第15章 雪密室
「どうだ、中庭組の様子でも見に行かないか?」
そう言って湖條が立ち上がり、私と乱場もそれに従った。
裏口を抜けて中庭に出た私は、ぎょっとして立ち止まった。裏館の玄関先に誰かが倒れていたためだ。が、しかし、
「もう少し玄関寄りですね……そう、そうです」
その直上の二階窓から顔を出した妹尾の言葉に応じるように、倒れていた人物は一旦中腰に起き上がってから、再び地面に腹ばいになる。それを左右から見ているのは、田之江と理真だった。となると当然、伏臥しているのは馬渡ということになる。
「あっ、皆さん」
私たちに気付いた妹尾が声を掛けてきた。田之江と理真、伏せている馬渡も不自然な姿勢になって顔をこちらに向ける。
「犯行状況の再現、というわけですか」
湖條の声に田之江は、「そうです」と答えて、二階の窓から指示を出していた妹尾にも、中庭に下りてくるよう頼んだ。
妹尾が中庭に戻ると、田之江は玄関からロビーに入り、屋内側から伏臥している馬渡の観察を始めた。
「妹尾さん」と湖條が、「事件が発覚したのは早朝だったのですよね」
「はい。お話しした通り、家政婦の大谷さんが裏館二階の窓から、中庭に倒れている鉄雄さんを発見したんです」
彼女の視線も俯せの馬渡に向いた。湖條は頷いて、
「鉄雄さんの姿が最後に目撃されたのは?」
「その前の晩、入浴を済ませて自室に戻るのを八重さんが見ていて、それが生きている鉄雄さんが目撃された最後だということです」
「犯人を除いては、ということですね。自室とおっしゃいましたが、鉄雄さんと八重さんは部屋を同じくしていなかった?」
「はい。お二人とも表館一階の部屋をそれぞれ使っていました」
「そうですか。その夜、関係者が表館と裏館のどちらにいたか、もう一度教えてもらえますか?」
「当時、新しい表館には志々村家の人たちが、裏館には使用人が寝泊まりすることになっていました。ですので、表館にいたのは、殺された鉄雄、妻の八重、長男一雄、妻の昌子、その子供彩佳、次男次雄の六人ですね。裏館には、使用人の佐山と家政婦の大谷、医師の山村、家庭教師の神谷、それに鉄雄の妹銀子と私が寝ていました」
「銀子さんとあなたは、志々村家の人間なのに、裏館に寝泊まりしていた?」
「はい。表館が建つ前は当然裏館しかなく、全員そこに住んでいたのです。新しく表館が建つと志々村家の人たちは皆そちらに引っ越したのですが、祖母の銀子だけは、暮し慣れたこちらがいい、と言って移らなかったのです。ですので、私がこの島に来て泊まるときも、祖母の部屋で寝ていました。以来、裏館は、ほとんど使用人、家政婦専用になり、洗濯などの家事雑務はこちらでしていたそうです」
「そういうことですか」
湖條と妹尾が話をしている間も、田之江は様々な位置、角度から馬渡を見回し、あるいは近づきしており、それには理真も加わっていた。
「ありがとうございます、馬渡さん。もう結構ですよ」
田之江から死体役のお役ご免を言いつかった馬渡は、ゆっくりと起き上がって、
「どうですか、田之江さん、安堂さん、何か分かりましたか?」
背広についた土を払い落としながら訊いた。
「はは」と少し笑ってから田之江は、「手掛かりを掴んだとしても、この場で口にするわけがないじゃありませんか」
今やこの場にいる探偵全員がライバル、ということなのだろう。田之江が事件解決の折りに支払われる報奨金目当てなのは明白のようだ。やはり、彼は影浦から恐喝を受けていたのだろうか? そんな田之江の様子を、湖條は複雑そうな表情で見ていた。
「死体役までやったのに」と文句を言う馬渡に、今度は田之江が代わって中庭に俯せになってやっていた。私は理真に近づいて、
「どう? 何か手掛かりは見つかった」
彼女は僅かな笑みを浮かべながら、首を横に振った。そこへ乱場も加わって、
