悠希の訪問と、悪意の嘲笑
「それで……、やっぱり、昨日も駄目だったの? ほのか先生」
茶封筒の件から二日後、私の担当する教室へと子供達を引き連れて遊びにきたのは隣のクラスの透先生。征臣さんのお父さんとの事を聞いている彼は、こうやってマメに気を遣いに来てくれる。
そして、透先生の予想通り、昨日の日曜日全部を使っても、征臣さんのお父さんは折れる事なき鋼の心で私達を一刀両断してしまった。
その上、獅雪家の自宅に婚約者候補となる女性達を呼び寄せ、お茶会の模様を繰り広げていたという始末。勿論、征臣さんが激怒して全員追い返してしまった。
固く鋭い鋼にも、きっと柔らかな部分があるはず! そう信じて、粘って粘って、粘りぬいたけれど、昨日は惨敗だった。
仕事を辞めないのであれば、新しい婚約者探しも、征臣さんを外国に行かせる話も取り消さないの一点ばり。幼少期に負った傷の深さが、予想よりも遥かに酷いかもしれない。
「どこか……、征臣さんのお父さんの考えを少しでも変えられる点は」
「確か、征臣さんのお父さんのお母さんって、離婚してるんだよね? じゃあ、その人に協力を求める、とかどうかなぁ」
「いえ、それは……」
仕事を選び、家を出て行ったお祖母さん。
もし、まだ生きているとして、対面した場合……。
あぁ、征臣さんのお父さんが幼少期の恨みを毒に変えて吐き出しそうな気しかしない。
いや、大穴の可能性で、実はお母さんに会いたくて堪らなかった征臣さんのお父さんが涙を流して喜ぶ、とか……。全然想像出来ない。はぁ。
「元気ないね……。ほのか、大丈夫?」
「いえ、すぐに立ち直りますからご心配な……、え?」
今声をかけてきたのは、透先生の声ではなかった。
私の傍で腰を屈めている透先生も、私と同じように目を丸くして固まっている。
室内で寛ぐように座り込んでいる貴方は誰? 帽子を被った……、黒髪の男性。
ただ、私の顔を覗き込んできた彼の瞳だけが……、知っている誰かを彷彿とさせるもので。
「と、透先生!! 今すぐに室内のカーテンを!!」
「ラジャー!!」
「「「「ラジャー!!」」」」
有難い事に、子供達も一緒になって窓のカギを閉め、カーテンを引き始めてくれた。
太陽の光を遮り、一気に薄暗くなる室内……。
「悠希さん……、来ちゃ駄目だって、言われているはずでしょう?」
「……ごめん。迷惑なのは、知ってた。でも、……、ほのかに、会いたくて」
「さりげなくオイシイフラグを立てようとするなあああああ!! 悠希君!! 駄目だからね!! ほのか先生は、征臣さんのお嫁さんになるんだから!! あぁ、でもっ、チャンスがあるなら、俺ももう一回だけ頑張ってみたい!! ぎゃん!!」
「「「とおるせんせい、うるちゃいの~!!」」」
全力タックルで透先生の膝裏をカックンした子供達が、しーっと小さな人差し指を口の前に沿える。透先生……、子供達の方が空気を読んでますよ。
けど、本当に何故ここに悠希さんが……。会いたいと思ってくれるのは嬉しいけれど、パパラッチの存在もある。迂闊な真似は避けるべきなのだ。
まぁ、髪を切って黒く染めているし、格好も前とは違って少年的な……、ん?
