19 遠い背中
「……すみませーん。……あれ? ディートリンデ様、どこですかー?」
抱き枕を抱えてごろごろしていたら、隣の部屋から陽気な声が聞こえてきた。
これは……エトヴィン?
「エトヴィン? 私はこっちだけど……」
「あ、そちらでしたか」
教室を探していたらしいエトヴィンが移動して、私の部屋の前まで来たのが足音で分かった。いきなりドアを開けずに待っている彼は、紳士として立派だ。
「お休み中のところ、すみません。訓練中に模擬剣が折れまして、新しい剣を購入できるかどうかについてディートリンデ様に尋ねてほしいと言われました」
「そうなの? ……分かった、帳簿を取りに行くからちょっと待っていて」
さすがにここでふて寝を決め込むわけにはいかず、私は身を起こして鏡で顔を確認した。
……かろうじて、目が腫れたりはしていない。ごろごろしたから頬にシーツの皺が移ってしまったけれど、これくらいなら俯いていれば大丈夫だろう。
猫の抱き枕をそっとベッドに寝かせてから廊下に出ると、エトヴィンがお辞儀をした。彼だけが訓練の途中に使い走りをさせられたようで、他の見習いやバルトの姿はない。
「すみませんが、よろしくお願いします」
「いいえ、気にしないで。……それにしても、模擬剣ってあっさり折れるものなのね。見習いの誰かが力を入れすぎて折ってしまったの?」
「それが、リューガー隊長が本気で俺たちに斬りかかりまして。つまるところ、剣を折ったのは隊長です」
「へ、へぇ……夫にもそういうところがあるのね」
「俺もびっくりです。今日の隊長は少しだけ、ガツガツしている感じでしたね」
……それはもしかして、昨日の夜のことが関係しているのかな。
でも突っ込んだら――ジルヴィア様のこととか余計なことまで掘り出されそうだから、バルトには聞かないでおこう。
そう思い、エトヴィンを執務室の前で待たせてバルトのデスクに置いている帳簿を手に取る。模擬剣なら……うん、十分買えそうだ。
「エトヴィン、模擬剣の購入は大丈夫よ。ただ、半月後になると行きつけのお店がセールをするから、もしそこまで急がないのなら半月待った方がお得だとバルトに言ってきて」
「了解しました。……それにしても、ディートリンデ様。ここに誰か来ましたか?」
「えっ?」
帳簿を手に廊下に出たところで、思わず足を止めてしまう。
エトヴィンは辺りを見回し、すうっと鼻で息を吸った。
「この辺、香水の匂いがするのですが」
「……私も、毎日香水を付けているけれど?」
「いえ、この匂いはディートリンデ様のものとはちょっと違いますね。ディートリンデ様の香水は清涼感のある柑橘系ですが、この辺のはもっと濃くて甘ったるい匂いがします」
……エトヴィン、鼻がいいな。
「……実は、ちょっと前にお客様が来ていたの。あ、といってもバルタザールじゃなくて私に用事だったそうだから、報告しなくていいわ」
「……ディートリンデ様に、用事? しかもこの香水からして、女性ですよね。それ、怪しくないですか?」
至極真っ当な突っ込みに、私は苦笑するしかない。
「そうね。どうやら夫のことが好きなご令嬢らしくて、私がどんな妻かを見に来たそうなの。今は多分、訓練場に行っているわ」
「……ああ、そういえばさっき遠目に、ピンク色のドレスの令嬢を見かけました。どう考えても騎士団エリアに似合わない装いだと思っていましたが……隊長目当てですか」
エトヴィンはある程度のことを察したようで、「心中お察しします」と痛ましげに言ってきたので、私は笑顔で首を横に振った。
そして帳簿を胸に抱え、エトヴィンと一緒に歩きながら言う。
「まだまだ子どもだという感じがしたし、私は大丈夫よ。……でも、夫は本当に、男女問わず人気があるのね」