「あの、僕、ちょっと思いついたことがあるんですけれど」
何? と私と理真は乱場を見る。二人の目を交互に見てから、少年探偵は、
「事件の日は雪が積もっていたんでしたよね」
「そうね」
「妹尾さんの話では、雪自体は夜半には降り止んでいた」
「そうも言っていたわね。だから、振り続ける雪に足跡が消されることなく残っていたと」
「妹尾さんは、こうも言っていましたよね。『雪が止んでも気温は下がり続けていて、積もった雪は表面が固い凍雪のような状態になっていた』と」
私と理真は顔を見合わせて頷き合った。確かにそんなことを聞いていた記憶がある。
「凍雪って、積もった雪の表面がカチカチに凍って固くなった状態ですよね。であれば、歩けたんじゃないですか?」
「固まった雪の上を?」
「そうです。足跡を残さないまま」
「でも」と、ここで理真が、「凍雪って、固まるのは表面だけ。上に乗られるほど中まで氷みたいに固くなるわけじゃないのよ。実際に、そこを歩いた鉄雄さんはしっかりと足跡を付けているわ」
「それは、鉄雄さんが大人だったからじゃないですか?」
「えっ?」
「もっと体重の軽い人間なら、どうですか? 例えば、小さな子供とか」
乱場の視線は、湖條の隣に立っている妹尾に向いた。
「子供……」
私の目も妹尾に向く。乱場は、いくらか声を潜めて、
「十九年前、妹尾さんは六歳だったそうじゃないですか。そのくらいの年齢の子供なら、凍雪の上に乗ることも可能なのでは? それに、当時、この島にはもうひとり、彼女と同じくらいの年齢の子供がいたそうですね」
「鉄雄の孫の、名前は確か……彩佳」
「その二人も容疑者に加えてよいのでは? 六歳の女の子であれば、平均身長は一メートル少しくらいでしょう。手を上げれば大人の背中の真ん中にナイフを突き立てることも十分可能です。動機の問題がありますけれど、ひとまずそれは置いて、犯行自体が誰に可能だったかを考えれば」
「そううまくいくかしら?」
異論を唱えたのは理真だ。彼女は続けて、
「六歳の女の子だと、平均体重は二十キロくらいでしょ。抜き足差し足で凍雪の上を足を埋めずに歩くことが可能だったとしても、犯行の瞬間はどう? 力を込めてナイフを刺す。その勢いや反動で、足が表面の固まった雪を破ってしまうんじゃないかしら?」
「うーん……。厳しいですかね?」
乱場は難しい表情になって首を捻った。
「実際に凍雪があって六歳の女の子がいれば、実験も可能ですけれどね」
理真が無理なことを言う。無論、そんな用意を出来るわけがない。
「しかも」とさらに理真は、「鉄雄さんの傷口は、突き刺したままナイフを何度も動かしたような凄惨なものだったそうじゃない。そこまでするとは……」
「小さい女の子が犯人像とは考えがたい? かなり強い怨恨の色も見られる」
私が理真の言葉のあとを継いだ。
「それもありましたね」乱場はため息をひとつ吐いて、「この事件のポイントは、そこにあるんじゃないですか? 刺したあともナイフを執拗に動かして付けられた傷。このことからも、昨日馬渡さんが言ったような、ナイフを投擲するという殺害方法は否定されます。犯人はナイフをしっかりと握って被害者の背中を刺したはず。それに、どうして凶器が現場に残されていたのかも見逃すべきではないと思います」
私は「そうね」と頷いて、
「どうして凶器を持ち去らなかったのか」
「活発な議論が交わされているようですね」
気が付くと、死体役を終えた田之江が私たちの隣に立っていた。
「今の意見も参考にさせてもらいますよ」
にやりと笑みを浮かべると、田之江は裏館の玄関をくぐっていった。今度は屋内を調べるつもりらしい。
「何だか田之江さん、人が変わったみたいになりましたね」
その背中が完全に屋内に隠れてから、乱場が言った。
