第26章 最後の謎
「ねえ、十九年前に彩佳さんが鉄雄さんを殺害した動機とトリックは?」
車に戻る途中、私は訊いた。
「あれ? 話の中で言ってなかったっけ?」
「ひと言も触れてない」
そっか。と理真は立ち止まって、
「動機はね、神谷辰樹さんのことよ」
「神谷辰樹って、確か、鉄雄さんの友人で、彩佳さんと妹尾真奈さんの家庭教師をやっていた」
「そう。この神谷辰樹さんって、女性だったの」
「えー!」
「間違いない。戸籍を確認した」
「朱川さんの手記の中で妹尾さんが語ったところによると、神谷辰樹さんは鉄雄さんの隠し子で、母親は辰樹さんの父親が誰か、決して教えなかったとか。でも、辰樹さんは自分の父親が志々村鉄雄だと、知人に教えられた。それを知って直談判しにいくと言った辰樹さんを、母親は絶対に行くなと止めたんだったよね」
「そうね。娘が鉄雄さんに会いに行くことを心配したんじゃないかな」
「どうしてなんだろう」
「鉄雄さんは大の女好きで、妻の昌子さんも苦労させられていたと」
「それって、もしかして……」
「そう。もし、娘の辰樹さんが父親である鉄雄のところに行ったら、辰樹さんも鉄雄の毒牙に掛かってしまうのではないか、と」
「そんなことって! 親子だよ?」
「由宇、過去に起きた不可能犯罪にも、そんなケースは山ほどあるわよ」
「うーん……確かに。でも、辰樹さんは結局、母親には内緒で鉄雄のところに談判しに行ってしまうんだよね。そこで、何度かの交渉の末、鉄雄に迎え入れられて、彩佳さんと真奈さんの家庭教師をすることに……って理真、やっぱりおかしい。彩佳さんも真奈さんも、神谷辰樹さんは男性だったって証言してる」
「そう、それが答えだよ」
「……あ! 辰樹さんは、男装して鉄雄に会いに行った?」
「そうなんでしょうね。辰樹さんは、鉄雄の女癖のことなんて知る術はなかったけれど、女だと舐められる、とでも思っていたのかもね。最初は門前払いを食らったものの、理由は分からないけど、辰樹さんは鉄雄のところに入り込むことに成功している。その理由が……」
「女だとバレた。もしくは、自分から告白した?」
「辰樹さんの性格を想像するに、多分前者なんでしょうね。男装が通用したということは、鉄雄は辰樹さんの性別を知らなかったか、それ以前に、浮気相手の神谷さんに子供が出来たことすら知らなかった可能性もあるね」
「とんでもない男だね」
「うん。で、鉄雄がとんでもないのは、男装してきた神谷辰樹さんをそのまま利用したことだよ」
「どういうこと?」
「自分以外の家族、使用人たちには、神谷辰樹という人物はあくまで男性として紹介する」
「何のために……って、もしかして」
「多分ね。家庭内で堂々と辰樹さんをいいようにするためでしょうね。その見返りに鉄雄さんは当然、辰樹さんに金銭を与えていたんでしょう。辰樹さんとしても、病弱の母親を助けると思って、鉄雄さんの行為を受け入れた……」
「辰樹さんが女性だということが、孫の彩佳さんに発覚したってこと?」
「彩佳さんは、急に辰樹さんのことを恋愛対象として見ないようになったらしい、って妹尾さんが言ってたそうじゃない。だから多分。で、同時に彩佳さんは、鉄雄さんが辰樹さんに対して行っていたことも知った。子供だから、その全てを理解していたわけじゃないだろうけれど、大好きな辰樹さんを苦しめる悪い大人。普段から家庭内での横暴な態度も相まって、祖父の鉄雄さんは、彩佳さんの中で憎むべき存在になっていたんでしょうね」
「それで、殺す決意をした……」
「うん」と理真は頷いて、「事件のあった夜。彩佳さんは実は裏館にいた。彼女は鉄雄の行動パターンを把握していて、辰樹さんが島に来て泊まる夜は、必ず辰樹さんの泊まっている裏館の部屋を訪れる、と知っていたんでしょう。彩佳さんは子供の自分でも大人の隙を突いて確実に殺せる手段を考え出した。それが、二階の窓から竹竿に注ぎ足したナイフで刺し殺すという手段。彩佳さんは、裏館にあった竹竿の何本かでそれを試して、最も手頃な竿を選んだんでしょうね。だから、田之江さんが裏館で発見した竹竿にもナイフを注ぎ足すための切れ込みがいれてあった。その凶器と、鉄雄さんを屈ませるために使う雪球を持って、裏館二階の廊下で中庭を鉄雄さんが歩いてくるのを待ち構えていた」
「それって。やっぱり殺害方法は、朱川さんが推理した通りのやり方だったってこと? でも、彩佳さんは犯行発覚後、表館にいたはず。雪の上には鉄雄さんの足跡しか残ってなかったし……」
「途中まではね。二階の窓から雪球を落として鉄雄さんを屈ませて、上を向いた背中にナイフを突き刺したところまでは推理通りだった。そこからが違う。なるべく体重を掛けてナイフを深く刺そうと、窓から身を乗り出しすぎた彩佳さんは、傾いでいく竹竿に引っ張られるように窓から飛びだしてしまった。それで、ナイフが刺さった鉄雄さんの背中を回転軸に、棒高跳びというか、棒幅跳びとでも言うような体勢となって、中庭に着地してしまう」
「着地って。だから、中庭には足跡はなかったって……」
「そう。彩佳さんが着地したのは、雪が積もった地面じゃなかった。噴水を備えた人工泉の上だったの。その夜は早くに雪が止んでいたけれど、急激な気温の低下は続いていた。降り積もった雪の表面がうっすらと固くなる、凍雪になるほどね。そんな気温だから……」
