79話・風の伝言と苦難の道
「直行さま。どうか生き延びてください。道のりは厳しいかもしれませんが、どうか、どうか……」
風の精霊が伝えてきたレモリーの声。
俺は法王領の方に走り去る馬車をぼんやりと眺めた。
空ではもう、逃げ出す合図となった虹が消えかけている。
「……直行さま。短い間でしたが、楽しかった。はい、か、いいえ……返事ばかりの……世界で生きてきた私にとって……あなたの……発想や行動……とても……心が躍り……ました」
風の精霊が、俺の耳元でレモリーのノイズまみれのメッセージを再生し続けた。
しかしそれも馬車との距離が離れていくにつれ、声は遠く、ノイズは激しく、聞き取りにくくなっていく。
俺は精霊術を使えないので、どうすることもできない。
「……生涯……悔いていきます」
……。
レモリーの声がいつになく取り乱した様子なのが、ノイズ越しにも分かった。
泣いているのかもしれない。
ロンレア伯爵にバレてないといいが……。
……。
法王領侵入の作戦は失敗した。
良かれと思ったことが裏目に出て、俺は重傷を負った。
健の斬られた両足では歩くこともできない。
這って旧王都に戻るしかない。
夜の暗闇がそこまで迫ってきている。
危険なのは魔物だけじゃない。
血の臭いを嗅ぎつけた獣に食い殺されるかもしれない。
だが他に選択肢はない。
気の遠くなるような道のりを、体を引きずり這って行くことしか。
まだ大して動いたわけではないのに、ひじやひざはもうすり切れている。
◇ ◆ ◇
すれ違う行商人たちは、俺をまるでゴミクズのような目で見ていた。
法王領に異世界人は入れない。
そこへ行くための街道だから、親切な同郷人=異世界人と出くわすこともない。
いきなり殴られたり、身ぐるみをはがされないだけ、まだ運が良かったと言える。
口元を真一文字に斬られた傷が痛む。
これでもレモリーが施してくれた水の精霊魔法で、応急処置を受けている。
止血と傷口のコーティングが施されているので、化膿したりする心配はまだない。
しかしそれも効果が薄れつつあり、生ぬるい夜の外気が直接感じられるようになっていた。
すでに両足の感覚はないので、四つん這いのような恰好でひたすら街道を進む。
これほどの難儀は、もちろん生まれて初めてだ。
俺が現代日本で生きてきた32年は、それはもう冴えない人生だった。
ほどほど、なあなあ、てきとう……。
お茶を濁し続けてきた人生と言っていい。
でも、それって幸せだったのかもしれない。
ここまで大きな怪我をしたこともなかったし。
幸い、大病の経験もない。
たとえ事故に遭ったとしても、夜の道路を這いつくばって病院へ行くなんてことはなかっただろう。
これがもとの世界だったら、救急車ってものがあるし。
ああ……スマホで呼べば救急車が来てくれるなんて、なんて素晴らしい世界だろうか。
そういえば生命保険には入っていたけど、持病があるわけでもない32歳ではまだ『死』なんて意識したことはなかった。
丈夫な体に生んでくれた両親には感謝しかない。
そんなことを考えて意識を保ちながら、街道を這って行く。
失血のせいか、目がよく見えない。
力も出ない。
それでも何とか動けている。
どれくらい時間がたったのか、分からなくなってきた。
この体では、旧王都までどれほどかかることやら……。
……。
でも、動きを止めたら死ぬ。
間違いなくのたれ死ぬ。
何度か気持ちが悪くなって吐いた。
手足の感覚はほとんどなくなっている。
こんな状態でも動けている自分が、信じられない。
闇夜。
街灯もない暗闇の中。
とおくから獣の遠吠えのようなものが聞こえる。
魔物でも獣でも身がすくむ……。
今の状況では、ゴブリン1体、野犬1匹に遭遇しただけでアウトだ。
それでも進むしかない。
◇ ◆ ◇
暗闇の中で、俺はぼんやりと光る幻を見た。
ぼうっと浮かび上がる中で、女が泣いているようだ。
女は、顔を抑えて震えている。
俺は声がかけられない。
自分が起きているのか、眠っているのかさえ分からない。
これは夢かもしれない。
女が顔を上げて、こっちを見た。
顔は、継ぎ接ぎのような傷だらけだった。
意識がもうろうとする中で、何が現実だか分からなくなっていた。
どれくらい這っているのか分からないけれど、あらゆる感覚が失われている。
意識が混濁している。
俺の周りで不思議な幻覚が乱れ飛んでいるようだけど、気にならなくなっていた。
……。
無心で這った。
俺はまだ這っていた。
意識が飛んだので、眠っていたのかもしれない。
夜霧だか朝露だかに濡れた街道が冷たい。
朝が来ようとしていた。
周囲はまだ薄暗いけれども、視線を遠くに伸ばすと地平線の彼方がほんのり明るい。
街道の向こうに、大きな門が見えた。
旧王都だ。
文字通り一昼夜を這いずり回って、ようやくたどり着いた。
もちろん門は固く閉ざされている。
だがそんなことは問題ではない。
着いたのだ。
命を持ったまま、帰ることができた。
涙が頬を伝っていた。




