16 うまくいかないこともある
夕方になる頃には雨も止み、雲間から日光が差し込む中私の迎えの馬車がやってきた。
「それじゃあ、私は先に帰るわね」
帰り仕度を整えた私が執務室に挨拶に行くと、算術の計算式が書かれた大量の石版を前にしていたバルトが頷いた。
「ああ、気をつけて帰ってくれ」
「……あの、バルト。今日は遅くなりそう?」
思い切って尋ねると、それまで私につむじを向けていたバルトは顔を上げ、不思議そうに片眉を上げた。
「特に遅くなる予定はない。夕食は、屋敷で食べる予定だ」
「……そっか。分かったわ。それじゃあ、無理はせずになるべく早く帰ってきてね」
「……あ、ああ」
バルトはよく分からない様子ながら頷くと、また石版に視線を戻した。
執務室を出て、これから剣の手入れをするのだという見習いたちにも挨拶をして廊下を歩きながら……自然と、早足になっていた。
今日、屋敷に帰ったらやりたいことがある。
そうして逸る気持ちで馬車に乗り、王都の隅にある屋敷に戻る。
出迎えてくれたヘルベルトに、今日の夕食のメイン料理について尋ねてみた。
「今日は、鹿肉のソテーだと伺っておりますが……?」
「お肉なのね!」
思わず声が弾んでしまい、ヘルベルトに怪訝そうな顔をされた。
だから彼に荷物を預けてから、こそっと相談してみることにした。
「実は今日、バルトの好物がお肉だってことを聞いて。……今日は私も早く帰れたし、もし邪魔にならないなら、私も料理の手伝いをしたいと思って」
……今日の昼過ぎ。
バルトに「君は気が利くな」と褒められて……すごく、嬉しかった。
彼と私の間には大きな亀裂があって、それが簡単に埋められるとは私も思っていない。
でも、やっぱり私は……ちょっとでもいいから、頑張りを見て、認めてもらいたい。
料理なら、得意な方だ。
だから、少しでもいいからバルトに喜んでもらえることをしてみたかった。
「……でも、いきなりだと迷惑よね。それに、バルトよりも年上なのにこんな承認欲求駄々漏れで……」
「何をおっしゃいますか。……私としても、奥様が旦那様のために行動なさるのは非常に嬉しく思っております」
ヘルベルトは私の戸惑いの言葉も優しく受け入れると、微笑んだ。
「厨房の皆も歓迎するでしょうし……奥様が料理を手伝われたと聞けばきっと、旦那様は喜ばれるでしょう」
「……本当?」
「ええ。旦那様がハイハイ歩きをしていて勝手にクローゼットに頭をぶつけ、勝手に泣き始めた頃のことから知っている私が自信を持って申します」
……今、バルトのとんでもなく恥ずかしい過去を暴露された気がする。
ヘルベルトは、「それにですね」と優しい口調で言う。
「誰かに褒められたい、と思って行動するのは悪いことではありませんよ。人間誰しも『対価』を求めて行動するものです。『対価』を必要とせずに善行に及ぶ者なんておりません」
「でも、聖典とかには無償の愛って言葉が書かれているじゃない?」
「聖典における無償の愛というのも結局は、誰かのためになりたいとか、誰かの笑顔が見たいとか、そういう欲求が根底にあるのではないですか?」
「な、なるほど」
ヘルベルトは微笑み、城のある方を手で示した。
「奥様の場合、旦那様の力になる、旦那様から認めてもらう、というのが『対価』です。労働の結果、相応の『対価』をもらうというのは当然のこと。だから何も、恥ずべきことではないのです。むしろ『対価』を求める奥様はとても人間らしいのだと、私は解釈します」
なんだか思想家が述べそうな難しい内容を、ヘルベルトは分かりやすく教えてくれた。
彼の話を聞いていると、料理の手伝いをする、という動作一つで悩んでいた心が晴れていったようだ。
「……そうね。ありがとう、ヘルベルト。なんだか前向きになれそうだわ」
「それはようございました。……本日の旦那様は、夕食までに帰宅される予定になっていましたが……」
「ええ、さっきもそう言っていたわ。……私やっぱり、ちょっとでもいいから料理を手伝って、バルトをびっくりさせてみたい」
「なるほど、それが今の奥様の最も大きな『対価』ですね」
ヘルベルトはくすっと笑うと、お辞儀をした。
「では、厨房の使用人たちにそのように伝えて参ります」
「ええ、ありがとう!」
ヘルベルトに励まされた私は厨房に行って、夕食の準備をしていた使用人たちに歓迎された。
「奥様が作ってくださるのなら、旦那様もきっと喜びますよ!」
「ありがとう。皆の邪魔にならないようにするわね」
「邪魔だなんてとんでもない!」
「ささ、エプロンをお召しになって、こちらへ!」
ここまで歓迎されるとは思っていなかったのでちょっと及び腰になったけれど、皆はすぐに私を受け入れると、「それじゃあ、包丁で肉を叩いてくださいな!」と早速指示を出してくれた。
幸運なことに、叔父の厄介になるようになってからの私は事務仕事だけでなく、特に財政が苦しくなってからは掃除や洗濯料理など、いろいろなものを手伝わされた。