「あの、悠希さん……。髪はどうしたんですか!? あの長くて綺麗な銀髪はっ」
「邪魔だから切った。色も、元に戻した……。そうすれば、ほのかに会えると思って」
何故こんなにも懐かれているのか……、今でも不思議なのだけど、悠希さんに悪気はないのだ。
ただ、私に会いたくて、会える方法を探して、大事な髪を切ってしまった。
薄暗闇の中で肩を落として気落ちしている悠希さんを、子供達がポンポンと叩いて慰めにかかる。
「ほのかせんせ~、おとこのこのきもち、ないがちろにしちゃだめよ~」
「ゆうくん、かわいそう~」
「「「かわいそう~」」」
あっという間に、子供達によって庇護を得た悠希さんが、うるりとした視線を向けてくるのがわかった。はい……、私に折れろって言いたいんですね? もうっ……。
教室の電気を点け、ようやく明るくなった室内でお遊戯の続きを再開する。
悠希さんの前に黄色い折り紙を置き、あくまで仕事のついでだと言い含めてみると、天使のような愛らしい笑みが返ってきた。、ま、眩しい!!
私と同じように、透先生も目を手で覆い、子供達も真似っこをしている。
「ほのか……」
「なんですか?」
「傍にいても、いい?」
有名アーティストに涙ながらに頼まれて、断れる猛者がいるだろうか。
少なくとも、私は保護を待つ子犬仕様の彼に逆らえなかった。
タイプは異なるけれど、悠希さんは透先生と同じように、弟のように可愛く感じられる存在だから……。それに、鈴城家に届いている嫌がらせのような写真に関しても、責任を感じてくれているのだろう。最初の一枚は、私と彼のツーショット写真だったから。
「こうしてれば、……パパラッチも来ないし、隠れていれば、ほのかと一緒にいられる」
「悠希く~ん!! お触り禁止だからああああ!! ほのか先生にラブ・オーラ出しちゃ駄目だからああああ!!」
「ほのか……、もう少しくっついてもいい?」
「駄目に決まってるだろうがああああああ!! あぁ、もうっ、俺、こんなの知られたら征臣さんに崖から蹴り落されちゃうよ~!!」
確かに、征臣さんがこの場にいれば、悠希さんはポイッと外に投げ捨てられた事だろう。
もう弟というか、御主人様にぞっこんなわんこにしか見えない気もしてくる。
歳の割に幼いアーティスト……、歌っている時の彼は性格も振る舞いも違うのに、無防備になっている時は、まるで幼子のようだ。周囲にいる子供達と何も変わらない。
折り紙を様々な形にして遊びながら、結局悠希さんは子供達のお迎えが来るまで幼稚園に居座った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ほのか先生~、あとで一緒にご飯行きません? 久しぶりの恵太さんの鍋料理が食べたくなったんですよ~」
「ふふ、じゃあ、蒼お兄ちゃんが迎えに来てくれたら三人で行きましょうか」
「わあ~い!! な~べ、な~べ!!」
テンションが高いのだか低いのだか、透先生は一日の疲れてぐったりとしながら鍋コールをしている。悠希さんの天然な言動が気疲れの原因なのだろうけど、子供達も楽しんでいたし、特に問題はなかった。出る時も慎重にしながら帰って行ったし、パパラッチが現れる事もなく……。
大変だったけれど、充実した一日だったように思う。
鍋屋・勝に連絡を入れ、部屋をひとつ予約し終わると、私は帰り支度を済ませた透先生と一緒に幼稚園の玄関までやって来た。
「あれ、なんか落ちてますよ。……うげっ、何だこれ!!」
玄関を出た透先生が花壇の隅に見つけた茶封筒……。
ぞくりと、強烈な悪寒が全身を駆け巡る。
まさか、土曜の夜と同じ物が入っているんじゃ……。透先生が中身を取り出すと、それが地面へと無造作に散らばった。今度は写真じゃない。