「あ! 泉に溜まった水も凍り付いていた! だから足跡もつかなかった」
「そういうこと。加えて、六歳の子供の体重で、竹竿がしなってブレーキになっていただろうしね。着地の衝撃で氷が割れることもなかった。鉄雄さんの傷口は執拗に抉られたようになっていたそうだけれど、それは怨恨によるものじゃなくて、この棒幅跳びをやってナイフが動いたことによって出来たものね。それで、泉の上に着地した彩佳さんは、竹竿を引いてナイフを抜く。そのときね、ナイフが抜けて死体のそばに落ちたのは。一連の大きな動きのせいで、ナイフと竹竿の繋ぎはもう外れる寸前だったんでしょうね」
「で、彩佳さんは、裏館ではなく表館に帰ることにした」
「そういうこと。泉からなら表館裏口のほうが断然近い。表面が固い凍雪の上を、子供なら四つん這いになるか、腹ばいになって体重を分散させれば、跡を付けずに移動することは可能でしょう。足跡を付けることは絶対に避けなければならない。ただでさえ当時のあやかさんは六歳の子供。足跡が残っていれば、犯人は彩佳さんか真奈さんの二人に絞られてしまう。だから、なるべく移動距離の短い表館に帰るのを選んだ。そもそも、志々村家の家族である彩佳さんは表館に部屋があったからね。本来の計画では鉄雄さんを殺したあとは、裏館の真奈さんか辰樹さんの部屋にでも泊めてもらうつもりだったんでしょう」
「どうして、そのトリックが分かったの?」
「朱川さんの手記で、乱場くんが表館の倉庫で竹竿をみつけたって書いてあったでしょ。読み進めるうちに、その記述を思い出して、変だなって思ったの」
「どうして?」
「だって、表館は志々村家専用の建物で、使用人や家政婦は裏館に住んでたんでしょ。で、掃除洗濯といった家事は当然、使用人と家政婦の仕事。だったら、表館に竹竿があるのは変じゃない。これは、犯人が犯行後に持ち込んだものだったのではないかと。裏館にあったはずの竹竿を表館に持ち込み、かつ、雪の上に一切の足跡を残さない方法。そう考えて、さっきのトリックに行き着いたの。
で、このトリックを遂行可能な人は誰か。条件は二つ。まず子供であること。大人がこのトリックを使ったなら、いくら凍っていたとはいえ、泉に着地した瞬間に氷が割れてしまうはず。そこからさらに、いくら表面が硬い凍雪とはいえ、腹ばいになって体重を分散させたとしても痕跡を一切残さずに泉から立ち去ることは不可能でしょう。もうひとつの条件は、犯行後表館にいたこと。凶器の一部に使われた竹竿が表館の倉庫にしまってある以上、犯行後犯人が入り込んだのは表館であるはず。この二つの条件をともに満たすのは、彩佳さんしかいないってわけ」
「そういうことか」
「警察の調べで、表館の竹竿に古い血痕が付着しているのが発見され、血液型は鉄雄さんのものと一致した。それと、六歳くらいの子供の指紋も検出されて、これも彩佳さんのものと一致したわ」
「彩佳さん自身も自白したんだね」
「そういうこと。今度のことは、神谷辰樹さんも心を痛めていたわ」
「だろうね。自分を助けようと思って、たった六歳の子供が……って、理真、辰樹さんに会ったの?」
「そう。意外と近くにいて私もびっくりしたわ。灯台もと暗しって、このことね」
「近くって、どこ?」
「朱川さんたちが船に乗った温海港よ。神谷辰樹さんは元々鶴岡市の中心部に住んでいて、事件のあとすぐに結婚してた」
「その嫁ぎ先が、温海の人だってわけか」
「そう。母親の知り合いの息子さんで、漁師なんだって。神谷さんのお母様は数年前に病気で亡くなっているわ」
「ん? 温海で漁師の奥さんになった? それって、もしかして?」
「当たり。朱川さんの手記の最初に出てきた、彼女たちを島まで送り迎えしてくれた漁師、それが旦那さん」
「じゃあ、冒頭に出てきた漁師の奥さんが?」
「そう、神谷、今は名字が変わってるけど、辰樹さんよ。旦那さんからは、名前を縮めて『タキ』って呼ばれてるんだって」
「ははあ……。もしかして、志々村八重さんは、そのことを知っていてその漁師さんの島までの送り迎えを依頼したのかな」
「ううん、それはないみたい。ただの偶然よ。辰樹さんは、使用人の佐山さんか、医師の山村さんのどちらかが鉄雄さんを殺したんだとばかり思ってたそうよ。島でのことは努めて忘れようとしていたけれど、やっぱり彩佳さんと真奈さんのことはずっと気がかりだったんだって。今度、東京の八重さんと真奈さんのところに挨拶に行って、一緒に彩佳さんにも面会に行くらしいわよ」
理真の話は終わった。私は来たときとは違い助手席シートに座り、運転席には理真が乗り込む。久しぶりに握る愛車のハンドルの感触を、理真は十分に味わっているようだ。私からキーを受け取ってエンジンを掛けた理真は、
「さて、それじゃあ帰ろうか。ねえ、由宇、山形って何が名物なんだっけ?」
「来たよ! そりゃ、米沢牛でしょ」
「いいね! でも、高いんじゃない? 予算あるの?」
「あるわけねーだろ。言ってみただけ」
「何だよ!」
「でも、今の時期ならさくらんぼが季節だよ」
「そっちもいいね!」
「でしょ。さくらんぼ狩りの出来る果樹園をいくつかピックアップしててね。ここから近いところだと……」
私は携帯電話に残していた情報を呼び出した。




