16 かりそめの家族
生まれた時から青鈍は妖狐の里から隔離され数人の世話係とともにひっそりと暮らしていた。母は8本の尾を持つそれは美しい黒狐だった。9尾の側近である母はほとんど青鈍の元へはやってこない。来ても世話係たちとこそこそと話すばかりで青鈍と話すことはなかった。
世話係も彼女には冷たかった。唯一、世話係を取り仕切る雪だけが彼女の問いに忠実に応えた。あるとき幼い青鈍が皆が自分を避ける理由を問うと雪は淡々と答えた。
「あなたさまが人間との混血だからでございます」
「混血?」
青鈍は首を傾げた。
「あなたさまは妖狐と人間が子を成すとどうなるか試された子なのです。母君である漆黒様は9尾様に命じられ妖狐の姿であなたを産みました。そしてあなたさまは妖狐の血を受け継ぎここにおられる。しかしこのことは一部の者以外に知る者はおりません」
「何故、秘密にしなければならないのじゃ?」
「ほとんどの妖狐は人間を見下し、愚かな生き物だと思っております。この試みもより巧妙に人間社会に入り込み、人間を欺くためにされたこと。あなたさまには半分人間の血が流れております故、よく思わない者も多いのです」
賢い青鈍はすぐに理由を理解した。しかし青鈍には生まれた時から8本の尾が生えている。見た目は世話係たちと何も変わるところがないのに、見えない人間の血が流れていると言うだけで避けている世話係たちをいつしか彼女も嫌悪するようになっていた。雪だけが青鈍の心を許せる相手だった。
「他の者は目も合わせないのに雪は何故に色々教えてくれるのじゃ?」
雪は縫い物をしている手を止め青鈍の目を見た。青鈍は正直で綺麗なこの目が好きだった。
「妖狐に死はありません。あなた様はこれから気が遠くなるような年月を生きなければならない。私はあなた様が生きるために必要な情報を世話係として与えているのみでございます」
普段妖狐たちは人間の姿に化けて生活をしている。雪もまた人の姿で時には人里へ下りたりもしていた。青鈍はふと新しい疑問が浮かんだ。
「母上が妖狐の姿で生んだ子が私なら人間の姿で生んだ子もいおるのか?」
雪はいつものようにすぐには答えなかったが、ゆっくりと頷いた。
「ええ、おります。人間として生まれた子。それはあなた様の双子の妹君です」
雪はそれ以上何も言わなかった。しかし、その事実は青鈍にとって衝撃的なものだった。孤独な自分と同じ子がいる。青鈍は自分が心を分かり合えるのはその妹だけだと確信していた。
青鈍は妹に会いたい気持ちを募らせた。そして自分と同じように辛い目に合っているだろう妹を助けてやりたかった。ある日、雪が留守をしている間に世話係の目を盗み、屋敷の外へと飛び出した。妖狐の血が濃い青鈍にとって自分と同じ血が流れた者の匂いを辿るのは造作もないことだった。
しかし、青鈍目にしたのは想像もしていないようなものだった。
橡は青鈍が持っていない物を生まれた時から全て与えられている少女だった。
「橡は本当に才がある。男だったら跡取りにしていたよ」
橡と呼ばれた少女が作った土人形を手に父親が目元をゆるめた。父親は焼き物を作る仕事をしていた。すると橡は駄々をこねるように抱きつきながら父親に甘えた。
「お父様、私ね、男の子のふりをするから跡を継がせてほしいの。いいでしょ?」
「お前は私の一番弟子と夫婦になるんだ。タケヒコの妻になって好きな物を好きなだけ作ればいい」
「ええ〜、妻よりも男の子になって跡を継ぐ方がずっと楽しそう」
「橡、男の子になったらかわいい髪飾りはつけてあげませんよ」
そう言いながら橡の長い髪を優しく指ですいたのは母だった。陰から見ていた青鈍の心に醜く黒い感情がざわめく。母は青鈍が見たこともない優しい顔で微笑んでいた。それは青鈍が初めてみた『家族』というものだった。
それからも青鈍は世話係の目を盗んでは橡の元へと通った。橡は純粋で優しく、愚かな少女だった。その父も娘に甘く愚かで、橡に想いを寄せていた許嫁のタケヒコも愚かだった。
「君の創るものはまるで生きているみたいだ。私の妻になった後で私のフリをして作品を作ればいい」
タケヒコが言うと橡はため息をついた。
「そうまでしないと自分らしく生きられないなんて嫌気がさすよ」
「私の妻になったって君は君らしく生きればいい。君は必ずすごい職人になる。私の勘は当たるからね」
