91 リスタート
「あー、せいせいした!」
ぼすん、とぬいぐるみを棚の上に置いたイザベラは、ソファーに身を投げ出して手足をうーんと伸ばした。
デリンズ辺境伯領主の屋敷――この領地で一番立派らしい建物は三階建てで、現在イザベラたちがいるのは三階の居室だった。全体的に重々しい茶色の基調。家具も漆黒に近いこげ茶で、絨毯の赤も落ち着きのある色といえば聞こえがいいけれど、どちらかというと暗い。
『ふん。自分を絶望に堕とした相手を生かしておくとは。甘い奴らだ』
棚の上から不機嫌そうなノイズが届く。ノイズの出どころは丸々とした白いぬいぐるみ。現在の魔王である。
魔王は短い手を胸の前でクロスさせたが、また下ろす。どうやら腕を組もうとしたものの、短すぎて無理だったらしい。ぺたんと垂れた長い耳がぱたぱたと棚を叩いた。
あの時。イザベラが祈ったのは、全てを認めて全てが元通りに存在すること。
結果。王も王妃も、魔族に変化していた者たち、魔族として死んだ者たちも復活した。ただし倒した魔族はそのまま消えている。
復活した者たちの記憶は黒い影に侵される前にとどまっていた。
王や王妃たちは自分たちが魔族に変化していたことも覚えていない。ジェームスとアメリアもまた、同じだったが、黒い影に浸食される直前は覚えていた。
王や王妃たちの記憶はアメリアが魔王とあって学園から去り、ジェームスとセス、イザベラを呼び寄せたところで途絶えていた。そのため適当につじつまを合わせてしまえば、魔王に乗っ取られたアメリアを勇者であるジェームスが取り戻したという、都合のいい筋書きを押し通せた。
「あら。死ぬよりもしんどいわよ。同じ絶望に叩き落してやったんだから」
罪を暴かれたモリス伯爵は、爵位を剥奪の上、終身刑で投獄。ノイズに精神をやられたらしく、王都に護送される際もずっとブツブツと言っていた。
『あの男のこともだが』
白いぬいぐるみの周りを黒い影とノイズが漂った。
『魔王と魔族さえ存在を許すなど。納得できません。それになぜ私まで魔王と同じなのです』
白いぬいぐるみの隣に置かれた黒いぬいぐるみが、ふるふると震えた。指がないので分かりにくいが、手の先がきゅっと曲がっているから、拳を握っているっぽい。
「神が魔王を信用出来ないって言ったからじゃない。私の中だと世界に影響が出やすいんでしょ。無機物だったら影響出にくいから、安心して魔王を監視出来るわよ」
『だからといって、なぜこれなのです』
「魔女と言えば黒猫じゃない」
イザベラこそアメリアを陥れた魔女であり、惜しいところで勇者に阻止された。聖女によって力を弱められた魔女は、生き長らえ勇者の仲間であるデリンズ辺境伯によって封印。辺境伯に逆らえない契約を結んで国の守護となった、ということしている。
『これは黒猫なのですか!?』
神が短い手で己を叩くと、胸だかお腹だかがぽよんと揺れた。
「猫よ。耳が三角で尻尾が長いでしょ」
『こっちの耳は長くて尻尾が丸いぞ』
「魔王のは兎だから」
『うさぎ……』
神と魔王が入っているぬいぐるみは、胸と腹どころか、顔と胴体の境目さえ曖昧。俵型のまんじゅうのようなフォルムで、目鼻と口、手足のついたクッションか枕だと言われても違和感がなかった。この世界にはない、極端にデフォルメされたぬいぐるみは、イザベラのデザイン、ジェイダのお手製である。
イザベラはソファーから腰を上げ、窓際で外を見ているセスの隣に体をねじこむ。窓枠に行儀悪く体重をかけると、目を細めた。
「清々しいほどに何もないところね」
屋敷の陰鬱な居室の窓の外、眼下に広がるのは、木。木。小鳥や動物。そして木。木。木。
ぐるっと首を回しても、見える範囲全て青々とした木々。田畑の類や家らしきものは木々が邪魔してほとんど見えない、というよりもほとんどない。そんな中、屋敷だけが立派だった。
「辺境伯といえば領域も権限も伯より上。普通はもっと発展しているものですが」
窓の外へ淡々とした瞳を向けるジェイダにエヴァンが肩をすくめた。
「裏事業の隠れ蓑ですからね。わざと発展しないよう、モリス伯爵が調整していたようです。彼が公以外で辺境伯を名乗らず伯爵を通称にしていたのも同じくです」
人身取引、違法薬物売買。魔石の鉱脈隠蔽など。モリス伯爵の裏事業は全てデリンズ辺境伯領を拠点に行われていた。
「見たこともない領主様でしたですけど、まさかそんな悪い方だったなんて思いませんでしたですぅ」
エミリーが困ったように眉を下げた。
「何言ってるのよ。貴女のご両親、少ない給料でこき使われてたんでしょ」
のんびりとしたエミリーにイザベラは呆れた。
実はこのデリンズ辺境伯領はエミリーの故郷なのである。
この領は税金が安いのはいいが未墾の地で、しかも開墾する許可が非常に下りにくい。商店の類もほとんどなく、物流の拠点にもならない場所にあるため、この領地に住みたがる者はあまりいない。
そのためモリス伯爵は、税金の安さと仕事の豊富さで貧民や難民を釣り、他の領地から連れて来ては領民に迎え、少ない給金で魔石鉱山で働かせていた。
兄弟姉妹の多いエミリーの家族はギリギリの生活で、両親を楽させようとエミリー自ら奉公に出たのだ。
「生活ギリギリの給金というのは、どこの領地でも似たようなものでございますですから。気にしてませんでしたです」
「……なるほど」
民は生かさず殺さず。それが貴族の一般なのだろうが。
「使用人たちに十分な給料を出すのはもちろん、領民たちの生活水準も上げなければいけませんね」
イザベラの隣に立ったセスが、外の景色に目を眇めた。エヴァンやトレバーなどの手を借りたものの、デリンズ辺境伯領を調べ上げ、モリス伯爵告発の手筈を整えたのはセスだ。また少し大人の輪郭に近づいたその横顔を眺めていると、青い目がこちらに向いて柔らかく笑顔をにじませる。
眩しくてつい目を逸らすと、顎に手がかかって戻される。
木々の上には青い空が広がり、穏やかな風が肌を撫でた。
完結です。
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