78話・虹と風の逃走劇
「直行さま!」
レモリーの絶叫が聞こえた。
……。
しかし俺は返事もできない。
伯爵の片刃直刀が俺の口元を横に薙ぎ払っていたのだ。
唾液の混ざった鮮血が飛び、経験したことのない違和感が口内をめぐる。
舌先の先端部分がザックリと真横に斬られたかもしれない。
口の中は血だらけで、正確な状態は把握できなかった。
歯はなんとか無事だったようだが、脈打つようにあふれ出る血に、めまいがしてくる。
「あれに叩かれた足首が少し痛みますわ」
「可哀そうに。大丈夫かい?」
俺から目を背け、伯爵夫人はくるぶしをさすりながら甘えた声を出した。
「法王庁に着いたら神官様に治療してもらわなければな」
「痛いんですの。お願いしますわ、あなた」
もちろんその治療とやらに、俺は含まれないのだろう。
俺は彼らに対して、怒りはもちろん感じていた。
しかし、それ以上に理不尽さとか話の通じなさとか、俺たちを隔てる思考回路的なものの壁の高さに驚いていた。
もっとも、今の俺にそんなことを考える余裕はなかった。
斬られたショックで頭が真っ白になっている。
傷口が熱い。
鉄のような血の味と気持ち悪さが口内に充満している。
「ハァ……ハァ……ハァ……ゴホッ、ゴホッ」
悲鳴も出せずに荒い呼吸を繰り返す俺を、伯爵はうるさい虫けらを見るように一瞥した。
「ふん、まぁこれで1週間は喋れないだろう」
「エルマのためですもの。聖龍さまもお許しになられますわ」
「場合によっては残った舌をひねりつぶさなければならないが」
「それで、あの娘が救われるなら是非もないことです」
「……」
このまま法王庁に行ったら、まず間違いなく殺される。
だが逃げられない。
一方レモリーは、無言で立ち尽くしていた。
視線はずっと俺に向けられたままだが、悔しそうな表情でこぶしを握り締めている。
彼女にはロンレア家従者としての立場がある。
「レモリー、これを牢につなぎなさい。早くしなさい!」
「日が暮れる前に法王庁に入るんだ。急げ」
「……はい。承知しました」
レモリーは機械的に返事をして、俺の体を優しく抱え上げた。
その際に風と水の精霊術を施し、止血と呼吸の補助をしてくれるのを忘れなかった。
「……直行さま。このような事態になってしまい、申し訳なく思っております」
俺の耳元で、レモリーは囁いた。
泣きそうな顔をけんめいにこらえている。
「私が協力をお願いしたばかりに申し訳ありません。私などは命を助けて頂いたのに、まさに恩を仇で返すようなことになってしまい……一生、後悔してもしきれません」
「……」
俺は首を横に振るので精いっぱいだ。
確かに「直行さまのお知恵をお借りできれば」とは言われたが……。
乗ったのはあくまで俺の判断だ。
俺が異世界を甘く見ていた。
それだけだ。
もたもたしていると、ロンレア伯にまた斬りかかられかねない。
俺はレモリーを肘で小突いて、荷馬車に乗せるように促した。
「……」
レモリーは何も言わずに俺を荷台に乗せた。
俺は四つん這いになって闘犬の檻に入り、レモリーが施錠する。
……!
ちょうどそのタイミングだった。
レモリーは俺のポケットに檻の鍵を忍ばせた。
「旦那様。奥様。直行さまの檻を施錠しました。ご確認ください」
「これに『さま』はいらない。ただの異界人だ」
「良くって、レモリー。荷台が血で汚れるのは嫌ですから、水の精霊術でコーティングしておきなさい」
伯爵はいい加減な対応で、適当に檻をゆすると、面倒くさそうに荷台から離れた。
レモリーはそれを確認した後、いくつかの精霊術を発動し、布をかける。
視界が再び閉ざされた。
レモリーが水の精霊術で止血をしてくれたものの、両足と口内の痛みで気が遠くなる。
……。
馬車が大きく揺れている。
動き出したようだが、音がしない。
布の隙間から覗いてみると、景色が流れている。
伯爵夫妻は深刻な顔で話し合っているようだが、声はまったく聞こえてこない。
その時。
俺の耳元に、蛍のような光の玉が飛んできた。
風の精霊だ。
それを耳元まで持って行くと、御者台にいるレモリーの囁き声が聞こえてきた。
「現在、風の精霊術で『周囲の音をコントロール』しています。伯爵夫妻にこの話は聞こえません」
「……」
風の精霊を介して話をするので、会話には数秒のタイムラグがある。
俺は話すこともできないので、風の精霊に優しく触れた。
意思が伝わっているかどうかは、分からないけれど。
「直行さまは逃げてください。今の状態では、治療もままならないまま、法王庁で拘束される可能性が高いでしょう。ロンレア伯ご夫妻がエルマお嬢様の逮捕で、こうも取り乱していたとは……私の想定外でした」
俺は布の隙間から御者台のレモリーを覗いてみる。
彼女は前を向いて、独り言のように口を動かしていた。
少し間があって、風の精霊が再び飛んでくる。
「……合図をしたら、私が虹を出して伯爵夫妻の注意を引きます。直行さまの周囲の音は消しておきますので、虹が出たその隙にお逃げください」
俺は隙を見て、鍵を外しておいた。
布の合間から伯爵夫妻を見るが、気づかれた様子はない。
ゆっくりと鉄格子を開けると、檻の開閉口は音もなく開いた。
もう一度、伯爵夫妻の様子をうかがう。
このまま荷馬車から転げ落ちれば逃げることは可能かもしれない。
しかし、馬車はけっこうな速度で走っている。
どうするか、俺は地面を覗き込みながら迷った。
「ご主人様、奥様! こちらの空をご覧ください!」
音のないはずの空間に、レモリーの声が響き渡った。
それに伴い、馬車の速度がゆるくなる。
俺は馬車の進行方向に体を向けて、目隠しの布をそっと開けてみた。
近くの空に、虹がかかっていた。
雨が降ったわけでもないのに、鮮やかなアーチがくっきりと見える。
「おお、法王領の方角に虹だ!」
「吉兆ですよ、あなた! 聖龍さまのご加護があるのだわ」
吉兆?
レモリーの精霊術だ。
ロンレア伯爵夫妻は御者台の方に行って歓声を上げている。
馬車の速度はゆるい。
この速度ならば、降りても大丈夫そうだ。
おれはこの隙に檻から出て、両手と両足のひざを使って馬車から転がり降りた。
レモリーら3人を乗せた馬車は、虹をめがけてゆっくりと走っている。
俺は街道外れの草むらまで這っていき、ひとまず身を隠した。
ゆっくりと遠ざかる荷馬車。
その時、声が聞こえた。
「さようなら直行さま。もう二度と会うこともないでしょう……」
風の精霊が伝えた、レモリーからの別れの言葉だった。