タケヒコが顔を近付けて真剣に言うので橡は頬を赤らめた。
「勘って、タケヒコはいつもそればっかり」
「でも当たるだろ」
そう言ってタケヒコは笑った。橡の周りにいる人間は愚かで、そして温かな愛情に溢れていた。
それから何年か過ぎタケヒコは正式に橡の婚約者となった。しかし2人の結婚の儀が執り行われることはなかった。橡が病に倒れたのだ。ムラでは病が流行り、橡はムラの人たちの看病にあたっていた。その病が橡に感染したのだった。ムラの誰しもが彼女を心配し、母がつきっきりで看病をした。橡の看病をしている母は青鈍が知っている母とは同じ人物とは信じられなかった。どれだけ力を尽くしても橡の命が短いことは誰の目にも明らかだった。娘のことを気に病み仕事が手につかなくなった父に橡は言った。
「父様、家族の人形を作ってください。それがあれば私たちはいつでも一緒。寂しくなんてない」
「そうか……人形は陶器で作ろう。陶器ならば土に埋まろうと海に沈もうとも永遠に私たちは一緒だ」
父は涙ながらにそう約束をした。
青鈍は怒りに震えた。
妹は何も知らず幸せなまま死んでいく。私はこの先も生きていくしかないのに。ずっと1人きりで……そんな考えが頭を巡った。
青鈍は母が身体を拭く水を換えに行ったわずかな時間に橡の寝所へと侵入した。昏睡状態の橡はいつ息を引き取ってもおかしくないほどに呼吸も微かになっていた。
「このまま死なせるものか」
青鈍は自分の尾を3本橡へと分け与えた。彼女は橡を妖狐にし延命させようとしたのだった。しかし、その代償は尾だけでは済まされなかった。青鈍はその妖力をほとんど失い、視力を失った。一方で青鈍に力を与えられた橡の顔には赤みがさし、薄くまぶたを開けた。
「あなたは?」
青鈍にはもう橡の顔は見えなかったがその声に自分の目論みが成功したことを理解し、自然と笑みがこぼれた。
「あなたの姉、青鈍よ」
ガシャンと重い物が割れる音に水音混じる。
「……なんということを……」
怒りとも絶望とも取れる気配は漆黒のものだった。
漆黒は青鈍の屋敷に妖狐になった橡を置いた。
「母様、私はもうムラでは暮らせないの?」
そう聞いた橡を漆黒は冷たく睨みつける。病から生き返った娘に漆黒は喜ばなかった。
「お前はもう死んだことになっている。私ももうあのムラには戻れぬ」
「そんな、どうして? 父上は? タケヒコだって私のことを待っているはず」
腕にしがみつく橡を漆黒は強く振り払った。
「お前は人間として死ぬべきだったのじゃ。その方が皆幸せじゃった」
橡はその言葉に気を失い倒れた。漆黒はそれ以来、橡に会いに来ることはなかった。耳をそば立てていた青鈍は愉快でたまらなかった。
「私は母様に捨てられたの?」
「お前が見てきた母上はすべて偽りの姿じゃ。妖狐は人間を忌み嫌う。母上もそう。母上はお前のことなど愛していなかった。分かるであろう? お前を本当に愛していたのは病から救ったわたくしだけじゃ」
「姉様……」
青鈍は自分に泣きながらすがる橡を抱きしめた。苦しむ橡の顔が見られないことだけが残念だった。青鈍しか頼る者いない橡はすぐに青鈍を姉として慕った。橡にとっては自らを犠牲にしてまでも救ってくれた命の恩人だった。
橡は妖力が安定しないのか長く眠りにつくことも多い。青鈍は飽きもせず朝から晩まで橡の寝顔を眺めた。青鈍は生まれ初めて満ち足りた日々を送っていた。ただ、彼女にとっての脅威はすぐ側にいた。
「橡様、自分の力を過信してはいけません」
2人の世話係となった雪はことあるごとに橡に言った。
「雪、心配してくれるのは嬉しいけれど、私は妖狐になって触れるだけで相手が欲しているものがわかるようになったの。姉様の心は本当に家族を求めている。私は命の恩人である姉様の願いを叶えたいんだ」
「あなた様の力をもってしても心をすべて知ることなど不可能です。この世の中は見えないことの方が多い。真実はいつも隠されているのです」
「雪は考えすぎだよ。家族ってとても温かくていいものなんだよ。姉様にも教えてあげたい」
橡は雪にも屈託のない笑顔を見せた。それでも雪の表情は変わらない。
「わかりました。では青鈍様の瞳を見るのだけは避けてください。あの方の能力はまだ開花しておりません。あなた様に何かあっては青鈍様もご自分を責めてしまわれるでしょう」
橡はごくりと唾を飲んだ。たしかに光を失った青鈍の瞳は引き込まれそうな不気味さがあった。
