妖精の至宝
フィリスフィアの執務室へ戻る途中、ランティシュエーヌは近付いてくる気配に足を止めた。そして時間の余裕を計算する。
この後は、フィリスフィアの執務室で財務担当の執政官からの報告を受ける予定だ。
財務担当はいつも多忙で、恐らくこちらに来るのはギリギリになるはずである。それならば、15分程度の時間はある。
そう判断したランティシュエーヌは少し前を歩く、自身の唯一に声を掛ける。
「フィア」
「ランティ?」
二人きりの時にしか呼ばない名を口にすると、美しい白銀の髪の毛をふわりと翻し、水色の瞳で見上げる。
たった一人にしか許していない名を呼び、真っ直ぐこちらを見るその眼差しに、胸が歓びに打ち震える。しかしそんな様子は一切表には出さず、なんてことないように告げる。
「少し用事が出来ました。次の予定までには間に合わせますので、先に部屋に戻っていてください」
「……エルスターク殿かしら?」
「ええ」
「シシィのこと、よね? それならわたくしも……」
「いえ。フィアは部屋でお待ちください」
フィリスフィアの言葉を遮ってランティシュエーヌは首を横に振る。
どうしても、エルスタークとの交渉にフィリスフィアを同席させたくなかったのだ。
妹思いのフィリスフィアは、不服そうにじっとランティシュエーヌを見つめる。
ランティシュエーヌも若葉色の瞳に甘やかな色を乗せて見つめ返すが、意見は変えるつもりはなかった。
しばらくして諦めた様にフィリスフィアが息を吐く。
「分かりました。わたくしは部屋で待っています」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げてフィリスフィアを見送り、ランティシュエーヌは背後へと体の向きを変えた。そして先程までとは打って変わって冷たい眼差しで廊下の角へと視線を送る。
「それで、要求は何ですか? シシリィア様のことでしょうが」
「守護妖精殿は話が早くて助かるな」
そう言いながら姿を現したのは、予想通りエルスタークだった。
この男の持つ強い魔力の不快感に、背中の翅を少し揺らす。
普通、この世界に暮らす者が持つ魔力は、魔力の扱いに長けた魔人族と言えども妖精族には遠く及ばない。
しかしこの男は、妖精族であるランティシュエーヌからしても脅威だと思うほどの魔力を持っている。大切な守護を与えた存在を、側に寄らせたくないと思うほどに。
そんな男でも、闇の妖精がシシリィアを狙っているとなれば、楽観視は出来ないのだろう。
いつものどこか飄々とした態度ではなく、真剣な空気を纏っている。
「王宮への滞在の許可が欲しい。シシィの側に居れるように」
「……説明はしないつもりですか?」
「必要ないだろう。余計な不安を抱かせるだけだ」
「本人が知っていることで取れる策もあると思いますが」
「守り切ればいいだけの話だ」
どこか頑ななエルスタークに、ランティシュエーヌは小さく息を吐く。
闇の妖精がシシリィアを狙う理由は、彼女の生来の性質によるものだ。知ったところで何かを変えられる訳ではなく、悩みが増えるだけだろう。
エルスタークの言うことも理解できる。
だが、恐らくシシリィアへ説明したくない本当の理由は、別だろう。
ワインレッドの瞳をひたり、と見据える。
「本当は、怖いのでは?」
「何を言っているんだか」
「シシリィア様に、その性質に惹かれて近付いたんじゃない、と信じて貰えないのが怖いのではないんですか?」
そう告げた瞬間、荒れ狂う魔力を叩きつけられた。
しかしランティシュエーヌは守ることにかけては突出した能力を持っている。ひらり、と青緑色の翅を揺らして周囲に守護の魔術を掛けてエルスタークの魔力を往なす。
「図星を突かれたからと力に訴えるのは、感心しませんね」
「……五月蠅い」
唸るように低く言うエルスタークに、ため息を零す。
結構この男も面倒臭い。
「まぁ、良いでしょう。王宮に滞在出来るよう手配をします。ただし、間違ってもシシリィア様へ夜這いなどは行わないように」
「するわけないだろう!」
「どうでしょうか?」
首を傾げてエルスタークを見遣れば、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
強引にシシリィアに迫っているようで、実際のところ本気で嫌がられるようなことはしない男だ。そこは、多少信頼している。
例え王宮に滞在させたからと言って、フィリスフィアが悲しむような事態にはならないはずだ。
「まぁ、シシリィア様に頷いて貰える日が来ると良いですね」
「五月蠅い。未来もないのに、囲い込んでいるような妖精には言われたくない。…………妖精と人間の隔たりは、大きいぞ」
真摯な表情で落とされた言葉に、ランティシュエーヌは瞳を伏せる。
姿形は近くても、妖精界で生まれ育つ妖精と、この世界で生まれ育つ人間などの種族は根本が違うのだろう。たとえ夫婦となったとしても、子を生すことは出来ない。
それは、昔から知られていることだ。
だが、ランティシュエーヌは既に唯一を定めてしまった。己にも、そして何よりも、フィリスフィアのためにはならない。
そんなことは分かっているが、この執着はそう簡単に捨てられるものではない。
そうやって何年も過ごしてしまっているのだ。
今更、他人から指摘される必要もない。
「そんなこと、知っています……」
ぽつり、と落としたランティシュエーヌはの呟きには、悲痛な色が滲んでいた。




