が覗き込む。
うっかり蓮見と目が合ってしまった私は、「ひゃっ」と悲鳴を上げて飛び退く。
そんな私を蓮見が一瞬驚いたような顔をして、すぐに不機嫌そうな顔になる。
「……神楽木?」
「ひゃ、ひゃい!?」
私は動揺のあまり、思い切り噛む。
ひゃいってなんだ。ひゃいって。
噛んだことで、私の羞恥心が余計に膨らむ。
「あらあらあら。動揺しちゃって……可愛いわね、神楽木さん」
「動揺?」
ひゃあ!!先生なに言うんですか!!
そして蓮見も突っ込まないで!
「神楽木さんにね、蓮見くんが神楽木さんをお姫様だっこして運んだのはこれで2回目なのよ、って教えてあげたの。それが恥ずかしいみたいよ?」
「ああ……なるほど」
ああああ!!言っちゃった……。
蓮見が納得したように頷く。
納得したのなら今度からもっと目立たない運び方でお願いしますよ……。
まあ、次はないと思うけど。信じたいけど。
でも2度あることは3度あるって言うしなあ……。
蓮見は私を見ると、それもう綺麗な笑顔をにこりと浮かべた。
え。なに。
物凄くこわいんですけど?
普段無表情な人が突然笑顔になるととても怖く感じるのはなぜだろう。
「慣れればどうってことはない。今から教室までお姫様だっこで運んであげようか?」
「全力で遠慮させて頂きますわ!」
「遠慮しな……」
「遠慮します」
私はキッパリと蓮見に告げると、保険医の先生に「お世話になりました!」と言って保健室を出る。
蓮見も私のあとを追いかけてくる。
「神楽木」
「……なんでしょう」
「具合はどう?」
「平気です。ご心配をお掛けしました」
「そう」
私たちは暫く無言で歩く。
そしてふいに私は立ち止まり、蓮見を振り返る。
「……聞かないのですか、カイのこと」
「君が言いたくないなら、言わなくてもいい。気にならないと言えば嘘になるけど、無理してまで話してほしいとは思わない」
「……優しいですわね、蓮見様は」
私は力なく笑う。
そして真面目が売りな私が、生まれて初めて、不真面目な提案をする。
「ねえ、蓮見様。少し私に付き合ってくれませんか?」
「……これから授業だけど、いいわけ?」
「良くはありませんけれど……これが最初で最後にしますから」
「……わかった。付き合おう」
「ありがとうございます」
微笑んでお礼を言う。
そして心の中で、蓮見に謝る。
ごめんなさい。
本当は、私一人で考えなくてならないことだけど、
どうか、あなたの優しさに甘える私を許して。
私の手には未だに送信できていない、空のメール画面を開いたままの携帯が握られている。