「まあ、そうですね。俺たちも隊長の人柄に惹かれて指導を願いましたし……騎士団以外でも、隊長はよく人に囲まれています。隊長はフットワークが軽いし頼られたら断れない質なので、わりと来る者拒まず――拒めず状態で。令嬢に色気で迫られているところも見たこともあります」
「あらあら」
「あ、でも、ディートリンデ様が不安に思われることは何もないですよ! 隊長は人気がありますが、とても誠実な方ですからね! 女遊びをしたという話も一切聞きません!」
「……そう」
「ただし……妙な噂を立てる者もいます。よくあったのが、『実はバルタザール様と私は恋仲だ』という噂ですね」
……なるほど。妙な噂、というからてっきり貴族から陰口を叩かれたり妬まれたり……というのだと思ったら、違った。
バルトを落とそうとしている令嬢が外堀から埋めようとした、ということか。恋に積極的な令嬢、すごいというか、怖いというか……。
「でも、そんな噂を立ててもね……」
「そうなんですよ。……実は、隊長が結婚なさると聞いたとき、俺たちはあなたのことをかなり心配していました」
エトヴィンが足を止めたので、私も立ち止まる。
「……それは、最初の頃に見習いたちが言っていた、『本当に結婚しているとは思わなかった』云々のこと?」
「あ、いえ、そっちじゃなくて……もし隊長が結婚したら、奥様を妬む令嬢が絶対に現れるだろう、って」
エトヴィンは静かに言い、少し視線を逸らした。
「でも、隊長が奥様――ディートリンデ様を騎士団の世話係にするとおっしゃったのを聞き、皆は単純に驚いていましたが、俺はなるほど、と思ったのです。普通の令嬢なら、騎士団エリアに乗り込んだりしない。男所帯でむさ苦しいけれど、令嬢たちからの突撃を守るのには適した砦なのです」
「……そう。普通の令嬢なら、突撃しないわよね」
「そうなのです」
やれやれとエトヴィンは肩を落とし、そして私を見て微笑んだ。
「今回は俺にとっても予想外でした。でも、これからは俺たちがディートリンデ様をお守りしますよ」
「えっ……それは、申し訳ないわ。あなたたちは見習いで、勉強することや習うこともたくさんあるでしょう」
「もちろん、勉学の手を抜くつもりはありません。でも、もしあなたが困ったとしても俺たちが駆けつければ、壁にはなれます。俺たちだって、隊長が熱心に口説き落としたというあなたを傷つけられたくありませんから」
「ね、熱心に口説き落とした……」
「違うのですか?」
エトヴィンが、不思議そうに聞いてきた。
そんなロマンチックな話ではなくて、金貨百枚と引き替えに無難な妻と結婚回避の方法を手に入れただけだけど……でも、そう思ってくれた方が私たちにとっては都合がいい。
「……分かったわ。守ってくれるのは嬉しい。でも、それこそあなたたちまで巻き込むことはできないから、ほどほどで大丈夫よ」
「了解です。ではこれから、ほどほどに俺たちのことを頼ってくださいね」
エトヴィンはそう言って力こぶを作ってみせたので、つい私は噴き出してしまった。
エトヴィンを見送り、ついでに私は渡り廊下に出てみた。
ここからは、騎士団エリアの庭や訓練場を見渡すことができる。昨日しっかり雨が降ったからか、地上三階から見る風景は普段よりも空気が澄んで、はっきりしているようだ。
眼下の煉瓦道を、エトヴィンが小走りに歩いている。その先の訓練場をちらっと見たところ、ピンクドレスの姿はない。ここからは見えない位置にいるのか、はたまたもう帰ってしまったのか。
そして訓練場には。
お揃いの練習着姿の見習いたちと違い、騎士団服とマントを着用するバルトの姿は、ここからでもかろうじて認識できた。そこにエトヴィンが近づいていって、模擬剣購入についての報告を受けているみたいだ。
本当は。
正直な私の心は、七年ぶりにバルトに会えて嬉しいと訴えている。
でも、それを口にすることはできない。
してはならない。
エトヴィンと並ぶバルトの背中が、とても遠く感じられた。




