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07.手のひらの感触(1)(side:ヴィンセント)

「セセリア様がメイドとヘラートへお出かけになられたようです」


 ブラッドからそう報告された俺は、「そうか」とだけ答えた。事前に許可を求められていたので知っていたからだ。

 無論、二つ返事で許可した。侍女もともなわずにハズウェル侯爵領へ嫁いで三日も経てば、息抜きくらいはしたくなるだろう。ついでに侍女の選考も兼ねているのだと思えば、邪魔しては悪いというものだ。

 ただ、セセリアには内緒で後をつけてみようと思ってはいた。ブラッドに言えば「悪趣味ですね」と言われかねないので黙っていたのだ。


 しかし、そこへ予定外の訪問者が現れてしまった。対応している間にセセリアはさっさと出かけてしまい、来客を丁重に見送った頃には太陽の角度が変わるほど時間が経っていた。

 いまから行って追いつけるだろうか。一抹の不安を抱えつつ、俺は馬を走らせた。

 ヘラートの町へ足を踏み入れる手間でいったん馬を停め、木陰の裏で変化の魔法を唱える。万が一セセリアに見つかったときのための用心だ。

 変化の魔法は変身後の姿を細部まで、それこそ肌の日焼け具合や体毛の生え際まで立体的にイメージし、魔力を練り上げなければならないので存外難しい。

 ゆえに俺はいまのところ「ルーカス・リット」と名付けた黒髪黒目の地味な男にしか化けられない。もう一人も練習中ではあるが、まだ完成度が低いので見る者が見れば魔法で化けたのが丸わかりだろう。実戦に使うにはほど遠い。


 適当な宿で馬を預けると、さっそくセセリアたちを探すことにする。

 ヘラートの町は広い。ここから歩き回って探し出すのは現実的でない。それで探知魔法用にセセリアの枕についた抜け毛(ブラッドには悪趣味だと言われた)をハンカチに包んできたのだが、それを懐から取り出す前に大きな声が響いてきた。


「おい、あっちで喧嘩だってよ!」

「はあ? そんなもん、珍しくもなんともねえだろ」


 風体を見たところ、運河に停泊している商船の船乗りのようだった。浅黒い肌が赤らんでいるのは、日焼けと酒の影響だろう。

 会話の内容も聞きとがめるようなことではない。そう思ったのだが。


「それがよ、美人のねーちゃんがすげえ強くて、大の男をバッタバッタとぶっ飛ばしてるんだと!」


 セセリアのことだと直感する。美しさと強さを兼ね備えた女性は、レムナド王国広しといえどそういるものではない。

 なぜ喧嘩になったのかは不明だが、貴族学院時代からセセリアは売られた喧嘩を残さず買っていた。随行したメイドが酔っ払いにちょっかいをかけられ、つい手が出てしまってそのまま乱闘になったとか、そんなところだろう。

 俺は船乗りに声を掛けて場所を聞き出すと、駆け足でその場へ向かった。

 かくして、俺が到着したときには既に喧嘩とやらが終わったあとだった。

 野次馬たちを掻き分けて円の内側へ向かうと、ごろつきのような風体の男が二人地面に伸びており、その奥で若い女がもう一人の男の胸ぐらをつかんで膝立ちの格好にさせていた。何やら聞き出していたようだ。


「……そう。ご苦労様」


 女は若草のような緑色の双眸を妖しく光らせ、薄い唇を不敵に歪ませる。

 やはりセセリアだった。ただし――顔だけ見れば、だ。

 言語化するのは難しいが、どことなく俺の記憶にあるセセリアにはなかった冷酷さがにじみ出ているような気がしたのだ。二年にも渡る魔物討伐遠征中に身についたものだろうか。ときには酷薄な判断を下せなければ、騎士団長代行はつとまらない。

 セセリアは男の胸ぐらから手を離した。どさりと地面に崩れた男など見向きもせず、集まった野次馬たちを悠然と見渡し、にっこりと令嬢然とした微笑をひらめかせる。


「見世物ではありませんわよ。おひねりも結構」


 見れば、彼女の足元に銅貨が何枚か転がっている。金を投げたくなるほどの戦いぶりだったということか。俺もこの目で見てみたかったものだ。

 困った人たちね、と言わんばかりに苦笑していたセセリアが、ふとこちらに眼差しを向けた。視線がかち合う。魔法で変化していることも忘れて、思わずぎくりとしてしまった。


「……失礼。差し出がましくなければ、傷の手当てをさせていただきたい……治癒魔法を使えるので」


 とっさに言い訳したくなって、つい申し出てしまった。彼女の指先から血が滴っているのが見えたのも影響した。

 セセリアは指摘されてはじめて指先の怪我に気づいたようだった。爪の割れた人差し指を眺めて、心底残念そうに眉尻を下げる。


「あらやだわ。せっかく侍女がきれいに磨いてくれたのに……」

「治療しましょう。どうぞお手を」


 俺はうやうやしいそぶりで手を差し出す。

 セセリアは「お願いね」と言ってその手を俺のそれに重ねた。指先から伝わる肌の感触に違和感をおぼえたが、俺は表情筋を抑え込んだ。呪文を唱え、もう一方の手のひらをかざして魔力を注ぐ。ぽう、と小さな光が生まれ、みるみるうちに爪が修復していった。

 最後にハンカチを取り出して血を拭うと、傷はきれいさっぱり消え失せていた。


「どうもありがとう、親切な御方。お名前をうかがっても?」

「……ルーカス。あなたは?」

「セセリアよ」


 短く答えると、セセリアは身を翻した。

 野次馬たちは彼女を地上に降臨した女神を見るように眺めていたが、その女神のご退場を察するとささっと避けて道を空けた。その間をセセリアは泰然とした足取りで歩いて去っていく。

 いい女だの尻もいいだの勝手なことをつぶやく野次馬たちを無視して、俺は彼女の後を追いかけた。声をかけるでもなく、一定の距離を築いて尾行する。

 が、裏通りに入ったところで行く手を塞がれた。

 外套のフードを目深に被った人物だった。体格からして男だろう。フードの下から、金を帯びた鋭い眼差しが向けられる。


「彼女に何か?」


 視線が、彼女に近づいたらただではおかないと語っている。潮時か。

 俺はいかにも軽薄そうに両手を挙げて苦笑して見せた。「ルーカス・リット」は俺と違って軟派な設定だ。


「別に。ちょっと食事に誘いたかっただけだ」

「やめておけ。彼女はおまえごときが釣り合う相手ではない」


 その口ぶりから、彼女に対する深い敬意と信頼が感じ取れた。この男がアーチボルト騎士団で副官だったという男だろうか。


「そうだな。高嶺の花は、遠くから眺めるにかぎる」


 俺はそう告げて踵を返した。

 しばらく見張られているようだったので、まっすぐに馬を預けた宿を目指す。慎重に歩を進めながら、俺は右手を持ち上げて手のひらを眺めた。ここに重ねられた手の感触を思い出す。

 彼女の手には、剣だこがあった。

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