「余程、報奨金が欲しいんでしょうね」
「済まないな、みんな」
田之江がいなくなると、今度は湖條が私たちの隣に立って、
「あとで私のほうから田之江さんに言っておこう」
乱場と同じように裏館の玄関に目をやった。
「いえいえ」と乱場は両手をぶんぶん振って、「僕、別に気にしてなんていませんから」
「教授と田之江さんとは、よく知った間柄なのですね」
馬渡も会話に参加してきた。「ああ」と湖條は、
「普段は飄々とした男だが、事件に対しては厳しい面を見せる。そこが彼のいいところでもあるんだが、こと今回に関してはな。今まで、こんなことはなかったと記憶している。彼は本と事件があれば人生事足りると言わんばかりの、金に執着したことなどない人生を送ってきていたはずなんだが」
そこへ、妹尾も近づいてきて、
「すみません。私、余計なことを言ってしまったでしょうか。報奨金の話は、やはり明らかにしないほうがよかったのでしょうか?」
「あなたに責任など少しもありませんよ」
湖條は妹尾に微笑みかけた。
「ああ、それと」と妹尾は、「皆さんにもお伝えすることがひとつ」
「何ですか?」
「裏館に電気が通るようになりました」
「本当ですか?」
「はい。というか、そもそもこの中庭にある発電機は、表館、裏館、双方に電気を供給する仕組みになっているんです。それが、裏館にだけ電気が行かないように発電機が操作されていたんです」
「それは、人為的なものですか?」
「そうだと思います。裏館に通じるスイッチだけが切られた状態でしたから、自然にそんなふうになるとは思えません。馬渡さんから、『裏館に電気は通らないのですか』と聞かれたので、発電機を見てみたら」
「スイッチが操作されていた」
「はい。どういうことなのでしょう?」
「……決まっています。裏館に電気を通さなくしたのは、あなたを監禁した犯人ですよ」
「えっ?」
「あなたを発見させないためですよ。実際、私たちは裏館に電気が通っていないことで、招待主はこちらを使用しないつもりでいるものとばかり思い、最初の捜索を軽く済ませてしまっていた」
湖條の言うとおりだ。裏館も使用可能な状態であったなら、私も台所のマットを剥がすくらいのことはしていたかもしれない。監禁時のことを思い出したのか、妹尾の表情に影が差した。中庭に肌寒い空気が流れる。
「お茶でも飲みませんか?」
私が声を掛けると、「ご用意します」と妹尾が真っ先に裏口に向かって駆けていった。その表情には若干明るさが戻ってきていたようだ。田之江は裏館に入ったまま出て来ない。中庭に残されたのは、私、理真、湖條、馬渡、乱場の五人。妹尾の姿が表館の中に消えると、
「監禁犯が彼女にした差し入れのことだが」と湖條が話しだし、「あれは親切心からなどではなく、明確な目的があったのかもしれない」
「何ですか?」私が尋ねると、
「彼女、妹尾さんは、やはり睡眠薬を飲まされていたのだろうな。差し入れのカレーライスやおにぎりに混入させて」
「……そうか、市販のサプリメントやペットボトルの水に薬は入れられないから」
乱場が言うと、湖條は頷いて、
「だから、我々が裏館の捜索をしたときも、彼女は眠っていて気が付かなかったのだと思う。捜索している物音が聞こえたなら、地下室の天井を叩くなりして自分がいることを知らせたはずだからな。発電機をいじって我々を裏館から遠ざけたことといい、犯人はどうしても彼女を発見されたくなかったらしい」
「それじゃあ」と乱場が、「僕たちの捜索と、彼女に睡眠薬が効いている時間がたまたま一致したということですか」
「そうだろうな。この時点では犯人が博打に勝ったことになるが、結局、馬渡くんが地下の空洞に気付いて発見された。犯人としても、出来るだけ妹尾さんの発見を遅らせられればいい、くらいに考えていたのではないか?」