「わかった。でも姉様の能力って?」
「それはまだわかりません。ご本人も分かっておられないでしょう。妖狐の能力は時が来なければ開花しないのです。あなた様は母上に捨て置かれ疑心暗鬼になることで人の望みがわかる能力が使えるようになったと考えられます」
「そっか。雪、色々教えてくれてありがとう」
橡はそれ以来、青鈍の瞳を見ないように気をつけた。目が見えていなくても橡の変化には青鈍も気付いていた。
ある時、青鈍は彼女の髪をすいていた雪の腕を強く掴んだ。
「雪、余計なことを橡に吹き込んでいるな。お前は誰の味方じゃ?」
「青鈍様、私は誰の味方でもありません。お二人の世話係にございます」
雪の声はいつも淡々として感情がなく青鈍を苛立たせた。
「そうか、お前は母上の操り人形じゃったな」
青鈍は雪から距離を取り、余計に橡へと執着した。
「橡、わたくしの家族はお前だけじゃ」
「私も同じ気持ちです。姉上」
橡は青鈍の手を握る。青鈍の温もりは貪欲なまでに家族を欲し、そんな姉に橡は憐れみさえ覚えていた。
橡が青鈍の本当の心を知ったのはそれから数百年がたった日のことだった。その日、屋敷には不穏な空気が立ち込めていた。妖狐の頭領たる9尾が窮地に立っているという噂は屋敷にも届いていたがそれを信じるものはいなかった。しかし漆黒が屋敷に来るとその噂は現実味を増し、屋敷は不安に包まれていた。
「久しいの、青鈍」
屋敷を訪れた漆黒が会うことを許したのは青鈍だけだった。
「母上、元気そうで何よりでございます」
「母上か」
漆黒はふっと息を漏らして笑った。
「私がここへ来たには理由がある。先日9尾様が子を産み、その力を娘君に存分に分け与えた。そのため9尾様はお力を回復するため800年の眠りにつくという。だが人が森や山に手を加え初め、その力の源となる大地の力はこれからも失われていくだろう。このままでは800年でそのお力が回復するのは難しい。それ故に『始まりの妖狐』のひとりである私が9尾様へと還り力をお返しすると決めたのじゃ」
青鈍は少しの沈黙の後、静かに口を開いた。
「お還りになるとは……つまり母上は消え去るおつもりですか?」
「そうじゃ。だがその前に少しばかり私の力をお前に分けてやろうと思ってな」
漆黒はそう言うとその手で青鈍のまぶたに触れた。その手は温かく、光を失った瞳にほのかに灯が灯る。すると見えてきた映像は青鈍と漆黒が向き合う姿だった。
「お前は今、庭の桜を通して私たちを見ている。私の能力は植物を通して視界を得る千里眼じゃ。視力を失ったお前には目の代わりになるじゃろう。だがあまりその能力を使っていると植物と身体が同化し動けなくなる。本当に見たいものだけを見ると良い」
漆黒が手を離すと青鈍は床に指をつき頭を下げた。
「母上、誠にありがとうございます」
「気にするな。お前には母らしいことを何一つしてやらなんだ」
青鈍は顔を下に向けたまま、今得たばかりの能力で母の顔色を伺った。
「では橡にも何かご用意が? 橡は母思いですのできっと喜びます」
橡の名が出ても漆黒の表情は少しも変わることはなかった。
「私がこれ以上ここに留まる理由はない」
それが漆黒の答えだった。その時、部屋の外が慌ただしくなり、世話係たちの慌てふためく声が聞こえてきた。
「やめて下さいませ、橡様! 今行けばお咎めを受けるのは私たちでございます!」
「うるさい! 離せ! 母様!」
漆黒に会わぬよう世話係に抑え込められていた橡は世話係を退けて部屋へと押し入った。漆黒と橡の視線が一瞬交わったかと思うと漆黒の氷のように冷たい目が橡を拒絶した。それでも橡は愛された過去を信じて母にすがった。
「母様、どうして私を避けるのですか? 私も姉様と同じようにあなたの血が流れる娘です! 私にだって会う権利があるはずです」
泣き叫び訴える橡を漆黒は無視した。
「青鈍、橡にも何かやるのかと問うたな」
「はい」
「橡はとうの昔に死んでおる。死んだ娘にくれてやるものはない」
「では母上にとって橡は屍とーー」
青鈍が輝く目でいいかけるのを漆黒は手で制す。青鈍は思わず口をつぐんだ。
「用は済んだ。雪、あとは頼んだぞ」
すると誰もいない壁からするりと雪の姿が現れ「御意」と頭を垂れた。そして漆黒は狐の姿となり屋敷を去っていった。
橡は膝から崩れ落ちた。
