閑話1 ゲシュタポ崩壊
いつものバーで恵美さんと待ち合わせていた。
待ち合わせ時間はもう過ぎているが、気にせずロンググラスを傾ける。ラフロイグのハイボール。スモーキーな香りが鼻を抜けて心地がよい。こんなものを飲んでいると女らしくないと言われるが、この店はマスターも客も女ばかりだ。男の目を気にする必要がないのがありがたい。
ひょっとして、デリヘルの待機所もこんな雰囲気なのかもしれない、とふと想像を巡らせた。
「ごめーん、お待たせー」
十五分遅れてやってきた恵美さんの顔には、ごめんという言葉とは裏腹に悪びれた様子はまったくない。遅刻も毎度のことだ。毎回きっかり十五分遅れるのだから、約束通りに来るのも難しくないと思うのだが。
「あー、急いだら喉乾いちゃった。なんだっけ、あれ。ハイボールのハイボールじゃないやつみたいな」
「マスター、ジンフィズお願いします。砂糖抜きで」
シェイカーにジン、搾りたてのレモン、氷が入り、かしゃかしゃと振られる。八分目まで氷が詰まったロンググラスに中身が注がれ、ウィルキンソンを加えて軽くステア。フェイクレザーのコースターの上に透明な泡立ちが躍る。
「そうそう、これこれ」
恵美さんは一気に飲み干して、物欲しそうに私のグラスを見る。私はラフロイグのハイボールを追加で注文した。
「それで、今日は何だっけ?」
「原稿。十話まで出来たから読んでほしいなって」
「そうそう、そうだった」
私はバッグからプリントアウトした原稿を取り出す。
十話分と言っても一話一話が短いから大した量じゃない。ひとまず、雰囲気を伝えたかったのだ。
恵美さんは黙って原稿に目を落とす。
長い睫毛がぱしぱし瞬いて、時々ハイボールに手を伸ばす。短い話ばかりで大した量ではないはずなのだが、たっぷり三十分はかけて最後のページに辿り着き、ふうとため息をついた。
私は少々不安になりながら尋ねる。
「どうだった?」
「うーん、濃い目がいいかも」
「そうじゃなくて」
言いつつ、ハイボールの濃い目を追加する。二杯。私の分もだ。
「私の話が小説になってるなんて、不思議な感じ」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃないけど、なんか恥ずかしいね」
濃い目のハイボールを啜って、はにかむ。
「面白かった? いや、恵美さんから聞いた話なのに、変な聞き方だけど」
「うん、面白かった。なんだか私の知らない私がいる感じ」
「違和感がある?」
「うーん、そういうんじゃない。むず痒い感じ?」
とりあえず、感触は悪くなさそうだ。
しかし、気になっているところもある。
「前書きのところ、わかりづらくないかな?」
「どのへん?」
「私も恵美さんも『私』のところ」
「あー……」
恵美さんは腕組みをして少し考える。
やはり、私と恵美さんとで一人称は変えた方がよいだろうか。
「わかりづらいっていえばわかりづらいけど、そのままがいいんじゃないかな」
意外な返答だった。
「どうして?」
「何ていうか、私は私だし、あなただって私でしょう? それを変えちゃうのはやっぱり違うと思うんだよね。私は私なのに、私じゃなくなったら私が私じゃなくなっちゃう感じ? あー、私、私私言い過ぎてわけわかんなくなっちゃった。こういうの何ていうんだっけ? ゲシュタポ崩壊?」
「ゲシュタルト崩壊」
「そうそう、ゲシュタルト」
恵美さんは半分ほど残っていたハイボールを一気に飲み干した。
私も付き合って、濃い目をまた2杯お代わりする。
マスターから「飲みすぎじゃありませんか」と小声で心配されてしまった。
ひとまず、このまま続きを書いて問題ないだろう。
またある程度書き溜めたら見せることを約束して、残りの時間はラフロイグが醸し出すピートの香りに意識を集中することにした。
令和6年12月8日




