姿なき中宮様より、斎宮女御様の方が得体が知れない……
命婦は鷹子について御簾の内に入った。
薄暗い中、立派な几帳や衝立などが見える。
奥の方には他の調度品もあるようだが。
ともかく外とは遮断したいという雰囲気で、通常より多く几帳など、身を隠すものが置かれていた。
そのせいか、中宮の居室の室礼としては、殺風景な感じもした。
そもそも人の気配がない。
中宮なのだ。
女御よりたくさんの女房たちが仕えているはずなのに。
まあ、姿なき中宮どころか、その女房たちさえ、まともに見たことはないのだが。
気のせいかもしれないが、御簾の外と比べて、空気も冷え冷えとしている感じがする。
恐ろしいな、と命婦は思った。
鷹子が怪しいものと会話をしていることは今までにもあったが。
今はまったく置かれている状況が違う。
此処は言わば、敵の腹の中。
薄暗いし。
なんか怖いっ、と怯えていたが、命婦はそれを見せないようにした。
私が毅然としていなければ、斎宮女御様を守れないっ、と思っていたからだ。
そのとき、ほほほほほほ……と室内に広がり渦巻くような女の笑い声が聞こえてきた。
「なかなか勘の鋭い女房のようじゃな。
だが、このままでは妾の姿は見えぬようだ。
主人を守るため、怯えを見せぬよう、気丈に振る舞うその忠誠心、素晴らしいの。
妾が見えるようにしてやろう」
そんなよく通る声とともに、入るときに嗅いだ香りがまた吹きつけてくる。
急に周囲が明るくなった。
小柄な女房が灯台に火をつけたようだった。
いや、普通の灯台ではない。
青白い光が揺らめいている。
それを見た鷹子が、
「……ガス。
じゃないですよね~」
と言って苦笑いしていた。
「お前は相変わらずわからぬことを言うな」
そんな声とともに、几帳の前に美しい女が現れた。
のっぺりとした顔に細い目だが、配置が恐ろしく整っている。
……これが姿なき中宮様。
くっ。
美しいっ。
でも、うちの女御様の方がもっと美しいですっ、と命婦は恐ろしいのも忘れ、妙な敵対心を発揮する。
中宮寿子の側に、今、火をつけていた女房が近づいた。
中宮のように細身で細目の、年配の女だ。
口許に怪しい笑みを浮かべている。
狐狸妖怪の類いに違いないっ、と鋭い命婦の勘が告げていた。
鷹子が振り向き、自分に言ってくる。
「渡して、命婦」
この怪しい女房にクリームソーダを渡せと言っているようだ。
この得体の知れないものに、頑張って作ったクリームソーダをですか?
心細く鷹子を見上げたが、鷹子は、こくりと頷く。
渋々渡すと、怪しい女房は中宮にそれを渡した。
先程、花朧殿の女御に渡したものより量が少なく、色も違った。
「これは……っ。
なんと美しい色っ。
子どもの頃見た、湖の色のようじゃな」
「パタフライピー、チョウマメで色をつけてみました」
見たこともない澄んだ青色の飲み物だ。
僅かに入れた氷が炭酸の泡をまといつかせ、ふわふわとその中で浮いている。
上にはちゃんとミルクアイスと支那実桜 の実ものっていた。
「いや~、苦労しました」
と鷹子は言う。
「バタフライピーに含まれるアントシアニンにより、色が変わるんですが。
酸性だと赤。
中性だと紫。
アルカリ性だと青色になるんですよね」
鷹子の解説に、また得体の知れないことを言い出した、と命婦は思う。
「まず、この美しい青色をお見せしたかったんですけど。
よく考えたら、炭酸泉って弱酸性なんですよね」
いきなり、紫になっちゃって、と鷹子は笑った。
「水で色を出したら、綺麗な青色だったんですよ。
でも、炭酸泉で赤みがかってきて、紫になってしまって。
だけど、ほら。
やっぱり、ぽこぽこした泡があった方が綺麗じゃないですか。
そこで、またアルカリ寄りの水を足しまして。
いろいろ調節して、青くしたんですけど。
おかげで、ちょっと寝ぼけた感じのソーダになってます」
「……なんだかわからないが、あまり飲みたくない感じだな」
ですよね~と鷹子は中宮に向かって笑う。
「なので、量は半分にしておきました。
で、これを足します」
中宮の手にある『バタフライピーちょっとだけソーダ』に鷹子が隠し持っていた瓶詰めの炭酸泉を入れる。
ミルクアイスを避けるようにして一気に注ぐと、シュワッと泡が弾け、ふわっと底の方から紫色に変わっていった。
おお、と中宮たちが歓声を上げる。
「これは飲みたくなってきたぞ」
どうぞ、と鷹子は笑顔で言った。
「その炭酸泉、中宮様のお父上、左大臣様がわざわざ運んで来てくださった毒水なんですよ」
「……また飲みたくなくなってきたな」
いや、妾に毒は効かぬのだが、と呟く。
何故、効かないのかはちょっと追求したくない感じだった。
「バタフライピー、疲れがとれたり、若返ったり、色が白くなったり、やせたりする効果があるらしいですよ」
「どれも妾には意味がないわ」
と言いながらも、中宮は鷹子が渡した麦ストローで飲んでみていた。
「ほうっ。
甘いなっ」
もう一度飲み、
「甘いなっ」
と繰り返す。
鷹子は、はは……と笑った。
「……確かに、味はあんまりないですよね~。
もう少し赤っぽくなってもいいのなら、柚子とかで味と匂いを足すという手もありますが。
まあ、そのうち、ミルクアイスが溶けてきて、ミルクアイスの味がしますよ」
言うだけ言うと、鷹子は中宮に、では、これで、と言った。
「なに?
もう行くのか」
「はい。
今回はいろいろとお世話になりまして、ありがとうございました。
……帝への呪いは今は東宮様が抑えてくださっていますが。
近いうちになんとか致します。
では、先を急ぎますので」
さっさと退出しようとする鷹子に命婦が慌ててついていく。
中宮が後ろから言ってきた。
「斎宮女御よ。
ほんとうに良いのか、妾をこのままにして」
鷹子は振り向き、笑って言う。
「言ったではないですか。
中宮様がいらしてくださる方が私には都合が良いのですよ」
では、また、と鷹子は急ぎ御簾の外に出た。
明るい……。
まだ昼だったか。
あの御簾の中、御簾が下りているからというだけではなく、薄暗かった、と命婦は今更ながらに、ゾッとする。
息を詰めて待っていたらしい女房たちが、わっ、と鷹子の許に寄ってきた。
いつの間にか来ていた無表情な晴明も彼女らの後ろに居る。
「大丈夫でございましたか?」
「女御様たちが入られてからも、まったく人の気配も声もしなかったもので、心配で」
そう女房たちは怯えたように言ってきた。
えっ? あんなに騒がしかったのに? と命婦は振り返る。
今も御簾の向こうは、しんとして見えた。
晴明は黙って鷹子を見ていて、なにも言わなかった。
「よしっ。
あと一息っ。
炭酸が抜ける前に、清涼殿に行きましょうっ」
なにも動じていない鷹子は、そう言って女房たちを急かしていた。