「殺してしまえば早いのに……」
少年探偵がまた恐ろしいことを口にした。湖條は少し微笑んだが、理真と馬渡は表情を変えなかった。無論、私も。
妹尾に遅れて表館の広間に行くと、ちょうど彼女がお茶の用意を終えたところだった。
馬渡と理真の二人は手早く一服を終え、裏館に戻っていった。事件についての質問に答えるため、妹尾も一緒に表館を出る。湖條と乱場は広間に残り、事件について話し合っている。
「監禁が妹尾さんの狂言だとは考えられませんか?」
乱場は、まだ妹尾にこだわっているようだ。余程、彼女が殺されもせず監禁されていただけ、というのが気になるらしい。
「無理だろう」と湖條はそれに対して、「昨夜の考察にもあった通り、地下室の蓋の上には冷蔵庫が置かれていた。あれを地下室内側からどかす方法がない」
「それは僕たちがあまりに常識的な思考に捕らわれているからです」
「方法があると言うのかね?」
乱場は、こくりと頷く。少年探偵の推理を聞こうと、私も湯飲みを口に付けたまま耳を傾けた。
「ずばり、妹尾さんはあの外見からは想像も出来ない怪力の持ち主だったんです。冷蔵庫を載せたまま蓋の開閉を行えたんです」
文字に書き表せない異様な声と一緒に、私は口に含んでいたお茶を吹きだしてしまった。二人の視線がこちらに向いた。
「ご、ごめんなさい……」
私は慌てて布巾を取ると、テーブルの上にぶちまけられたお茶を拭いにかかった。お茶は思いのほか遠くまで飛んでいた。乱場の湯飲みのすぐ手前のテーブルにまで水滴がついている。私は席を立ってその水滴の上に布巾を載せて、すぐにどかした。当然、水滴は消えており、
「……」
私は布巾を持ち上げた体勢で動きを止めた。テーブルを見回す。水滴は湖條のそばにもあった。私は手を伸ばして、水滴の隣に立てるようにして布巾を持つ。そして、布巾を倒れ込ませるように水滴の上に載せ、ゆっくりと離す。水滴は布巾に吸い取られて、
「消えた……」
私はテーブルの上に布巾を投げ出すと、きょとんとした顔の二人を残して広間を出た。
中庭に出ると、すぐに馬渡の姿を見つけた。裏館の玄関ドアを開け、敷居の上に立ってすぐ手前の地面を見つめている。
「美夕」
私に気付いた彼が顔を上げた。
「ねえ」私は彼の前に立つと、「鉄雄さんが倒れていたのは、どの辺りだった?」
「あ、ああ」と馬渡は玄関を出て数歩歩いて、「この辺を頭にして俯せに倒れていたそうだ」
と玄関敷居から五十センチ程度離れた地面を指さした。
「ということは、身長分離れると……ねえ、晃平、そこに立って見て」
私は玄関から二メートル程度離れた地面を指さす。馬渡は何も聞かずそれに従ってくれた。
「こうか?」馬渡は体の正面を裏館に向けた状態で立つ。
「ええ、いいわ」私は彼に近づいていく。
「お、おい――」
「動かないで」
後ずさろうとした馬渡は私の声に足を止めた。私は彼のすぐ目の前、胸が触れてしまいそうな位置に向かい合って立つと、右手を彼の背中側に回して、とん、と拳でひとつ背中を突いた。この動作で私と彼の胸は完全に重なっているが気にしない。
「両膝を付いて」
「えっ?」
「両膝を地面につけるの。あなたは今、背中を刺されたのよ」
「ええっ?」
すぐ目の前で見上げる私の目を彼も見返してきて、戸惑ったような表情を広げる。若干頬に赤みもさしている。が、すぐに「あ、ああ」と馬渡は脚を折って地面に両膝をつける。私は馬渡の身長分程度の距離を後ずさると後ろを振り返る。玄関敷居までは五十センチ程度の距離しかない。私は少し大股になって、地面を一気に跨いで敷居の向こう、屋内に足を踏み入れた。
「そのまま倒れてみて」
さらなる私の声に、馬渡は前のめりに倒れ、地面に俯せになった。さっきまで私が立っていた地面に覆い被さるように。