「どうして? これが最後の別れかもしれないのに」
すると青鈍が橡の疑問に答えた。
「可哀想な橡。妖狐になっても人間として生まれたお前が心底嫌いなのじゃ。母上は目の前にいるお前を死人と言い切りよった」
青鈍は目を閉じ鼻から息を吸う。橡から放たれる甘い不幸の香りに顔が綻ぶのが我慢できなかった。青鈍は橡の姿を見ようと目を見開く。すると耐えきれずに笑い声を上げた。橡は顔を上げ醜く歪んだ顔で嗤う姉の姿を見た。
「姉様、何が面白いの?」
青鈍は焦点の合わない瞳を橡の声の方へと向ける。
『よかったのう、橡。お母様はそなたを無視していたわけではない。そなたが見えてすらいなかったのじゃ』
青鈍の嗤い声が頭に響くたびに橡の呼吸は大きく乱れ、手が大きく痙攣を始める。
『これがあの優しい姉様? おかしい。何かがおかしい……』
気が動転し今までの記憶がフラッシュバックした。信じて疑わず握った青鈍の手。そこから流れこんでくるのは異常なまでの家族への憧れ、渇望、そしてそれを手にしている橡への嫉妬。橡は青鈍の願いに隠れた自分への憎悪を見た。
「橡様、落ち着いてください。ゆっくりと息を吐くのです」
制御の効かない身体を鎮めたのは雪だった。背をさする雪の手に合わせて呼吸をすると橡は少しずつ冷静になっていった。
「あの時死んでいれば私はこんなに苦しむこともなかった。それを知っていて私を妖狐にした。あんたが私の家族を壊したんだ」
もう橡の目に輝きはない。睨みつける橡に青鈍はにっこりと笑っていた。
「わたくしを除け者にしてお前は十分に幸せだったじゃろう? だから今度は妹のお前がわたくしを幸せにしなければならないのじゃ。大丈夫、お前の姿が見えなくてもわたくしはお前を見離したりしないぞ。母上がいなくなれば2人きりの家族じゃからな」
橡はぞくぞくと自分の背が凍りつくのを感じた。
「あんたと家族だなんて冗談じゃない」
庭の土がひとりでに盛り上がり馬の形へと姿を変えていく。
「何をする気じゃ、橡」
橡はそれに飛び乗ると屋敷の壁を飛び越えて脱走をした。遠くなっていく馬の蹄の音に妖狐に戻りかけた姿になって狂ったように叫んだ。
「橡! 待て! どこへいくのじゃ!? わたくしを置いて行くな! 橡がみえぬ!! 橡だけが見えぬのじゃ!」
闇雲に追おうとした青鈍の体は関節が木の枝のように硬くなっていた。
「くっ、何故じゃ……」
「青鈍さま、漆黒様のお力を使いすぎたのでございます」
雪は自由を失った青鈍の体を抱きとめた。
「いやじゃ、もうひとりにはなりとうない」
雪の肩越しに息を潜めていた世話係と目が合う。
「ヒッ」
世話係は恐怖のあまり息を呑んだ。青鈍の瞳は空っぽの黒い穴だった。
「青鈍様、大丈夫です。あなたは1人きりではない」
雪は橡にそうしたように青鈍の背も撫でた。しかし青鈍の目は世話係に釘付けになっていた。
『汚らわしい。雪の奴、漆黒様の娘だからって人間との子に媚を売って』
嫉妬を含んだねっとりした声が響く。青鈍と目が合った世話係の前には真っ黒な狐の姿があった。
「雪に嫉妬をしているそれはお前の心か?」
「わ、私ではございません! 断じて私の心ではありません!」
世話係は焦り黒い狐から後退りをすると黒い狐は寂しそうに耳を垂らした。
「そうか、ならばわたくしがお前を引き受けよう。おいでわたくしの中に」
青鈍が言うと黒い狐は青鈍の瞳へと吸い込まれていく。黒い心を失った世話係は生気なくうなだれていた。青鈍はにやりと笑う。
「青鈍様……」
雪は青ざめて目の前で起きたことを見ていた。
「雪、今わかったぞ。これがわたくしの能力じゃ。橡を私の心の中に閉じ込めれば、わたくしたちはずっと一緒じゃ。家族は一緒にいなければならぬのじゃ。のう、雪、お前もそう思うだろう?」
雪は伏し目がちに答える。
「青鈍様、雪には家族がいたことがありませぬ故、わかりません」
「相変わらずつまらぬ女じゃの」
「申し訳ありませぬ。しかし雪はこれからも青鈍様と共にと思うております」
「ふん、何を当たり前なことを言うておる。安心するがいい。飽きるほどそばにおるお前の心など、願われたとしてもいらぬわ」
2人のすぐ近くでは心を抜き取られた世話係が「青鈍様」と繰り返し呟く声が聞こえた。
「はい、雪はいつまでも青鈍様のおそばに」
雪は震える青鈍の身体を抱きしめてその髪を優しく撫でていた。




