34 甘えてもいい
……ん、と小さな声を出したのが、自分でも分かった。
自分の声で目が覚めた私は、背中の方からもう一人の寝息を感じていた。
バルトは私と同じ方向に横向きで寝ていて、左腕を私の胸の前に回している。
ちょっときわどいところに触れそうだったバルトの手を掴んで、ずらそうとして――ふと、暗闇の中でバルトの手を見つめる。
私の左手と重ねると一回り大きい、バルトの手。大きいだけでなく分厚くて、皮膚も硬い。
騎士団エリアにいる他の正騎士たちと比べると細いイメージのあるバルトだけど、剣を持って戦う人の手をしていた。
よく見ると、手のひらにはうっすらとした傷痕がいくつかあった。
爪は短く切られていて、手の甲は骨と血管でごつごつしている。
「バルト」
起こさないよう、小声で名前を呼ぶ。
そうして、たくましい手のひらを揉んでいると……なぜか、その指先がとても気になってきた。
五本の指の中で一番長い、中指。
それを口元に持っていって、かぷり、と指先に噛みついた。
「っ……!?」
背後でバルトが小さくうめき、体が揺れた。
あっ、起きた?
「……バルト、ごめんなさい。起こしてしまった……?」
振り返ると、バルトは俯いていた。
空いている方の右手で顔を隠しているし薄暗いから、彼がどんな表情をしているのかは分からない。
寝返りを打って、バルトと向かい合う。
「手加減はしたのだけど……痛かった?」
「い、痛くはない。でも、リンデ。どうしていきなり噛んだんだ……?」
「……なんだか、噛みたくなったの。ごめんなさい」
私としても、深い意味があったわけではない。本当になんとなく、衝動的に噛みつきたくなった。
私、案外野性的だったのかな……?
私の謝罪を聞いたバルトは右手を下ろし、困った顔で見つめてきた。
「謝らなくていい。……でも、驚くからいきなりはやめてくれ」
「う、うん、分かった。じゃあ、これからはあなたの許可があれば噛んでいい?」
「…………場所にもよるけれど、リンデならいいよ」
はあ、とため息をついて言うのがなんだか可愛らしくて、私はバルトの手をぎゅっと握った。
「お、おい」
「……バルト。私に毎日の楽しさと温かさを教えてくれて、ありがとう」
誰かの声でうなされたくない。
誰かの指示で動くだけの便利な人形でありたくない。
バルトと一緒に、暖かい場所を歩いていきたい。
至近距離で見つめあうバルトの目が優しく垂れて、ぎゅっと頭が抱き込まれた。
とく、とく、とバルトの心音が感じられて、とても安心できる。
「……リンデ」
「うん」
「辛いときとか怖いときは、俺に言ってくれ。君の不安を全て根こそぎ消すことはできなくても、すぐに飛んでいくし君が満足するまで側にいる」
「やだ」
「えっ」
「満足するまでなんて、嫌。……ずっと側にいて」
ね? とバルトを見上げると、彼はしばし絶句した後、くすくすと笑い始めた。
「……本当に、俺の奥さんは言葉が上手でいらっしゃるようだ」
「どういたしまして、旦那様」
「でも君は元々、少し甘え下手なところがある。少しずつでいいから、俺に甘えてくれれば嬉しい」
……その言葉はかなり的確だったし、自覚もあった。
父は死に、母は心と体を弱らせている。
私は、誰にも甘えてはならない。私がしっかりしないとけない、そう思っていた。
でも、バルトが私の甘える場所になってくれる。
泣き言も、弱音も、愚痴も、受け入れてくれる。
「……ありがとう、バルト」
「どういたしまして」
「それじゃあたまには甘えて、愚痴を言って、噛んでもいい?」
「……最後の一つは、手加減と事前の予告だけはしてくれよ」
「ええ」
私たちはどちらからともなく笑みをこぼし、ぎゅっと抱きあった。
もう、私は誰かの声に怯えたりはしない。
いよいよ、公爵主催のパーティー当日だ。
今日は仕度もあるため、バルトは前々から出勤予定を調節して午後には帰宅できるようにしていた。当然、私も彼とほぼ同じスケジュールで動く。
「ささ、奥様。旦那様を虜にする素敵な貴婦人になりましょうね!」
「ええ、よろしく」
屋敷に帰ると、目を輝かせたメイドが待っていた。
それまで着ていた仕事用のドレスを脱いで、下着も取り替える。そして、バルトが贈ってくれた薄青色のドレスが持ってこられた。
夏真っ盛りの今の季節にぴったりな爽やかな色合いで、布地も薄手で皮膚の露出も多いので、ボリュームのわりに着ても涼しい。
胸元も大きく開いているけれど、バルトの強い希望により上から一枚ショールを着ることになっているので、あまり立派とは言えない胸がさらけ出されることはないだろう。
髪も低い位置で括り、ビーズ飾りの付いたシュシュで小さめの団子状態にまとめた。
今流行のお尻を膨らませたデザインのドレスは清楚だけど、裾のフリルやちょっとした刺繍のデザインが可愛い。バルトは、私がこういうのが好きだとよく分かっている。
メイドにも絶賛されて居間に下りると、騎士の正装姿のバルトがいた。
彼が前に自分で言ったように、男性は女性ほど衣装のバリエーションが豊かではないので、彼の衣装も前回とほとんど差はない。
でも……彼と両想いになって初めてのパーティーだからか、前回よりずっとバルトが格好よく、素敵に思えた。
バルトは顔を上げると私を見て、大きく頷いた。
「……想像以上だ。とてもきれいだ、リンデ」
「ありがとう。あなたもやっぱり素敵よ、バルト。……胸は、これくらいならいい?」
「ああ、うん、いいよ」
「ごめんなさいね。もう少し大きかったら、見栄えもあっただろうけれど」
「そんなの必要ない」
笑って自分の胸元を叩くと、バルトは呆れたように言って私の肩を抱いた。
「リンデは今のままで十分魅力的だし……もし体型が少々違っていても、俺はリンデだから好きになるに決まっている」
「ふふ、ありがとう」
そうしてバルトが脇を少し開けたので、私はそこに腕を絡ませた。
玄関に向かうバルトの足取りはゆっくりで、やっぱり私と歩調を合わせてくれている。
……ふと、思い立って私は口を開いた。
「歩きにくかったら、もっとさっさと歩いてもいいわよ?」
その言葉で私の意図に気づいたようで、バルトはこちらを見るとにやっと笑った。
「それはお断りだ。君が靴擦れで歩けなくなるかもしれないだろう?」
「もしそうなったら、私を担いでくれる?」
「するわけない。……愛する奥さんを大切に抱えて歩くから、遠慮せずに俺に身を任せてくれよ」
私たちは顔を見合わせ、同時に噴き出した。
少し前にも似たようなやり取りをしたけれど、私たちの間に流れる空気は全然違う。
こうやって、バルトと笑いあって過ごしていきたい。




