31 私を呼ぶ声は
あまりの唐突な衝撃に、紅林は自分の首がどうなっているのか、息をするまで分からなかった。痛くて熱くて苦しい、本当に首がもげたと思った。
「ッは、カハ……っ!」
そして、息をしようとして初めて息が吸えないと知り、自分の首が絞められているのだと気付いた。
首に手をやれば、しっかりと紐が巻き付いている。爪を差し込み、指を捻じ入れようやく少しの隙間を確保する。しかし気を抜くことは許されず、紐は絶えず指ごと締め上げてくる。
「まったく、不幸をもたらす相手を間違っちゃいかんなあ」
――誰……っ!
背後から聞こえた声は男のものだった。耳障りの悪い、ざらついた掠れ声。
どこがで聞いた覚えがある。
しかし、回想している余裕などない。
紅林は、片手で首の紐に爪を立てながら、もう片方の手で懐をあさった。
「人気のない場所にきてくれてありがとう。お前には全ての罪を背負って死んでもらうよ、あの侍女みたいに。大丈夫、狐憑きのお前のことなど誰も気にしやしないさ」
耳の奥が膨張してジンジンとした痛みを訴える。地鳴りのような音まで聞こえてきた。段々と指先が痺れてきて感覚もなくなり始めた中、紅林はようやくそれを掴んで、懐から手を引き抜いた。
「あぐッ!!」
男の苦しそうな悲鳴が上がったと一緒に、首の圧迫が消えた。
「ゲホッゲェッ……ホ……ハッ……はぁ……っ!」
紅林はふらつく身体を懸命に動かして、男から距離を取る。男は顔の左側を手で押さえ、おぼつかない足取りでうめき声を上げていた。
顔を押さえる男の手指の隙間からは、赤い涙が漏れている。
紅林の手に握られていたのは、紅玉がはまった金歩揺。地面には破かれた黒い布が落ちていた。ちょうど振り払った歩揺が面体を引き裂いたようだ。
「小娘が……っ」
男の目はギリギリで無事だったらしく、手を外した男の左顔面は頬がぱっくりと裂けていた。面体の下の皮膚は赤黒く変色し、溶けたように引きつった皮膚が、見る者に痛々しさを覚えさせる。
「抵抗すると自分が苦しむだけだぞ」
「やっぱり、易葉は病死でも自殺でもなかったのね」
ニヤ、と男は口を歪めた。片側は皮膚が引きつって動かないのか、皮肉っぽさが増している。
「失せ物も内侍長官が主導していたんでしょ。どうりで、全然事件化しないはずだわ」
「よく気付いたな」
「冷宮の女達に聞いたもの。易葉は『内侍長官に嵌められた』ってずっと気が狂ったように叫んでいたって。彼女達はただの逆恨みとしか思ってなかったようだけど、私は、それで全てが腑に落ちたわ」
「あそこの女達も随分と口が軽い……入れ替えるとするか」
「また簡単に命を弄ぶのね」
「……また?」
「そうやって、最後はこの王朝も滅ぼすつもりかしら? ねえ……」
訝しげに眉を顰める男に、今度は紅林が皮肉げに口を歪めてみせる。
「桂長順」
男――桂長順の目がクワッと見開かれた。
林王朝を滅ぼした最後の大奸臣と言わしめた、宰相・桂長順。彼は宮廷と共に焼け死んだと言われているが、紅林はそれが嘘だと確信している。
「何故……」
桂長順の口はわななき、突っ張った方の目の下がヒクヒクと痙攣していた。
「何故、狐憑き如きが私の名を……」
紅林の目がスッと細められる。
「お黙りなさい、桂長順」
突然、紅林の口調が変わった。
「誰の許しを得て、頭を上げたまま発言しているのですか」
「は……?」
口調だけではない。薄暗い木々の中で佇む姿には、触れがたい凜然とした空気が取り巻いている。
口調も醸し出す雰囲気も、まるで妃嬪の如き変わりように、桂長順は紅林の気が狂ったのではないかと思った。しかし、気が狂ったと言うには、目の前の女はあまりに強くまっすぐな目をしている。
「お前は……いったい……」
「何をしているのでしょう。頭を垂れなさい」
細められていた黒い瞳が柔和な弧を描いた瞬間、桂長順の記憶が刺激された。
「っ媛貴妃――!?」
桂長順の口を突いて出てきたのは、かつて主だった者の寵妃の名。しかし、彼は自分の発言が間違っているとすぐに頭を横に振る。
「いや、そんなはずはない! あの女は確かに死んで……」
であれば誰だ、と桂長順の背筋にヒヤリとしたものが流れ落ちたとき、彼は一人の少女を思い出した。
儀式や行事の時しか母親の宮から出てこず、出てきても常に下を向いて他の太子の影に隠れてばかりいた黒髪黒目の公女。生きていれば、確かこのくらいになっているはず。
「紅玉……公女」