けれど、真っ白な紙に殴り付けられたかのように綴られたその恐ろしい文字は、憎悪の念と共に、私の名を書き綴り、怨嗟の言葉を並べ立てている。何十枚、いや、百枚以上あるのかもしれない……。
透先生があたりを見回してくれたけれど、不審な人物の影はない。
鈴城家だけでなく、今度は幼稚園にも? 一体、誰が……、こんな事を。
しかも、憎悪の言葉だけでなく、茶封筒の中にはカミソリまで仕込まれていた。
うっかりそれに触れてしまった透先生が、自分の事よりも顔面蒼白になっている私を心配し、肩を支えてくれる。
「これ……、警察に通報した方がいいレベルだよ。悪戯とか、そういうのの度を越してる」
言いたい事があるのなら、どうして直接会ってそれをぶつけてくれないのか。
遠回しに精神だけを殺がれていくかのようで、酷く気色悪い。
透先生に支えて貰いながら紙を集め、私はそれを茶封筒に直し園内へと戻る。
すると、残って仕事をしている先生が、私を手招いた。
電話が入っている、と……。友達だから、繋いで貰えばすぐにわかる、と。
嫌な予感が収まらない。でも、逃げたくはなかった。
受話器を耳に当て、最初の一音を紡ぐ。
「も、もしもし……」
『あははっ!! アンタの顔、マジ傑作だったわ~!! ねぇ、いい加減に身の程を自覚しなさいよ。この不細工!! さっさと消えちゃぇええええ!!』
「――っ」
人を平気で嘲笑う、加工がかけられた君の悪い声。
喋り方から見て……、年若い女の子のような気がしたけれど……、彼女が犯人なのだろうか。
人を傷つける事も、心を踏み荒らし嬲る事も、彼女は心底愉しんでいる気がする。
「ほ、ほのか先生っ、大丈夫!?」
「はぁ、……はぁ、は、い」
「鈴城先生、今の電話……、こっちにまで聞こえてきたけど、警察に連絡しましょうか。ちょっとあれは」
「いえ……。通報は、しないでください」
早く、早く、蒼お兄ちゃんと会わなくては……。
身も知らぬ、どこの誰とも知れない彼女。あの子は……、自分のやってる事に罪悪感が一切ない。
自分のやっている事は当然の行動だと、何かを根底から勘違いしている人種だ。
悪意をバラ撒き、どんどんエスカレートしていく。
暫く幼稚園内にある保健室で休ませてもらい、私は三十分後に遅れて到着した蒼お兄ちゃんと透先生と一緒に、鍋屋・勝に向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ほのかちゃ~ん!! 俺の特製鍋料理食って、元気出してくれよ~!!」
「恵太義兄さん!! それじゃあ、ほのか先生を元気づける為にも、肉大盛りで!!」
「おう!!」
ぐつぐつと煮え滾るお鍋の中、透先生と恵太さんが鍋奉行となってどんどんお肉や野菜を追加していく。私の方は、部屋の隅の方で、蒼お兄ちゃんに今日幼稚園の玄関に置かれていた茶封筒の事と、電話の彼女の事を話している。
「両親の方は押さえてあるんだけどね……。あのクソガ……、こほんっ。パパラッチを雇って写真を送り付けていたのは、悠希君の熱狂的な信者。それも、金をわんさか持ってる二十歳の女の子なんだよ」
「悠希さんの……」
「その子の親に話を通してカードも押さえさせたんだけど、現金持って逃げちゃったみたいでね……。まぁ、金持ち娘なんて底が知れてるから、すぐに資金が尽きて出てくるんだろうけど。やっぱり息の根止めた方がいい気がしてきたよ……」
温厚な実兄が、本気でお怒りのご様子だ。
私はぶるりと恐怖で震えあがり、蒼お兄ちゃんの腕にしがみついて物騒な考えを宥めた。
お鍋から漂ってくる美味しそうな匂いが、ぐぅ……と、場違いな音を生み出してしまう。
「出来るなら、私の何が気に入らないのか……、話をしてみたいと思うのだけど」