叔父は「将来のため」と言い訳していたけれど、使用人をたくさん雇うのが難しくなったから私を使おうとしたのだろう、ということは明らかだった。
ちなみにエルナにそういうことは当然させず、エルナもエプロン姿の私を見て「あら、新しいメイドかと思ったわ!」と笑ってきた。
私は使用人の真似をさせられているのにエルナは新しいドレスを買ってもらったのにはさすがに腹が立って、エルナのカップを洗わずに放置したり汚れたモップでエルナの部屋の掃除をしたりしたっけ。
おかげさまで、料理の一通りの手順は身に付いている。包丁を危なげなく持って肉を叩いたり野菜の皮を剥いたりして、皆を驚かせた。
鹿肉にソースを絡めて、フライパンで焼く。
使用人がこっそりと、「旦那様はしっかり焼いた方がお好きですよ」と教えてくれたので、私の分は普通の焼き加減で、バルトの分はもうちょっと焼いて焦げ目を付けておいた。
そうして、全ての料理が完成した。
テーブルの上の料理を確認した私が振り返ると、厨房の皆は「よし!」と満足そうに頷いてくれた。
「きっと旦那様、とても喜ばれますよ!」
「ええ。……皆、ありがとう」
エプロンを外してドレスも着替えたところで、ヘルベルトが「旦那様がお戻りです」と教えてくれた。
「それじゃあ、奥様。これらは私たちが運びますので、旦那様のお出迎えをなさってください」
「ええ、よろしくね」
おいしそうな湯気を立てる料理を皆に任せ、私は意気揚々と厨房を出た。
……どうしよう、どういうふうに演出しようかな。
料理を見せてから、「実は私も一品手伝ったの」と教えようか?
今日の昼に肉の話をしたばかりだから、そこまで言えばきっとバルトも鹿肉のソテーのことだと察しが付くはず。
どんな顔をするかな。驚くかな。
……そう思いながら玄関に向かうと、そこにはバルトとヘルベルトの姿があった。でもバルトは上着を脱いだそばから、別のきれいなジャケットをヘルベルトから受け取って着ていた。
「バルト……?」
「ああ、リンデ。帰ってきて早々すまないが、行ってくる」
急いで仕度をするバルトの言葉が、とん、と私の胸に沈んでくる。
仕度を手伝うヘルベルトが、沈痛な顔でちらっと私を見てきた。
「……行くって、どこに? これから夕食よ?」
「城を出る段階になって上官から連絡が入った。上官は今日、騎士団の関係で会食に行く予定で、そこに俺の同期を一人連れて行く予定だった。だが、夕方になってそいつが体調を崩したらしくて……」
……話のだいたいの流れが分かって、胃の中が重くなっていく。
「会食を開催するのは子爵だが、騎士団でもいろいろと融通を利かせてもらっていて無下にはできない相手だ。騎士団関係者が多く集まる会食の場で、欠席者を出すわけにもいかない。そうして相手方に相談したところ、俺の名前が挙がったそうだ」
「……」
なんで、どうして、と声が漏れそうになった。
今日の夕食、私も手伝ったの。
あなたが好きなお肉を、あなたの好きな焼き加減に調節して準備したの。
そうすることで、あなたから「対価」が、もらいたかったの。
行かないで、断って。一緒にご飯を食べて。
……私の心が訴えて、喉の奥がカリカリしてくる。
でも、私が言葉に詰まったのは数秒のことで――私はすぐに、いつも通りの笑顔を取り繕うことができた。
「……そう、分かったわ。これもあなたの人徳のたまものよね。でも、深夜までには帰ってこられるわよね?」
「ああ、泊まりは絶対にない。だが、上司は俺以上の酒好きでその後も連れ回されるかもしれないから、リンデは先に寝ていてくれ」
……そう。
おかえりなさい、おやすみ、を言うことさえ、できないのね。
でも、バルトを責めるわけにはいかない。
バルトだって急に命じられて仕方なく承ったのだろうし、私も事前に夕食のことをバルトに教えて約束をしたわけでもない。料理の手伝いも、私が勝手にやっただけのこと。
私には、会食に臨む夫をきちんと送り出す義務がある。
「分かったわ。それじゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
バルトは帽子を被ってすぐに出ていったから、彼がどんな顔をしているのか私には分からなかった。
でも、いつも通りのきりっとした顔で言っていてほしい。
私の作戦なんて、知らないままでいてくれればいい。
「奥様……」
「いいのよ、ヘルベルト。……ちょっと、失敗しちゃったわね」
私の背を押してくれたヘルベルトに申し訳なくて、私は笑顔を崩すことなく言って玄関に背を向けた。
「バルトの夕食は、必要なくなったわね」
「……はい。旦那様の分の夕食は皆で分けるように、とおっしゃっていました」
「……そう」
……うん、大丈夫。
私が手伝った鹿肉のソテーは捨てられるのではなくて、バルト以外の人にちゃんと食べてもらえる。食材が無駄になることはない。
「……このこと、バルトには言わないでね」
「……かしこまりました」
ヘルベルトの声は、残酷なほど優しかった。