紅林は黙して喋らなかったが、桂長順にはそれが最大の肯定に感じられた。
「はは、は……っそうか……あっはははははは!! そうだ! いたな、そのような公女が」
桂長順はよほど愉快なのか、腹を抱えてゲラゲラ笑っていた。しかし、やはり引きつった口から漏れるのは歪な声。
「いやぁ、あの辛気くさい引きこもりの公女様が生きていたことにも驚きだが……その髪色を見れば……よく媛貴妃は隠し通したものだ」
顔周りをなめ回すように見られ、紅林の笑みも不愉快に引きつる。
「それにしても、よく私が桂長順だと分かりましたな、公女様」
「最初は気付かなかったわ。でも、あなたの人を見下した不愉快な発言や、双蛇壺を持っていたと知れば、桂長順以外にはありえなかったのよ」
倉に封印された双蛇壺を手に取ることができるのは、鍵を持つ太府寺卿か、皇帝、そして宰相だけである。
双蛇壺は焼けていた。それは争乱の中も倉にあったということ。
もし太府寺卿であれば、争乱以前に盗み出せていたはずだし、皇帝は全くもってあり得ない。彼はきっと最後の瞬間まで泣きながら逃げ回っていたことだろう。
であれば、宰相しか残らない。
「その顔の火傷は、双蛇壺を盗んだときのものかしら?」
「ご明察。鍵が見つからず、仕方なく火を放って倉を壊したんですが、その時運悪く、落ちてきた梁がかすめまして」
「残念ね。そのまま焼け死ねば良かったのに」
「はっは! これは手厳しい。お父上とは雲泥の差だ」
桂長順は焼死体が出たことで、死んだとされていた。ということは、その死体も誰かを身代わりにしたのだろう。彼なら躊躇無くやる。
「本当……あの父親の子とは思えぬ賢女ぶりだ。良かったですね、父親に似ず母の媛貴妃に似て」
桂長順は在りし日に思いを馳せるように、空を仰ぎうっとりと目を細めていた。
「彼女も賢い女人だった……幾度となく暗殺されかけたというのに、おくびも出さず常に貴妃然として座ってらした。万民を慈しみ、あの情けない愚帝にさえ愛を与えられていた。時代さえ違えば、彼女はその英明さだけで、間違いなく皇后として国母になれたお方だ」
まるで母を崇敬するような言い草だ。
その母を苦しめることとなった張本人が、なんの面目があって語っているのか。
思わず歩揺を握る手に力が入る。紅林の手から伝わる振動は歩揺の飾りを振るわせ、チリチリともの悲しい音を鳴らした。
「それを……あなたが言うの? っ国を蝕んだ大奸臣が! 国が傾かなければ母は死なずに済んだというのに!」
「だからこそですよ! 完璧なものが崩れゆく様は実に美しい! 自分の手で、言葉で、目線一つで強大なものが壊れていく、性的快楽など些事と思えるほどの忘我の愉悦! 一度味わったらやみつきになるほどの……もう一度、あの阿鼻叫喚の光景が見たいのですよ、私は!」
「残念ながら、父と違ってあの人はあなたの傀儡にはならないわ」
彼なら権力を振り回すことも、振り回されることもない。
そう信じられるだけ、紅林はもう彼の人となりを知ってしまっている。
「そうですかな? 血筋のない王は迷うもので、民は上が凋落するのが好きなもの。あの媛貴妃ですら、悪女として今の世には知られているというのに。簡単でしたよ。一人二人に吹き込めば、後はあっという間でしたから」
「まさか、母が悪女だなんて言われていたのは……」
にたり、と桂長順が口端をつり上げた。
「そうですよ。民は馬鹿だ。真偽不明の噂で賢女を悪女と謗るだなんて。しかし、そういうものですよ、民は。上の失態を一つたりとも許してはくれないんです」
紅林はゆっくりと腕を上げ、歩揺の切っ先を桂長順へと向けた。
「桂長順。あなたはこの王朝にも、この世にも必要ない。亡き王朝の亡霊は消えるべきよ……私と一緒にね」
チリンと歩揺が鳴く。
「ではお先にどうぞ。私はあなたの死後、一連の騒動の罪をあなたに被せなければなりませんので。母親と同じく『悪女』と言われて死ねるのですから、感謝してください――ね!」
「……っ!」
桂長順は懐から出した短刀の鞘を勢いよくはらい、紅林に向かって突進した。
紅林が持つのは一本の歩揺のみ。
それも短刀と比べればとても短く、到底やり合えるものではないと分かっていた。
――それでも……!
逃げ出したくなる足に力を入れ、せめて刺したがえられるようにと、歩揺を掴む手を両手で固めた。
「紅林――っ!!」
しかし、頭上で木の枝が折れる音がしたと思ったら、紅林の身体は不意に後ろへと引っ張られた。