「それは駄目。ああいう物騒で頭の悪い子は、ナイフとか隠し持って、わかったふりして恋敵刺しちゃう系だから。あの子へのお仕置きはお兄さんに任せなさい」
「でも……」
確かに、蒼お兄ちゃんに任せておけば何も問題はないのかもしれない。
けれど、感情のままに人に悪意をぶつけるその女の子に、私は向き合ってみたいとも、思っている。きっと、悠希さんと一緒にいた私に何か思い違いをして、それで、誤解が原因で……、おかしくなってしまった、だけ。
そう信じたくて、話せばきっとわかると……、希望を捨てられないでいる。
「ほのかは、人の愚かさを底まで知らないからね……」
「蒼お兄ちゃん?」
「ほのかああああああああああああああああああああああ!!」
頭を撫でられ、お鍋の席に戻ろうと促された矢先、征臣さんの怒声が広い和室に響き渡った。
ふ、襖の縁を握っている手が……、めりめりと扉の役目を果たすそれを悲惨な有様にっ。
恵太さんが悲鳴を上げ、征臣さんに怒鳴りつけている。
「ウチの襖に何してくれとんじゃ!! お前は!! 弁償だからな!! 結構高いからな!!」
「うるさい!! それよりも、ほのか!! 無事か!!」
まっすぐに私の方へと早足で歩み寄ってきた征臣さんが、ぺたぺた、ぎゅううううううっと、意味のわからない確認をしてくる。
もうちょっと力を緩めてくれないと……、うぅっ、い、息がっ。
「征臣さぁああああああん!! ほのか先生、本当に大変だったんですよ~!! 怪文書みたいな何十枚もの紙が入った茶封筒仕掛けられるし、電話では、変な奴に貶されまくってるし~!!」
「ほのか……、ほのかっ。……ん? 返事がない」
「お前が今抱き潰してるからねぇ……。大丈夫かい? ほのか」
流石に男性の強い力で締め上げられたら死にかねません!!
目眩を覚えながら意識を失いかけていると、征臣さんの力が緩んだ。
今度はそっと……、スーツ姿の胸元に顔を預ける形でその腕に包まれ、征臣さんの苦しそうな溜息が漏れ聞こえてくる。
「ごめんな……。お前が辛い時に駆けつけてやれなくて」
「い、いえ……。そんなに大した事じゃ。んっ」
少しだけ力を籠められ、征臣さんの大きな手のひらに頭を撫でられる。
傷つかないわけがないと、見抜かれてしまっているのだろう。
「次の日曜で……、片を付けるから、それまで……、もう少しだけ、耐えてくれ」
「日曜……? 征臣さん、それって」
訳知り顔の蒼お兄ちゃんも、怒りを堪えている征臣さんも、一体何をする気なの?
お願いだから物騒な事はしないでほしいと懇願する私に、二人は凶悪なまでに美しい笑みを浮かべた。
「いいかい? ほのか……。悪い事をしたら、お仕置きは絶対なんだよ」
「別に殴ったり蹴ったりの何かじゃねぇから安心しとけ。……まぁ、再起不能になるだろうけどな」
「それぐらいやらないと、反省しないだろうしね。まぁ、それでも反省しなかったら……、俺も容赦なしのさらに上をいくお仕置きをしてあげるけど」
「け、恵太さ~ん!! 透先生~!! 蒼お兄ちゃんと征臣さんが怖いんですけど~!!」
そう叫んでみても、助けの手は伸びてこない。
それどころか、悟りきった遠い目で、恵太さんが肉を頬張りながら一言。
「知らない方が、幸せだぜ……」
「ですよね~……。俺もそう思います」
透先生まで一緒にお肉をもぐもぐしながら、どこか別の世界を見てるぅうううううう!!
一体何なの!? 本当にあの二人はこれから犯人の人に何をしようとしているの!!
けれど、私のその問いに答えてくれる人はおらず、恵太さんの奥さんである梓さんが来てくれて、ようやく恐ろしい気配と達観したそれが和らいだのだった……。
次の日曜日……、本当に何が起こるんだろう。はぁ……。




